鏡の彼方より

東方雅人

鏡の館

 壁一面の鏡。

 そこに私が映り、その向こうに私の後ろ姿が映り、そのさらに向こうにまた私が映り――。光が届かなくなる遥か先まで、延々と私が映り続けている。合わせ鏡が生み出す無限回廊。

 ここは四方の壁と天井と床、その全面が鏡張りの部屋だ。ドアの隙間、壁と壁の僅かな継ぎ目を除き、すべてが鏡で覆われた異様な空間。

 私はそこに独り佇み、全方位に広がる無窮の世界を見渡している。


 一週間前。

 その日、都内の大学に進学し一人暮らしを始める予定だった私は、自分の部屋で荷造りをしていた。

 そこでふと壁に貼り付けてある一枚のメモが目に留まった。実家を出る前にやっておきたいことをまとめた〝やりたいことリスト〟だ。友達や恩師への挨拶、ノートパソコンの購入、銀行口座の開設……。

 達成済みの項目には打ち消し線が引かれていたが、最後の一行だけには何も引かれていなかった。

「鏡の間に入る」

 鏡の間――。

 この家には四年前、私が中学三年生の時に引っ越してきた。それは富裕層が多く住む、比較的地価の高いエリアにある。そんな高級住宅街の中にあって、この家は他より二倍も三倍も大きい。三階建ての十五部屋。両親と弟の四人暮らしには必要のない大きさだ。まったく使われていない部屋が八部屋もある。

 そんな豪邸と言って差し支えないこの家を、両親は破格の安さで購入したそうだ。この住宅街のどの家よりも安かったという。

 ここに引っ越す直前、父はその理由をこう言っていた。

「この家は近角青庵ちかずみせいあんが建てたものらしいからな」

 近角青庵が建てた家――。それが何を意味するのか、当時の私には分からなかった。

 気になって調べてみたところ、この家に纏わる不気味な事実が次々と明るみになった。

 この家を設計した今は亡き建築家、近角青庵。1960年代から80年代にかけて活躍した建築家で、主に公共建築で名を馳せ、輝かしい受賞歴もある。

 ところが90年代に入り、彼は〈霊的建築論〉なる独自の建築哲学を発表した。その理論は複雑怪奇で私にはほとんど理解できなかったが、簡単に概要を説明すると、「そこに住み続けた住人は、死後も霊となってその家に住み続けることが出来る、そんな建築物を建てる」というものだった。人為的に幽霊屋敷をつくる、といったところか。

 そんな奇論を建築界が容認するはずもなく、彼は半ば追われるように建築学会を抜け、教授を務めていた大学からも去る羽目に。それまで積み上げてきた権威や名声は瞬く間に失墜した。

 幽霊屋敷を建てるという妄想に取り憑かれた異端の天才建築家。世間の認識はそういったものだった。

 それでも世の中には好事家がいるもので、幽霊屋敷を建ててくれという依頼が多からずあったらしい。霊的建築論を適用して建てられた建築物を〈心霊建築〉と呼ぶそうで、彼は生前、十軒の心霊建築を遺した。そのすべてが各々違ったコンセプトで建てられ、似たような家は一軒としてないという。

 この家はその十軒のうちの一軒なのだ。通称〈鏡の館〉。

 引っ越してきた当初、確かに家中そこかしこに鏡が置いてあった。それも奇妙な配置で。中には実用的とは到底言えない場所――天井近くや足元――に配置されたものもあり、大きさも形もまちまち。その何十枚にも及ぶ鏡を、母は「気味が悪い」と言ってすべて取り外してしまった。

 だが当初と変わらぬ姿のまま残っている部屋があった。両親が〈鏡の間〉と呼ぶその部屋は、一階のリビングの真上、二階のど真ん中に位置している。引っ越して間もない頃に一度だけ覗いたが、全面鏡張りの奇妙な部屋だった。

 絶対に入るなと両親は私と弟に強く言い聞かせたが、禁止されればされるほど気になるというのが人間の性。以後、私はその部屋に強く惹かれていった。

 一体、何のためにあのような部屋をつくったのだろうか。バレエやダンスのレッスン室ではないかとも考えたが、であれば床や天井まで鏡にする必要はないはず。部屋を広く見せるために鏡が使われる事例もあるが、あれは流石にやり過ぎだ。やはり霊的建築論に基づくものだと考えた方が自然だろう。

 そして調べていくうちにもう一つ、信じがたい事実が発覚した。

 この家の最初の持ち主である資産家の三善みよし清司せいじ、彼は家族全員を惨殺した挙句、自殺を遂げていたのだ。無理心中と見られたが、その動機は今以て不明のまま。いわゆる事故物件。どうりで安いわけだ。

 両親はそのことを知っているはずだが、今までそんな素振りをおくびにも出さなかった。オカルトや迷信の類を信じていないが故にさして気にならなかったのか、あるいは、何か思うところがあってここに移り住んだのか、私には知る由もなかった。

 近角青庵による心霊建築、住人の無理心中、それらの曰くに少なからずたじろぎもしたが、私の膨れ上がった好奇心を掻き消すには至らなかった。


 そして家を出る前日、私は家族の目を盗んで〈鏡の間〉に入った。

 最初の一歩を踏み出すまで幾らか時間がかかった。天井と床の合わせ鏡で遥か高所にいるような、踏み込めばたちまち落ちてしまいそうな、そんな錯覚を覚えたからだ。だが錯覚はあくまでも錯覚なのだ、と意を決して足を踏み入れる。

 六方を鏡に囲まれた空間。部屋には天井から吊るされた照明以外に何もなかった。窓もなく、ドアでさえ鏡になっている。

 四方八方に果てのない空間が広がり、自分の姿が遥か彼方まで連々と続いている。とても八畳ばかりの部屋にいるとは思えなかった。宙に浮いているような感覚に襲われ、膝が震える。

 鏡――。古くから洋の東西を問わず、鏡には神秘的、霊的な力が備わっていると考えられていた。鏡や合わせ鏡に纏わる怪談や都市伝説も多い。鏡がこの世と異界を繋ぐ門になる、鏡像と入れ替わる、鏡に過去や未来やこの世のものではないものが映る、等々。合わせ鏡の間にある空間は〝霊道〟になるなんて話もあるが、本当だとしたら、この部屋は限りなくあの世に近い空間と言えるだろう。

 光の届くかぎり何処までも何処までも繰り返される空間。これだけ沢山の私がいるのだから、どれか一人くらいは私と違う動きを見せても可怪しくないのでは――なんて下手な怪談話を想像しては独り悦に入る。

 気が付けば、身体からすっかり怖気が抜け落ちていた。それどころか、この不思議な空間に心地よさすら感じ始めている。だが、長いことここにいれば気が狂ってしまうのではないか、という漠とした不安もあった。

 なぜなら、私はふと江戸川乱歩の『鏡地獄』を思い出したからだ。鏡に魅入られた男が鏡張りの球体に籠り、ついには発狂に至る物語だ。彼は鏡の中に何を見たのだろうか。何が彼を狂わせたのだろうか。

 そんなことをつらつら考えていると、ふいに眩暈と吐き気を覚えた。ぐらり、と平衡感覚が狂っていき、言い知れぬ不安感に襲われる。鏡に映る自分を見れば見るほど、自分が自分でなくなるような感覚――誰か知らない人間を見ているような、そんな輪郭がぼやけていく感覚だ。

 これは、ゲシュタルト崩壊のようなものだろうか。全体性が解体され、個々の構成要素に分裂して認識し直される現象。結果、それまでと同じ認識が出来なくなってしまう現象だ。『鏡地獄』の狂気は、こうした認知力が低下してしまう知覚現象と関係があるのではないだろうか。

 無限に複製され、増殖した私に囲まれた空間。この中で私という存在もまた散り散りに分裂し、鏡の中に吸収されてしまったかのような、心許ない感覚。鏡を見ているようで、実は誰かに見られているのではないか、という薄気味悪さも感じる。

 ひどくなる眩暈と吐き気。私は堪え切れなくなり、部屋を出ようとした、その時。

 ぽつん、と遠くに影のようなものが目に入った。目を凝らすと、

 人影――?

 すぐさま振り返り、部屋を見渡す。ここには自分しかいない。

 目を戻すと、そこには確かに人影がある。鏡の無限回廊の先、部屋を八つか九つ分ほど隔てた先に。

 その影がゆらりと動いた時、ことの異常さにようやく気が付いた。

 ――ありえない。あそこに空間はないはずだ。鏡に空間があるように映っているだけで、実際の空間は私がいるこのひと部屋しかない。この部屋にないものが、鏡に映るはずがないのだ。

 思わず鏡に手を触れて確かめてみる。ひやりと冷たい感触が指先にぶつかる。紛れもなく、鏡だ。――刺すような寒気。

 人影はだんだんと近づいてくる。いや、ただ近づいているだけではない。

 激しく動きながら――長い黒髪を振り乱し、くるくると回り、飛び跳ね――近づいている。

 こちらに近づくにつれて、動きはより大きく、より激しくなっていく。

 軽やかなステップ、空中に投げ出される肢体、長い四肢から間断なく繰り出される肉体の曲線美。

 ――?

 踊りながら、こちらに近づいてくる?

 この異空間とまぐわうかのような、戦慄するほど美しい躍動。しなやかでたおやか、それでいて威風堂々とした力強さ。この状況でなければ思わず魅入ってしまいそうだ。

 あれは……あの――他の鏡に映らない何か――あらゆるものが複製されるはずのこの空間で、その絶対的な摂理から逸脱した唯一の存在。

 あれは……何だ?

 すぐさま部屋を出ようとした――が、出口が見当たらない。ドアが鏡になっているせいで、そして焦りと恐怖のせいで、見失ってしまったのだ。

 ドアには僅かだが隙間があるはずだ。私は無我夢中で探した。

 ぐんぐんと近づく人影。流れるように、部屋を一つ、また一つと飛び越えてくる。

 シュッ……シュッシュッ……

 四肢が風を切る音、衣擦れの音さえ聞こえてくる。激しい息遣いまでも――。ドアはまだ見つからない。

 見る見るうちに大きくなる人影。この部屋まで、あとひと部屋分の距離にまで迫った。

 ――もう間に合わない。震える足が体重を支え切れなくなったように、私は膝から崩れ落ちた。もはや人影を直視する度胸など跡形もなく消え失せ、両眼をきつく閉じたまま、這うように後退る。

 どん、と背中に何かがぶつかった。振り向いた先には、足。二本の透き通るように真白い、足。おそるおそる見上げると――


 見上げると――?



 そこからの記憶はない。目が覚めると自室のベッドの上だった。〈鏡の間〉から狂ったような笑い声を聞きつけた父が、そこで気を失っている私を発見したそうだ。

 笑った覚えなんて、私にはない。悲鳴なら兎も角、あの恐怖の渦中にあって笑うなんてことが考えられるだろうか。鏡に囲まれた空間で、私もまた狂気に呑まれたというのか。『鏡地獄』のように。

 鏡の彼方から来たアレは何だったのか――私はそこで何を見たのか――そして、アレは何処へ消えてしまったのか――ついぞ知ることはなかった。

 その日の夜、ある奇妙な夢にうなされた。そこで私はまたしても〈鏡の間〉の中にいた。いや、見た目こそそっくりだが、そこには私を取り囲む鏡はなく、終わりのない空間が何処までも広がっているだけ。私はそこを当てもなく彷徨い続ける。まるで鏡の世界に閉じ込められたかのように。


 同じ悪夢を大学生になった今でもたまに見る。

 そしてあの日以来、私には奇妙な感覚がついて回ることになった。

 以前とは何かが違う、という違和感だ。

 些細な、だがいつまでも拭い去れないでいる違和感。何処がどう、とは言い表せない、ひどく漠然とした何か。

 私が知っている世界とは何処かが、何かが、微妙に違っている。そんな気がしてならないのだ。


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