第56話 リフト・オフ
「まるで今にも世界が終わっちゃいそうな夕焼けだな」
発射管制塔の外壁にもたれかかってて夕空を見上げながら、真弓先生がぼそりとつぶやいた。
隣で同じように暖かいコンクリートの壁にもたれたまま、私も無言で頷く。
たった今、ほとんど同じことを考えていた。
台風が空気中に漂う汚れをすべて洗い流したおかげか、空はどこまでも澄みわたり、そのまま宇宙の果てまで透けて見えてしまいそうだ。
そのまま反り返るように上を見る。電光掲示板の文字は“風速2m/秒”で安定していた。絶好の打ち上げ日和だ。
「おまえ、この後どうするんだ?」
「走に会いに行きます」
私は即答した。言うまでもないことだ。
「っていうか、さっき先生、病院まで送ってくれるって言ったじゃないですか」
「違う違う! その後だ」
「どういうことですか?」
私は怪訝な顔で先生を見上げる。
「いや、話がえらく大きくなってしまっただろ。ここからどう畳む気なのかな、と思ったんだ」
「やっぱり、畳まないと駄目ですかね?」
答えながらも気にかかっていたのは由里子のこと。
彼女は私のせいで運命を大きく狂わせた。
由里子だけじゃない。ロケット部のみんなをはじめとして、私のわがままに付き合ってくれた全員の人生を大きく変えてしまった自覚はある。
少なくとも、私はそんな人たちの未来にある程度の責任があると思う。
「私のわがままで不幸になる人は作りたくないです。だから、部活も、会社も、もうしばらくは続けていくつもりです」
「……そうか」
「いずれ誰か、もっと適した人に譲ることになるとは思うんですけど。まあ、言い出しっぺですから、当分は、ね」
「そうだな」
先生はまるで独り言のように小声でつぶやくと、腕時計を持ち上げて文字盤をのぞき込む。
「ナツさん! そろそろ管制塔に入ってもらえませんか?」
まるでその動作にタイミングを合わせたように、左後方から声がかけられた。
「主役がいないと始まりません」
中村君だった。
「坂本ももう配置につきましたよ」
私は勢いをつけてよいしょと体を起こす。
「わかった。今行きます」
私は自分の体を見下ろして点検し、スカートのわずかな皺を伸ばすようになでながらくるりと一回転すると、もう一言を付け加える。
「先生、私の一世一代の
「ああ、ここで待ってるからな」
先生はそれ以上言葉を発しなかった。私ではなく、遠く射点の方を見つめながら、早く行けとでもいう風に小さく手を振った。
自動ドアが開くと、途端に拍手で迎えられた。同時に撮影用のフラッシュがひらめき、ぱしぱしと目をしばたかせる。
そのまま誰にともなく小さく礼を返しながら見回すと、管制室は思いのほか広かった。
まるで僻地の灯台のような、背丈だけは高くひょろりとした
「さっきのエレベータ、上りじゃなくて下りです。ここはあの管制塔の地下ですよ」
「え? でもほら、窓」
指さす窓のからは射点に立つナイチンゲールまで一望でき、振り返れば整備格納庫の屋根が木々の間にチラリと見える。そして天窓からは、群青色に染まりつつある空が見て取れる。
「万一の爆発事故に備えて管制センターは地下にあるんですよ。実際の管制塔の窓には超高精細のカメラがずらりと並んでぐるりと周囲をにらんでいて、ここにはその映像がリアルタイムで伝送されています。
「え、じゃあ、あの塔の上には?」
「ええ、大量のカメラとアンテナしか入ってません」
「へー、そうなんだ」
「最近は空港の管制塔なんかも全部同じような仕組みです。例えば、羽田と成田の主管制室は浜松町あたりのインテリジェントビルにあるんだそうですよ」
「なんでまたそんな面倒な」
「なんだか、スタッフの通勤の利便とか、テロ対策とか色々あるらしいです」
「へー」
「それより時間です。こちらへ」
手招きされて部屋の中央にある打ち上げ主任の席に歩み寄る。正面の左側のスクリーンには高速で明滅しながら次第に減っていく
「今日の日没は十六時五十五分、打ち上げはその一分後です。あと三分ですね」
椅子を引かれ、そのままストンと座らされる。
目の前のコンソールにはいくつかのステータスモニタと、なにより目立つのは透明なアクリルカバーに覆われ中央にどかんと鎮座している巨大な赤ボタンだ。
「これ、発射ボタン? じゃないよね? もちろん」
「はい。
しっかりと釘を刺された。
とはいえ、万一の場合は私自身の判断と責任でこれを押さなくてはいけない。
ナイチンゲールに自爆装置はついていないけど、アボート指令で液体酸素の供給が強制停止されるので、いずれにしても墜落する。
多くのスタッフが心血を注いで作り上げた貴重なロケットを自らの手で破壊する、その覚悟が私には求められている。
『Tマイナス百二十。打ち上げ二分前です』
わずかなエコーをともなって涼やかな女性の声でアナウンスが響き、室内の空気がピリッと緊張する。
それをきっかけに、それまでざわざわしていた室内がさっと静まりかえった。
私は何気なく振り返り、ガラス越しのひな壇で宮前先輩や優月シェフらがこちらを見守っているのに気づく。優月シェフが小さく手を振るのに応えて頷くと、改めて正面を見つめ直す。
のどがカラカラになり、ごくりとつばを飲み込む。そのわずかな音さえ聞こえそうだ。
『Tマイナス六十、一分前』
私は高精細の大画面モニター越しにみかん色のフェアリングをぐっとにらみつける。その途端、まるで計ったようにずっと立ち昇っていた液体酸素の白い湯気がすっと消えた。
『LoX充填完了。バルブ閉鎖!』
『N2圧力正常、LoX圧力正常』
『内部回路セルフチェック完了』
『航法系、チェック完了』
『姿勢制御、チェック完了』
『通信系、チェック完了』
『点火系、チェック完了』
『全システム内部電源に切り替え、自律制御、アンビリカル分離!』
『LEDフラッシュマーカー作動!』
『Tマイナス三十!!』
次々に歯切れのいい口調でチェックリストが読み上げられ、予定通り発射三十秒前ですべての制御システムがナイチンゲール自前の回路に切り替えられる。同時に、フェアリングと機体の隙間に等間隔に十六個、ぐるりと配置された超高輝度白色LEDの鋭い光が一秒間隔でフラッシュを始めた。カメラ越しに見ても思っていたよりずっとまぶしい。
『Tマイナス二十、秒読み開始』
二十秒前。
合成音声が生身の人間そっくりの流ちょうなイントネーションで秒読みを開始する。
同時に目の前のアボートボタンが有効化され、パイロットランプが点灯した。
「
呼びかけられ、全員に見つめられながら私は背筋をピンと伸ばすと、精一杯声を張る。
「ゴー!」
『Tマイナス十、ランチャロック解放、予備点火!』
これでナイチンゲールを地上に留めるものはもはや何もなくなった。
『五秒前、四、イグニッション、二、一……』
最後の一秒は信じられないほど長かった。
周りの音がすっと遠ざかり、不思議な静寂の中で、私の脳裏にはここまでの道のりがまるで走馬灯のように浮かんでいた。
暑かったあの日、初めて河原でロケット花火(改)を飛ばした瞬間。
まともに作ったつもりの最初のロケット、NーⅡ型が地面に激突する寸前に見るも無残にバラバラになったシーン。
文化祭の夜、宮前先輩の歌声をバックに、宵闇にまるでオレンジ色の流れ星のように一直線に駆け上がったNーⅢ型のまばゆい光。
そして……
そもそもの始まりになったあの日。まるで満天の星がすべて降り注いできたようなペルセウス流星群の夜。
(ああ)
視界がまるでフラッシュをたかれたようにように一面真っ白になり、意識はこの瞬間に再び収束する。
『リフト・オフ!』
そこから一連の出来事は、私の目にはまるでスローモーションのように感じられた。
ノズルからまばゆい炎と白い煙を吹き出し、ナイチンゲールはゆっくりゆっくり、本当にゆっくりと地面を離れた。
足下からは地震のような鈍い振動が伝わってくる。
その瞬間、視界がぼやける。
慌てて目を拭うと、いつの間にか止めどなく涙が溢れていた。
わずかな間にナイチンゲールは急速に速度を増し、目の前を通り過ぎるとさらに上昇する。
「行けっ!」
「そのまま、行けっ!」
いつの間にか両方の拳を握りしめ、そう叫んでいた。
その声に応えるように、まるで虚空を切り裂く白い矢のように。
ナイチンゲールはまばゆい噴射炎を吐きながら猛スピードで天に駆け上っていく。
そして、すぐに明滅する白い光の点にしか見えなくなった。
目視では確認できないほどにロケットが遠ざかると、それまで管制塔周辺の風景を写しだしていたスクリーンが自動的にマルチ画面に変化した。追跡所から捉えた超望遠映像に切り替わると、こちらのカメラはまだ、かろうじてナイチンゲールの優美な機体を捉えている。
『こちら太地追跡所、視界良好。肉眼でもフラッシュがよく見えますよ。えー、ナイチンゲール、熊野灘海上に出ました。依然高度を上げながら順調に飛行中でーす』
坂本君のハイテンションな声が響く。
『ただいまの高度、推定十キロ!』
『針路正常、真東に向け仰角八十度で上昇中です』
『燃焼正常、高度推定十五キロ、音速を突破した模様』
アナウンスに応えるように小さなどよめきが管制室内に広がる。
ロケットは無事に離床しても難関はその先にいくつもある。
そのうちの一つが音速突破、そしてもう一つが通称MAXーQと呼ばれる最大動圧点、つまり機体に最も強い外力が加わる瞬間だ。
音速を超える激しい衝撃でロケットには恐ろしいほどのストレスがかかり、設計の甘い機体はこの時点でまともに飛べなくなる。発射後動作不良や空中分解するロケットが一番多いのもこの段階だ。
私は無意識に両手を組み合わせ、多分宇宙のどこかにいるであろうロケットの神様にひたすら祈りを捧げていた。
(お願い、もう少し、もう少し頑張って!)
『MAXーQ突破! 機体ひずみ次第に減少中です!』
『フラッター減衰傾向! もう大丈夫です!』
ふーぅという安堵のため息が誰からともなく漏れた。ここまで来ればもうほとんど大丈夫だ。MAXーQを越えた辺りから大気による抵抗は次第に弱くなり、ロケットを破壊しようとする外力もこの先はどんどん減っていく。
『まもなく燃焼終了。高度、推定二十五キロ、マッハ二・八!』
再びおお!というどよめきが沸き起こった。
ナイチンゲールの目標高度は二十キロだった。燃料をいくらか残した現段階ですでに目標高度を越えている。
安曇に提供してもらったロケットノズルが高熱に耐えて予想以上に原型を保ち、高い推力を発揮し続けているおかげだろう。
『燃焼終了しました! 高度、推定三十キロ!』
わずか一分程度の燃焼時間だった。
想定を遙かに超えた高性能を見せつけたナイチンゲールに、誰ともなくパラパラと手を叩きはじめ、たちまち室内は割れんばかりの拍手となった。
いろんな人に背中をどやされ、肩を叩かれ、抱きつかれ、なんというか、もうもみくちゃだ。
『最高高度到達、推定三十四キロメートル。下降開始』
『こちら太地追跡所、ナイチンゲールは原型を保ったまま下降中。もったいないっすね。パラシュートがあればマジで壊れないまま回収できたかもしんないっすよ』
ナイチンゲールは一回限りの使い捨てだ。とにかく到達高度が最優先で、回収は当初からまったく考えに入れていなかった。
機体の一部でも回収できれば改良に向けた有用な資料になる。そう諭され、実際に安曇の手配でこの後数隻の漁船がロケットを追うことになっている。
積載量の関係でパラシュートは積まなかったけど、ナイチンゲールの機体は水に浮かぶ。海に落ちた衝撃でバラバラにでもならない限り、大部分は回収できる。らしい。
『こちら太地追跡所、ナイチンゲール見通し範囲を離脱します。これにて追跡終了。閉局します。パーフェクトフライト、本当におめでとうございました』
そのセリフに何度目かの拍手と歓声が巻き起こった。
でも、私はその渦の真ん中にあって、周りの狂騒にまったく現実味を感じられなかった。
なんだか透明な薄い膜をはさんでその向こうの出来事を眺めているように、すべての風景がどこか遠く感じられる。
と、左手を強く引かれ、急に現実に引き戻された。
「はっ!」
「ナツさん。ここはもう大丈夫です。行ってください!」
中村君が真剣な表情でこちらを見つめていた。
その勢いに押されるままにこくりと頷くと、手を引かれるままにどんちゃん騒ぎをしているスタッフを押しのけ押しのけ、どうにかエレベーターにたどり着いた。
だが、中村君は一緒に乗り込んでこなかった。扉の前で立ち止まり、昨夜も見せた思い詰めたような表情で私を見つめる。
「ロケット部の部室で待ってます。……みんな、待ってますから」
そのまま、扉は音もなく閉じられた。
「終わったな」
外へ出ると、そこには真弓先生が所在なげにたたずんでいた。
彼女の視線を追うように空を見上げると、そこにはナイチンゲールが生み出したロケット雲があった。既に地平線の下に沈んだ太陽の光を浴び、暗い夜空に未だほの赤く輝いている。
「走の病院までおおむね二時間だな。あっという間だからな。今のうちから何を言うか考えてろ」
車のキーがついたキーホルダーを指の先でくるくると回しながら、私を横目に先生はそうアドバイスをくれる。
「じゃあ、行くか?」
無言で頷く私を従えて、先生はいつものように颯爽とした大股で駐車場に向けて歩き出した。
---To be continued---
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます