第54話 屹立

 結局、ほとんど眠れないままに夜が明けた。

 早朝の空気はまだ氷のように冷たく、深呼吸するとキンと鼻腔を刺す。

 上を見上げれば、はるかな高みであかね色に染まる絹層雲。

 一方、低い空には綿あめのような小さな積雲がばらまかれたようにまばらに広がり、遠く東の空には地平線に張り付くように広がる台風本体のどす黒い積乱雲がなお残る。

 そしてそれ以外の部分は澄んだ藤色の朝焼けに覆われている。

 目を細めて遠くに見える電光掲示板に目をこらせば、”8メートル/秒”の文字が朝靄ににじんだ様に光っている。

「結局、台風はあんまり離れてくれませんでしたね」

 中村君がそう言ってため息交じりの白い息を吐く。私も無言で頷きながら両手にはぁと息を吐きかけ、そのままハンドクリームをすり込むようにすり合わせた。

 台風一過の晴天、とは言いにくい、何とも微妙なお天気だ。その上、寒い。

 にっくきクリスマス台風は伊豆半島の南岸で停滞し、北風を受けてわずかに南に下がった他には大きな動きを見せなかった。この時期の台風としては異例なことに、未だ勢力は衰えない、ままだ。

 おかげで伊豆大島の大学連射場は相変わらずの暴風雨らしい。

 それだけでもこっちに避難してきた意味はあるけど、ここ串本でも、百パーセント打ち上げ可能とはまだまだ言い切れない空模様だ。

『それでは、ゲート開きます』

 首に提げたトランシーバーからは、ザッという短いノイズに続いて待ちわびたアナウンスが流れる。

 ゴゥンという鈍い衝撃音と共に、オレンジ色のパトライトが閃き、大きく“01”と染め抜かれた整備格納庫の扉がゆっくりと開きはじめた。

 今回の台風で他社の打ち上げは年内一杯ずらっとキャンセルになった。結果、私達のナイチンゲールが今年最後の打ち上げになるらしい。

 その上、高校生の作ったロケットが串本から打ち上げられるのは初めてということで、手持ち無沙汰になったセンターの職員が入れ替わり立ち替わり見物に来る。

 どうやら、私達の動静は誰の仕業か数日前からSNSにアップされているらしく、今朝は「ネットで見たよ」と朝一番にわざわざ握手しに来る年配の男性職員がいて驚いた。 

 今も、出勤途中の若い女性スタッフが並んで手を振りながらロケットと私にスマホを向けている。

『ゲート全開、トラクター出します』

 まるで電車のような電磁音を響かせ、よく空港で見かける屋根のないジープのようなトーイングトラクターが台車を引いて歩くほどの速度でゆっくりと姿を現した。

 管制塔からの遠隔制御でドライバーが乗っていないのが少しだけ違和感がある。

 朝の光を浴びてナイチンゲールのオレンジ色のフェアリングが目にも鮮やかだ。待ち構えていたスマホ組が競うようにパシャパシャとシャッター音を響かせる。

「ナツさん、出来ればもう少し前に出て! ロケットと同じフレームに入って下さーい」

 私は苦笑しながら小さく頷くと二、三歩前に出た。大野さんはスマホ組に負けじとカメラマン根性をむき出しにして、昨日からずっと立ち位置や顔の向き、表情にまで細かい注文をつけてくる。

「いーです、その表情! そのままそのまま!」

 今日は液体酸素の充填中、ナイチンゲールをバックにしたポスター撮影やインタビューまで予定されている。もちろん由里子の仕切りいんぼうだ。

 どっちにしろ私は打ち上げ直前まで仕事がないので、せいぜい客寄せパンダになってやろうと割り切ることにした。恥じらいはこの際捨てる。

『格納庫クリア、これより機体移動開始します』

「ナツさん、乗って!」

 中村君の声と共に、ゴルフカートが後ろからやって来てクラクションを響かせた。見れば彼を含め、既に発射管制塔に詰める予定のスタッフが鈴なりになっている。まるでどこか途上国のローカル線みたいだ。

「どこに乗るの? 屋根しか空いてないみたいだけど」

 私は笑いながら断った。

 ここから射場まで、歩けば十分ほどかかる。本来串本は中型ロケットの打ち上げに対応しているので、整備格納庫から射点までは一キロ近く離れているのだ。

「歩いて行くよ。先に行ってて」

 運転手は無言で頷き、いつ誰が転げ落ちてもおかしくない満載状態でゆっくりと遠ざかっていった。

 後ろからもう一台カートがやって来て同じように同乗を勧められたけど、私はそれも断った。

 なんとなく、一人っきりで歩きたい気分だった。

 私は無人トラクターに引かれるナイチンゲールの横に立ち、ひんやりと冷えた空気の中、ロケットと同じスピードでゆっくりと射点を目指す。

 突然訪れた静寂。今、私のそばには誰もいない。

 私は両手を大きく広げて羽ばたくように前後に動かし、時に立ち止まって空を眺め、すぐそばをゆっくり進むナイチンゲールの艶やかなボディをそっと撫でる。

(ここまで色々あったなあ)

 走の突然の入院からまだ半年。あんまり色んなことがありすぎて、ほんの一瞬で過ぎ去ったような気さえしてくる。

(……でも、それも今日で終わり)

 安曇窯業と共にナイチンゲールの増強型を開発するなんて計画もあるけど、それはまた別の話。

 私が走のためにロケットを作るのは、多分、これが最後だ。

 

 ナイチンゲールとの短い散歩を終え、私は大野さんのカメラとスタッフの拍手に迎えられて射点に到着した。

 次の瞬間、手ぐすね引いて待ちかまえていた打ち上げスタッフがわっと機体に取り付いた。

 いよいよランチャーへの吊り込みが開始されるのだ。

 一方で、誰が手配したのか、待避壕の脇にはパラソルつきのオシャレなガーデンテーブルが持ち出され、風よけを兼ねた黒っぽい板がその周りを取り囲んでいる。

 さすがに液体酸素の充填が行われるすぐ近くで直火のストーブは許可が出なかったらしく、遠赤外線暖房用のパネルだと説明を受けた。

 周辺の施設や機器類が放つハイテク感とはまるで対極の、そこだけ妙にのどかな雰囲気が漂っている。 

 私は大野さんに引っ張られるようにスタッフをかき分け、マイクが何台もセットされたテーブルに案内された。

「なんだかオープンカフェみたいだね」

 そんな頭の弱そうな感想を述べる私を無視して、間髪を開けずにヘアメイクさんが来る、音声さんが来る、照明さんが来る。大野さんをはじめ数台のカメラにはそれぞれカメラマンが張り付き、あっという間にインタビューの準備が整った。

「あの、すいません。ちなみにインタビュアーってどなたなんですか?」

 何も聞かされていない私はとりあえずその場で一番偉そうなスタッフをつかまえて聞いてみる。けど、彼はにっこり笑って頷くばかりで答えない。

 そうこうするうち、私にとっては死角になる発射管制塔の方角から新たなカートがもう一台到着した。

 全員の視線がカートから降り立った人物にさっと集中する。

「?」

 つられて後ろを振り向こうとした私は「動かないで!」という大野さんの一喝でそのまま凍り付く。謎の人物はまだ視界に入らない。

(歩幅が小さい? それに砂利を踏みしめる音がずいぶん軽い)

 もしや、いやまさかと思いが交錯し、混乱した頭に澄んだ懐かしい声が響いた。

「ナツキ!」

 驚いた。

 メジャーデビューが決まって猛烈に忙しいと聞いていた。その上、彼女の性格はこういう役割には最も向いてなさそうなのに。

「……お、お久しぶりです。宮前先輩!」

「先輩は、なしで。タメ口で」

 慌てて立ち上がろうとする私を小さなジェスチャーで押しとどめ、宮前先輩は自然な笑顔で頷くと私の向かいにすっと腰を下ろす。ほんの数ヶ月顔を合わせなかっただけなのに、彼女の立ち振る舞いには自信が満ちあふれて見える。

 私がそれ以上続ける言葉を見つけられずにいるうちに、宮前先輩は私を上から下までまじまじと観察し、にっこりしながら大きく頷いた。

「ナツキ、少し痩せたね。それに、何だかとても……」

 不意に言葉を切り、背後の射点に目を移す。

『ナイチンゲール、引き起こし開始します』

 テーブルに置いたトランシーバーがブツブツとつぶやき、まるで遊園地のジェットコースターが出発する時のような気の抜けたアラームが鳴り響く。同時に、油圧コンプレッサーが唸りをあげる。

 ランチャーが小さく軋み、やがてみかん色のフェアリングがゆっくりゆっくりと上を向きはじめた。

「天野さん、ツバサさん、すいませんこっちに出て来てもらえますか?」

 ディレクターが慌てたように私達に手招きをする。どうやら引き起こしのシーンに私達を入れた画を取りたくなったらしい。

 私達は言われるままに誘導路に立つと、風になぶられながら次第に立ち上がっていくナイチンゲールをじっと見上げた。

「すごい……」

 宮前先輩がかすれたつぶやきを漏らす。

「ナツキ、凄い、凄いよ! これ!」

 そのまま、歓声を上げて私に飛びついてきた。

 考えてみれば、今の今まで、彼女にとって私のロケットに対する印象はせいぜい両手で抱えられるほどのイメージだったはずだ。

 それがいきなり全長五メートルを超えるほどに巨大化すればそれは驚きもするだろう。

 そう思いながら周りを見渡せば、なぜかロケット部のメンバーの方がさらに興奮エキサイトしていた。物理技術の三人組は奇声を上げながら笑顔でバシバシと肩を叩き合い、坂本君は早くも感極まって涙ぐんでいる。

(おいおい、まだ早いって)

 私は思わず心の中でツッコミを入れた。


 垂直から機首を東向きにわずかに振った角度で立ち上げ工程は終了した。ランチャーにロックボルトを掛けるガチャガチャという金属音が響き、インパクトレンチの打撃音がそれに続く。

『ただいまより、液体酸素系の冷却作業を開始します。バッジレベルⅡまでの作業人員はすみやかに安全距離まで待避して下さい』

 発射管制塔から大音量の案内放送が流れ、センターの敷地全体にエコーを伴って響き渡った。アナウンスと共に、賑やかだった見物人その他大勢がざーっと潮が引くように遠ざかり、あたりは急に静まりかえった。

 一方、私達二人には真新しいみかん色のヘルメットが手渡され、再び席に案内された。

「あの、私達は待避しなくていいんですか?」

「今はまだ冷凍機で冷やしている段階ですから。配管とタンクがマイナス百度まで冷えて、LoXえきたいさんそで直接冷却をはじめるまでは特に問題ないそうです」

 まあ、本当に駄目ならセンターのスタッフが注意しに来るだろう。

「では、お二人とも、準備はよろしいですか?」

 改めて照明が点され、カメラが回り始める。

「では行きますよ、五秒前!」

「いい? ナツキ、タメ口だよ」

 宮前先輩が改めてそう念を押す。

 ディレクターが無言のまま指で三、二、一と示し、ゴーサインのジェスチャーが出た瞬間、宮前先輩のまとう雰囲気が突然変化した。相変わらずこの豹変振りは凄い。背中から立ち上るオーラさえ見えるようだ。

「久しぶり、ナツキ、元気だった?」

 私は内心舌を巻きながら返事を返す。

「いよいよあと数時間で打ち上げだけど、今の気持ちはどう? かなり緊張してる?」

 問われて少し考える。

「緊張はあまりないです。やれることはもう、全部やったつもりです」

「ふーん。じゃあ、自信があるんだ?」

「自信……、うーん、ちょっと違う。どっちかというと“信頼”かな」

「信頼?」

「だって、ナイチンゲールこのこは私一人じゃ絶対に完成できなかったから……」

 ほんの数日前、あの運転手さんと交わした会話が改めて脳裏によみがえる。

「……みんなが手助けしてくれたからここまで来れた。そこは勘違いしたくない」

 自分に言い聞かせる様に大きくかぶりを振りながら続ける。

「だから、私が今言えるのは、“きっとうまく行く。私はそれを心の底から信じている”ってこと」

「なるほど。“信じる”っていうのはいい言葉だね」

「って言うか、何だかくさいセリフでごめん」

「はい! カットゥー!」

 ディレクターが叫び、駆け寄ってくる。

「天野さん、良かったです。ただ、できればもう少し自信たっぷりにお願いできますか? ツバサさんと張り合うくらいでお願いできるといいんですが?」

 ああ、宮前先輩がしきりに“タメ口で”と連発しているのはこの人の指示なのかと思う。

「じゃあ、引き続き行きまーす。はい三秒前!」


---To be continued---

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