第53話 いつか王子様が

 深夜二時。


 結局寝つけないまま、恨めしい思いで枕もとのデジタル表示を見上げる。

 みんなの言いつけ通り一度はベッドには入ったものの、何だか興奮してとても眠れそうにない。

 もぞもぞ毛布を引っ張ったり寝返りを繰り返したあげく、結局眠るのは諦め、部屋を出て一階のロビーに向かうことにする。

 さすがにこの時間のロビーにはほかに人影もない。壁際のウォールウォッシャー以外の明かりはすべて消され、まるで薄明のように薄暗い。

 そんな中、ただ一つ煌々と明かりを放っている自動販売機にまるで明かりに集まる虫のように引き寄せられた私は、サンプルの表示されたモニターを眺めてしばし迷った。

「うーん、こんな時間にお汁粉だと太るかな。だとするとコーヒー。いやいや、これ以上眠れなくなったらどうすんの。となればやはりミルクティーも捨てがたいか……」

 ブツブツ言ってると背後からにょっきり腕が生えてスマホがピッとタッチされ、驚く間もなくミルクティーのボタンを押されてしまう。

「!」

 ガコンと意外に激しい音がロビーの隅まで響き、缶が受け取り口に落ちてくる。

 私は慌てて振り向き、そこに中村君の姿を見つけて目を見開いた。その瞳は自動販売機の明かりを受けて不思議な輝きをみせる。

「ど、どうしたの?」

 彼は続けてブラックコーヒーのボタンを押し、出て来た缶二つを取ってそのうち一つをポンと私の手にのせた。

 その、熱いほどの温もりがなんだかほっとする。

「どうぞ。おごりです」

「……あ、ありがとう」

「ナツさん、寝ないんですか?」

「いや、それがね」

 私はなぜか突然跳ねた心臓の鼓動に戸惑いながら手近のソファに腰を落とし、彼に聞こえないように小さくため息をつく。

「さすがにね、明日が、あ、もう今日か。打ち上げかーと思うとドキドキしちゃって……」

「あー」

 中村君も私の向かいのソファに腰を下ろし、コーヒーのキャップをプシッとひねる。

「その気持ちはわかります。ぼくらも同じです。仕方ないので格納庫で盛り上がってますよ」

「へぇ……。ね、こういう時、男子ってどんな話してるの?」

 薄暗がりの中、二人っきりで何を話していいのかわからず、とりあえず無難な話を振ってみる。

「まあ、色々です。さっきまでは恋バナで盛り上がってましたけど、僕はそういうの苦手なんで、逃げてきました」

「へえぇ。男子も恋バナなんてするんだ?」

「そりゃあ、まあ。森川研はもともと女子学生が少ないですから。佐々木さんなんか本当に大人気らしいですよ」

「佐々木さんかぁ。まあわかる気がする」

 佐々木さんは研究室の紅一点というばかりではなく、気立てもいいし何よりスタイルがいい。人気なのは当然かも知れない。

「人ごとじゃないですよ。大野さんやナツさんだってネタにされてたんですから」

「うわ、じゃあ由里子は?」

「う、ぐ、軍曹っすか?」

 中村君は気まずそうに口をつぐんだ。

 ああ、この反応でわかる。やっぱり男子には恐れられてるか。

 由里子は性格の悪い子じゃないんだけど、目的のためには手段を選ばないところあるしなあ。

「あ、別に悪口とかはないですよ。彼女の立場はちゃんとみんなわかってるし、感謝もしてます。彼女のおかげで予算もスケジュールもギリギリ何とかなった訳ですし……」

 怖いなあ。この調子だと私だって一体何を言われているかわからない。

「そっか」

 手のひらの中でほのかに暖かいミルクティーの缶を転がしながらつぶやく。

「……ところで」

 一端黙り込んだ中村君は、何度か小さく咳払いをするとおずおずとそう切り出した。

「……このタイミングでなんですが、もし良かったら聞かせて下さい。走さんって、ナツさんにとってどんな人なんですか?」

 また聞かれた。

 いろんな人に聞かれてその都度ぼやかしてきたけど、ちょうどいい機会なのでこの際、真剣に考えてみることにする。

「前にも言ったけど、私にとってとても大事な人であることには間違いないの」

 旦那だ彼氏だと散々由里子に煽られて、でもどうしてもそうは思えなかった理由は何だろう。

 恋愛は、自分と違う個性パーソナリティーとの間にしか成り立たない。

 以前読んだ雑誌にそう書いてあった。

 その時はなんのこっちゃと思ったけど、今ならなんとなくわかる気がする。

 血縁のことはとりあえず置いておいても、本質的な所で私と彼はあまりにも似すぎている。性格はだいぶ違うけど、なんだろう、物事の捉え方というか、世の中の理解の仕方というか、そういうところは本当によく似ている。

 だから、彼の考えは自分のことのように判るし、たぶん逆もそう。おかげで男女間の駆け引きや、ヤキモキしたり嫉妬したり。そういう感情がまるでわかないのだ。

 これまでは、まるで兄妹のように、朝から晩まで同じ環境で育ったせいだ、とばかり思っていたけれど。

 でも。

「彼が困っていればどんなときも一番に駆けつけたいと思うし、もし、今、彼のために命を差し出せと言われたら即座に首を縦に振ると思う。そこにためらいはないよ」

 うすぼんやりとした闇の中、中村くんがわずかに眉をしかめるのが気配でわかる。

「……でも、みんなが誤解しているような関係でもないかな。そう、うーん、例えば……」

「例えば?」

「うん。一番近いのはやっぱり“家族”かな。弟みたいな、あるいはお兄さんみたいな、多分そんな関係」

 その途端、まるですすり泣きのような、深いかすかなため息が聞こえた。

「ごめん。怒った?」

「……いえ、どうして?」

「ほら、だって、みんなに無理をさせたのも、もとはといえば私が彼と賭けをして……」

「それはないです。気にしないでください。ただ……」

「ただ?」

「だったら、僕にもチャンスはあるのかな。なんて少しだけ思ってしまって」

「そ……」

 思いがけない言葉に、とっさには反応できなかった。自分の顔が耳まで赤くなるのが鏡を見るまでもなくわかる。

「あ、え、えっと」

「すいません。今はこんなことを言うタイミングじゃなかったですね」

 だが、私の返事を待たずに彼は素早く立ち上った。  

「じゃあ、おやすみなさい。明日は晴れるといいですね」

 彼は自らの表情を隠すようにすっと背中を向けると、そのまま振り返らずロビーを出て行った。


 どのくらいそうしていただろう。

 丸めた雑誌でポカリと頭を叩かれて不意に我に返る。

 気付くと、手の中のミルクティーはすっかり温もりを失っていた。

「あんた、何ふらふらしてんのよ」

「あ……由里子」

 しかめっ面をした由里子が仁王立ちの姿勢でソファの後ろに立っていた。

「あれ? いつから?」

「そうね。あんたが自販機の前でごにょごにょ呪文を唱えていた所から、かしら?」

「えぇ!? 最初っからじゃん」

 私はそのままソファの背もたれにぐたりと身体を投げ出してぼやく。

「あのねぇ」

 由里子は相変わらずの仏頂面で私の正面に回り込むと、さっきまで中村君が座っていたその場にストンと腰掛ける。

「あんた、さっきのセリフ、走が聞いたら嘆くわよ、きっと」

「え、どうして?」

「とぼけるのもいい加減にしなさいよ。走があんたのことをどう思っているのか、今さら気付かないあんたでもないでしょうに?」

「あ、うぅん」

「私、あんたの考えが本当に判らない。彼のために高校生わたしたちにはおよそ分不相応な金額を借金までしてポンと投げだすし、何日も入院して痛い思いをしてまで骨髄を提供する。そのくせ一方では恋愛感情なんて一切無いなんて言い放つ。不自然よ。走が不憫だとは思わないの?」

 そうか、由里子はまだ知らないんだ。

 私が言ったのはまさに事実そのままの意味だったのだけど、彼女から見れば確かに、私が理不尽に走を遠ざけようとしているように感じるかもしれない。

 私は迷った。

 かつて、走のパパとママ、そして私の両親との間で何があったのか。私自身はなんとなく納得しちゃったけど、彼女もそうとは限らない。

 面倒見がよく正義感の強い由里子のことだ。真実を知ればまるで自分の身にあったことのように激怒する。きっとする。

 そして、本気で怒った由里子に逆らうことがどれだけ命知らずの所業か、私は長年の付き合いで身にしみて理解している。

「……あのさ、ちょっと長い話になるんだけど、聞いてくれるかな?」

 散々悩んだ末、私は事実をありのままに明かすことに決めた。

 この話が後々予想外のタイミングでいきなり露見するより、今話しておいた方がまだましだと思えたのだ。

 数時間後に打ち上げという一大イベントを控えたこのタイミングであれば、打ち明け話のショックもそれほどではないだろう。

 それに、お互いの表情もはっきりしないこの薄暗がりの方が、微妙な打ち分け話をするには向いているかも知れない。

「……私もつい最近知った話なんだけど……」

 走ママの突然の訪問、そして父の書斎にあったアルバムとそこに挟まれていた写真の話から骨髄移植を巡るもろもろの話まで。

 すべて語り終えるのに三十分以上かかった。


「ふうーっ」

 次第に前のめりになりながら話を聞いていた由里子は、ドサリと背もたれに身体を預けながら猛獣の唸りのようなため息をついた。

「まあ、話してくれて嬉しかったわ」

 思いがけず由里子の口調は静かだった。もっと激高するかと思っていたので逆に拍子抜けした。

「怒んないの?」

「どうして? あんたが納得しているのにこれ以上私が口を出すいわれはないわ」

「いつもと違う!」

 私は半ば呆れ気味にそう感想を述べる。

「そりゃそうよ。これは純粋に二組の家族だけのプライベートな問題。私が怒るのは、私を巻き込んだ理不尽が目の前に存在するからよ。でもこれは違う」

 由里子の語り口はあくまでも静かだった。

 薄暗がりに隠れて表情まではうかがい知れないけど、落ち着いた、ずいぶん優しい表情をしているような気がした。

「で、あんた、この先一体どうするのよ?」

「え?」

 虚を突かれた。とっさにどう答えればいいのか判らなかった。

「だって、多分あんた、つい最近まで……いや、多分今でも、心の中には走しかいないでしょう」

 言葉を切り、私の顔をじっと見つめる。青白い暗がりの中で、由里子の両目だけがなぜか発光でもしているようにクッキリと見えた。

「でも、走とはこれ以上どうなりようもない。そんないびつな状態で、あんたは本当に大丈夫なの?」

「大丈夫って?」

「あんた、今後ずっと、まっとうな恋愛はできないかも知れないわよ」

 由里子の指摘にドキリとする。

 確かに、この年齢としになっていまだ心ときめく異性が現れないのは、無意識に走と比べてしまうのが原因なんだろうなとは思う。

「い、ま、まさかそんな。いつか私にだって白馬に乗った王子様が……」

「バッカなこと言ってんじゃないわよ」

 吐き捨てるような口調であっさり一刀両断されてしまう。

「そんな夢見る夢子ちゃんみたいなこと言って余裕かましていると、あっという間にお婆ちゃんよ。花の命は短いんだからね」

 そのままフンと鼻息も荒く足を組み替え、幾分柔らかな口調で続ける。

「打ち上げが終わったら会いに行くんでしょ。走に」

「うん。走も話したいことがあるって言ってた」

 つい何時間か前に、核心に至らないまま曖昧にごまかしてしまったメッセージのやり取りが脳裏によみがえる。

「そろそろはっきりさせることね。あんたのためにも、走のためにも」

 言葉は相変わらず厳しく、でも、その口調は信じられないほど優しかった。


---To be continued---

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