第52話 Tマイナス24h
「液体酸素配管系、コンプレッサーチェック終了しました」
「同じく、窒素圧力配管系、チェック終了」
「電源系、問題ありません」
「制御系、同じく」
「通信系、問題なーし」
打ち上げ予定時刻のちょうど二十四時間前。
ついにチェック要員全員の右手が上がった。
二十メートル級のロケットでも楽々入る整備格納庫。高い天井からはまばゆいLED投光器の白い光が何十本も降り注ぎ、フロア中央に横たわるちっぽけな真っ白いロケットを煌々と照らし出していた。
テストベンチに固定され、頭部フェアリングまでフルオープン状態のNー4型ナイチンゲールは、機体各部のインターフェースソケットに大量の通信ケーブルが繋げられ、まるで蜘蛛の巣に捕らえられたモンシロチョウを思わせる。
二日前、串本へ到着した木箱は、熱海駅前でレンタカーを調達し、私から遅れることわずか数時間で串本に駆けつけた中村君、プラス神技工大のスタッフ、加えて先乗りして待ち構えていた神阪氏配下の安曇窯業スタッフによってすぐに開梱された。
その後は移送に伴うダメージのチェックに加え、串本の打ち上げランチャーの規格に合わせたスライダーの交換、さらに点火系インターフェースのマッチング調整など、やるべきことは本当にいくらでもあった。
全員総出でかかったにも関わらず、改修作業は今日の昼過ぎまでかかった。
それでもまあ、苦労の甲斐はあった。
今夜フェアリングが元通り取り付けられれば、明日の早朝には射点への移動が始まる。
そして、機体の引き起こしとランチャーセットが完了したらいよいよ最終の工程、液体酸素の注入が開始される。
「いやあ大変でした。でも運が良かったです。あれだけの豪雨に加えて荒れた海での海上輸送。それでも水漏れはまったくありませんでしたし、長時間の移送による機体へのダメージもゼロ。何の問題もないのが逆に問題、みたいな? ハハハッ!」
徹夜ハイになっているのか、中村君はいつになく上機嫌だ。
昼には真弓先生の運転するワンボックスでやってきたロケット部のみんなも合流した。さらに加えて、
「え、なんで優月さんまでここにいるんですか?」
目を丸くして尋ねる私に向かって、
「私にだってナツの夢がかなう瞬間を見守る権利はあるわ。それに真弓だけに運転させると無事に到着できるかどうかわかんないでしょ?」
真弓先生が憮然とした表情を浮かべるすぐ横で、胸を張ってにこやかに飄々と答える優月シェフ。
そして、そんなプライベートな一部始終も含め、すべて大野さんが自慢のカメラで克明に記録している。
そう言えば、大野さんは大島からの脱出の時、その場にいなくて撮影できなかったのが相当に不満だったみたいだ。
「そんな一大スペクタクルを撮り逃すなんて! いいですか、今後はナツさんに張り付いて離れませんからね!」と全員の前で宣言し、本当にトイレに行くにもベッタリ張り付かれてちょっと困っている。
ということで、総勢数十名もの関係者が見守る中、いよいよ慎重にフェアリングが閉じられる。
開閉機構のラッチが外され、ノーズコーンが再び単純な円錐形に戻される。
継ぎ目に沿った何十本もの低頭六角穴付ボルトが電動工具で一本一本丁寧に締め付けられ、最後の一本だけは手回しのトルクレンチが使われた。
ところが、いよいよ最後のひと締めという所で中村君はなぜか作業を止め、ついと立ち上がる。
「ん?」
そのまま無言でレンチをアルコールとキムワイプで丁寧に拭きあげると、柄をくるりと回し、私に向かってさっと差し出した。
「え?」
意表をつかれ、思わず受け取ってしまう。
「最後はお願いします」
そのまま私に場所を空けるように二、三歩右にずれると、中村君は微笑みながら静かに言った。
「
(うわ!)
不覚にもウルッとと来た。
涙の浮かんだ瞳でみんなの顔を見回すと、全員が満面の笑顔で私を見つめている。
誰かがパラパラと手を叩きはじめ、それはすぐに満場の拍手になった。
「ずるいよこんなの」
まさかわざと泣かせようとした訳じゃないとは思うけど、こんなことをされて感動しないわけがない。
手の甲にポタポタと涙がこぼれ落ち、それをあわてて拭いながら、私はレンチを握り直し、その先をボルトの六角穴に差し込んだ。
カチッ。
トルクレンチから小さな音がして、最後のボルトが完全に締め付けられた。
その日の深夜。寝ずの番をするという男子達にまるで追い出されるようにして整備格納庫を離れた私は、あてがわれた宿舎の部屋に戻り、シャワーを浴びて濡れた髪を乾かしながら、ずいぶん久しぶりにメッセージアプリを立ち上げた。
ENAがスポンサーを脱退した後、暗い報告をするのが嫌だったのでズルズル引き延ばしているうち、法人の立ち上げ、ロケットの仕上げで本当に忙しくなってそれどころではなくなってしまったのだ。
ただ、走の容態については、骨髄移植の後、急速に改善しはじめたと走ママから報告があり、その後も数日おきに電話をくれるので一応把握だけはしていた。
どんどん良くなっているみたいで本当に嬉しい。
このまま順調にいけば、退院もそう遠くないだろうと聞いている。
あとは
「あ、そうだ!」
考えてみれば打ち上げ場所が変更になったことをまだ知らせていない。
射点が伊豆大島から三重県により近い串本に変更になったおかげで、上昇していくナイチンゲールの姿はよりはっきり見える、はずだ。
実は昨日、作業待ちの暇つぶしに、ぬりかべ先輩に教わった方法でざっと計算してみた。
走の病院があると想定している三重県の津付近から串本までの直線距離はおおよそ百五十キロ。途中に山があるので単純な計算で正確な答えは出せないけど、地上からせいぜい三~四キロも打ち上げれば十分観測することが出来る。
今になってみれば、到達高度二十キロなんてスペックは全然いらなかったことになる。
まあ、結果論だけどね。
ただ、打ち上げ方位が東から南南東にほとんど九十度変わる。ちゃんと伝えておかないと、まったく見当違いの方向ばかり見て見逃してしまう恐れがあった。
“走、起きてる?”
既読はなかなか付かない。さすがにこの時間だともう寝てるか……。
ところが、諦めて私ももう寝ようと思ったタイミングでひょっこり返信が来た。
“ENAの件、残念だったね”
おーっと思う。ギリギリの精神状態を乗り越えて、他人の境遇を心配できるようになったんだ。嬉しくてちょっと甘えてみる。
“そうだよ。なぐさめて欲しいなぁ”
“バカ。こっちも大変だったんだよ”
“知ってる。よく頑張ったよね。本当に尊敬する”
しばらくの間。
どうやら照れているらしい。待っててもらちがあかないので、とりあえず大事な用件を先に送る。
“そうそう、打ち上げ場所が変更になったからね。これ重要”
“伊豆大島じゃなくて和歌山県串本。そっちからだとちょこっとだけ西寄りの南の空だよ”
“予定よりずっと観測しやすくなったはずだよ。喜んでね”
滅菌テントが外れたとも聞いている。病院のみんなと一緒に、屋上あたりから見学してくれると嬉しいなあと思う。
“ところでナツ、こっちもニュースがあるんだ”
“え?”
“早ければ来年にも退院できそう”
反射的に“知ってる。走ママに聞いたよー”と返しそうになって寸前で思いとどまる。
走は走ママが私に頼み事をしてきたことも、私の出生の秘密もしらないのだ。走ママが毎週のように連絡をくれていることも恐らく知らないだろう。
“ほんと! いついつ?”
そんな風に返しながら、私の気持ちは少し複雑だった。
その上私が骨髄の提供者だと走が知ったら、また変なわだかまりが出来るんじゃないだろうか?
“来年の春頃”
“そっか。良かった。また一緒に高校に通えるね”
“……ところでさ、もし会えたらちょっと話したいことがあるんだけど”
「う!」
なんだかわかんないけど、頭の中で警報ブザーが鳴った気がして慌てて話題をすり替える。
“そうそう、そんなことより、私が見舞いに行く話、忘れてないよね?”
“ロケットを打ち上げられたら、でしょう?”
“その通り、私がロケットを打ち上げたら、すぐに走に会いに行くから!”
“……忘れてないよ”
“ホントだよ。絶対会いに行くからね!”
メッセージのやり取りはそこで途切れた。
それからしばらくして、ほとんど私が待ちきれなくなった頃、数文字だけの短いメッセージが受信された。
“国立三重高度医療センター”
それは、彼がこれまでずっとひた隠しにし、私が知りたくて知りたくてたまらなかった彼の入院先だった。
---To be continued---
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