第35話 予想外の邂逅
「失礼ですが…」
私はドキドキと早鐘のように打つ心臓をどうにかなだめ、とりあえず適当なリアクションを考える時間を稼ごうと逆に問いかける。
突然知らない人にフルネームで呼ばれるのは何度体験しても心臓に悪い。その間にも、高価そうなスーツを身にまとい、隙のない化粧で完全武装した中年の女性は私の姿を鋭い視線で上から下までじっくりと観察し、再び私の顔を凝視すると何かに気付いたように小さく口を開けた。
「ああ、やっぱりお怪我をされていたのね。心配していた通りだったわ。嫁入り前の女の肌に傷をつけるなんて、まったくあの…」
「すいません、どちら様でしょうか?」
「本当にごめんなさいね。しかもこんな…」
早口でそう言いながら、女性は私の右頬に手を伸ばし、ピンク色の薄い筋になって残った傷跡に指を沿わす。私は突然のアクションに驚いて思わず反射的に身を引き、触れられた右頬を隠すように手のひらで押さえた。
「ごめんなさい。痛い? そりゃそうよね。ああ、まったく取り返しがつかないことをしてくれたわ、あのバカ」
「あのー、ちょっといいですかっ!」
一向に私の話を聞こうとしない相手にいらだって私は声を張り上げる。
「あなたは一体どこのどなたで、私に何のご用ですか?」
一瞬の沈黙。フリーズが解けた女性は、ああすっかり忘れていたといった表情でバッグから名刺入れを取り出し、一枚抜き取ると私にずいと差し出して来た。
「ごめんなさい、お父さんにもよく言われるのよねぇ、説明が足りないって。はい、私、こういう者です」
言いながらわずかに顔を傾けて笑顔を見せる。
「
名刺の中央には女性らしい細身の明朝体で“安曇珪子”の文字。
分厚い名刺の左上にエンボスで浮き出たアルファベットのロゴはつい最近どこかで見たことあるような気もする。どこだっけ? 意外と身近なところだったような。多分それなりに大きな会社なんだろうと思う。
「私、あなたに怪我をさせたあのアンポンタンの母親です。今日はこちらの学長先生にご迷惑をおかけしたお詫びにお伺いしたの。帰り際にキャンパスであなたの姿をお見かけしたもんだから、あれはもしやと思ってお声がけしてみたのだけど…。本当に突然でごめんなさいね」
(ああ、あのストーカーのお母さんかぁ)
私はようやく事態を飲み込んで内心、納得のため息をつく。
(お母さんが人の話を聞かない方だったのね。それであんな話し下手な…)
「ところで天野さん、これから少しお時間はあるかしら?」
「へ?」
唐突にそう問われてたじろぐ。
「あなたにご覧に入れたいものがあるのだけど。後でちゃんとご自宅までお送りしますから、少しお付き合いくださいな」
「あ、えーっと」
どうなんだろう? この一方的な話しぶりからして、他人が自分の提案を断るなんて事態はみじんも考えていなそうだ。
うかつに断ったらそれはそれで面倒くさいことになりそうだなあと思い、最低限の予防線を張る。
「うち、門限が厳しいので、あんまり遅くなると…」
一応しおらしく言ってみる。
門限? なに、それ? おいしいの? ていうのがこれまでの天野家だったけど、父とは違ってシェフはさすがに心配しそうだ。
「大丈夫、そんなに遅くはならないから。それにちゃんと親御さんに説明してあげるわ。心配ありませんって」
あー、やっぱり。予想はしていたけどグイグイ来る。
大きな会社の偉い人ってみんなこんな感じなのかなあと思いつつ、私はまるで押し込まれるように白いベンツの後部座席に納まった。
車はしばらく市街地を走った後、気がつくといつの間にか高速道路に乗っていた。静かなエンジン音に加えて運転手の腕がいいのだろう。全然気がつかなかった。
しかも肝心の安曇さんは散々“ウチのバカ息子”のグチ話に私をつきあわせたかと思うと、高速に乗って二分もしないうちに寝息を立てている。
おかげで話題の“バカ息子”さんが何歳までおねしょをしていたか、とか、彼女いない暦、イコール年齢だとか、あまり知りたくないプライベートデータを大量に抱え込むことになった。頭が痛い。
「あの、運転手さん?」
「はい、なんでしょう?」
彼女は正面を向いたまま、やわらかい声で答えた。
まるで水面を行くがごとく滑らかに、しかもとんでもない猛スピードでベンツを操るドライバーの気を逸らして果たしていいものか、悩んだけど仕方がない。いまだに私は自分がどこに連れて行かれるかすら知らないのだ。
「これからどちらに行かれるんですか?」
「あれ、奥様、いえ、専務から説明がありませんでしたでしょうか?」
「いいえ、問答無用で車に押し込まれたもので…」
私のセリフに、運転手さんもバックミラーの向こうで苦笑している。どうやらこれがこのおばさんの
「ええ、名古屋にございます私どもの本社に…」
「なごやぁ!」
私は思わず大声を上げた。慌てて口元を押さえ、隣で爆睡している安曇さんが反応しないのを確認してもう一度尋ねる。
「名古屋って、愛知県ですよね?」
「ええ、間違いございません」
さっき安曇専務は軽ーい調子で「大丈夫、そんなに遅くならないから」と言った。確かに言った。
でも、名古屋は三百キロ以上離れている。時速百キロでとんぼ返りしたとしても単純計算で六時間はかかる。向こうでも多少滞在するんだろうから、帰り着くのはよくて深夜、下手すれば零時を回ってしまうだろう。
何なんだろうこの人。ほとんど見ず知らずの女子高生を拉致同然に車に詰め込んで、一体何が目的なんだろう?
「あの、本社で一体何を?」
「詳しくは私も存じませんが、天野様に本社研究室をなんとしてもご覧に入れたいとか」
「えー? なんで私に」
全然訳が判らない。
幸い、きょうはバイトが休みだ。
とはいえ、連絡なしに深夜まで帰らなければシェフは心配するだろう。私はとりあえず電話だけでもしておこうとスマホを取り出し、バッテリー切れに気付いて眉をしかめる。
「あの、終わったらちゃんと送っていただけるんですよね?」
「大丈夫ですよ、私が責任を持ってお送りいたします」
「そっかー」
とりあえず向こうに着いたら真っ先に電話を借りよう。そう心に決めて私は流れる車窓からの風景に目を移した。
結局、目的地の安曇窯業本社に到着したのは夕方遅く、六時半を少し回ったタイミングだった。予想外に早く着いたのは道がすいていたせいもあるけど、運転手さんがおおっぴらにできない猛スピードで運転してくれたおかげだ。
車はまっすぐ正面入り口の車寄せに乗り付け、ガードマンがさっと駆け寄ってくるとドアを開けてくれる。何だかVIPになった気分。
「あー」
私は車を降りて大きく伸びをすると、そのままぐーっと上を見上げる。日はすでに暮れ、暗い空にそそり立つガラス張りのスマートなビルの窓には、まだ半分以上明かりが灯っていた。
安曇専務はそのままつかつかと玄関を通り過ぎ、昼間は美人のおねーさんが座っているだろう受付カウンターの警備員に無言で小さく会釈すると、私をともなって早足で広いエントランスを突っ切って行く。
エレベーターホールから続々と退社してくる社員達が飛びすさるようにさっと道を空けて頭を下げるところを見ると、確かにこのおばさんは相当偉い人なんだなあと思う。
そして、社員さん達の好奇の視線はその後ろをおっかなびっくり歩いている私にも容赦なく注がれる。
そりゃそうだ。場違いもはなはだしい制服姿の女子高生がこんな時間に
「さあ、こっちよ」
ところが、安曇専務はそんな周囲の目はまったく意に関せず、歩調を緩めないまま、別館らしき建物に繋がる渡り廊下に足を踏み入れた。すぐ先には空港の搭乗ゲートにあるようなセキュリティゲートがあり、大柄なガードマンが外からの侵入者に目を光らせている。
「この子、連れて入るわよ」
専務がそう宣言し、彼女に一礼したガードマンはペーパークリップを手に私の前に立ちはだかった。
「失礼ですが、身分証明書になりそうな物を何かお持ちですか?」
「えっと、生徒手帳とか?」
「はい、それで結構です。あと、携帯電話やスマートフォン、カメラなどをお持ちでしたら中にはお持ちいただけません。合わせてお預かりさせていただきます」
「…はい」
私はポケットから手帳とスマホを取り出し、バッグと一緒にガードマンに手渡す。
彼は手帳を開いて写真と私を見比べると、荷物をまとめて透明なビニールケースに入れて背後のロッカーにしまい、白地に番号だけが印刷されたカードキーを私に差し出した。
「では、これを。ではゲートをお通り下さい」
言われるままにカードを受け取ってゲートをくぐる。アラームは沈黙したまま。ほっと胸をなで下ろした私は、そのまま奥にある自動ドアの前に進むことを許された。
「随分と警戒厳重なんですね?」
「そりゃそうよ。ここは
「はあ」
「ともかく、まずは見て頂戴」
専務はそれだけ言うとセンサーにさっとカードをかざして曇りガラスの自動ドアを開ける。
と、向こうには窓のない細長い廊下がずっと先まで続き、LEDのまばゆく青白い照明の下、白衣姿の男女がずらりと並んで私達を出迎えた。
「お待ちしておりました」
一番手前に立つ背の高い年配の男性研究員が頭を下げながら言う。
「準備できてる?」
「はい」
「じゃあ、お願い」
その言葉が合図だったのか、白衣の集団はサーッと廊下の奥に消え、歓迎の言葉を述べた男性だけがその場に残った。
彼は私達を先導するように二、三歩き出すと、ふと立ち止まって専務に尋ねた。
「専務、こちらの方が?」
「そう、噂のロケットガール、ご本人よ」
うわ。私は眉をしかめる。この恥ずかしい通り名、一体どこまで広がっているんだろう。
「初めまして、天野奈津希です」
いつまでも変な名前で呼ばれるのは嫌なので慌てて自己紹介をする。男性は目を細めて私を見つめると、小さく頷きながら口を開いた。
「ここで主任研究員をつとめてます、神阪です」
父と同じくらいの年齢だろうか? 目尻に刻まれた深い皺のせいか、まるでいつも笑っているように見える。
「よ、よろしくお願いします」
差し出された右手を慌てて握り、その手の滑らかさに驚く。
「…柔らかいですね」
「ははっ、入社以来何十年もひたすら
「へえ」
焼き物作りが肌にいいとは知らなかった。
「ただ、今は天然の粘土はあまり使いませんよ。今からご覧に入れる製品も完全な人工生成です。天野さんが想像されているよりはるかにハイテクですよ」
私の妄想が顔に出ていたのか、神阪氏はニヤリと笑いながらそう付け足すと、研究室の扉にさっとカードをかざす。
「どうぞ、こちらです」
そこにあったのは、巨大なガラス張りのチャンバーと、内部に据え付けられたタンクや複雑なパイプライン。
「あれ?」
強い照明を浴びてキラキラと銀色に輝くパイプラインの終点、壁のそばには頑丈な架台に挟み込まれた花瓶のような物体が見える。直径二十センチにも満たない白っぽいそれは、壁に向かってラッパのように開いている。
「もしかして?」
「さすが、お気づきになるのが早いですね。そばまで行ってみますか?」
神阪氏は右手を挙げて準備中のスタッフに合図すると、チャンバーの扉を細く開けて私を手招きする。
「うわ、やっぱり!」
のぞき込むと、ラッパの口の内側は外側と違ってしっとりとした黒色で、一番奥には二センチほどの小さな穴が空いていた。
「これ、ロケットエンジンのノズルですよね?」
勢い込んで尋ねると、神阪氏は笑みを絶やさず大きく頷いた。
---To be continued---
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