第25話 交通事故

 目覚めると、私の顔を間近で覗き込んでいたシェフといきなりばっちり目が合った。

「あ!」

 シェフはそれ以上言葉を発しなかったけど、まるで能面の様に強ばっていた表情がみるみる崩れてくしゃくしゃになる。

「…あの?」

 問いかける間もなく、見上げる私の頬に熱い涙のしずくがポタポタと落ちてきた。

「…よかった…」

 そう絞り出すようにつぶやくと、シェフはまぶたを指先で拭ってぎこちない笑顔を見せる。

「無事でよかったわ。なかなか目が覚めないから」

「あの、ここはどこ? それに私、一体どうなったんですか?」

 まだ頭が十分に回っていない私は、とりあえず頭に浮かんだ疑問テンプレを口にするだけで精一杯。

 その間にも、看護師がパタパタと部屋に走り込んでくると、私の顔を見てまたすぐに飛び出して行く。

「ここは市大病院救急医療センターの集中治療室。ナツ、あなた、丸一日半意識が戻らなかったのよ」

「え!」

 驚いた。

 確かに、顔を少し傾けて見れば、窓の外からは確かに白っぽい朝の光が差し込んでいる。

「ねえ、ワゴン車に体当たりしたのは覚えてる?」

 聞かれて首をひねる。

「突然まぶしい光が目に入って、何か大きな物にぶつかった所までは覚えているんですけど…」

「私、用事を済ませて家に帰る途中だったの。まさか目の前であんな事故が起きるなんて思わなかったから、本当に心臓が止まりそうだった」

「あの、すいません。何だか」

 答えながら身体を起こそうとした所で、自分の左右両方の手首に点滴のチューブが繋がっていることに気付いてちょっと引く。

「うわ」

「あ、お医者さんが来るまで起きないで」

 シェフは私の肩を優しく押し戻しながら、

「大丈夫、輸血とかじゃないから。単なる生理食塩水とブドウ糖。お医者さんはあなたが脱水症状と低血糖を起こしていたみたいだっておっしゃってたわ。相当長い距離走り回って、おまけに汗もかいていたみたいだから」

 しかめっ面をする私の表情がおかしかったのか、少しだけ表情を緩めながら教えてくれる。

「そう言えば私、変な男に追っかけられてたんです。あれ、どうなったんでしょう?」

「ああ、それは…」

「お、やっと目が覚めたね、おっはよう!」

 シェフが口を開き賭けたところに若い男性医師が明るく呼びかけながら入ってきた。

「はい、ごめんねー、ちょっと診察するからねー」

 そのままシェフと私の間に割り込んでくると、ペンライトで目を覗き込んできたり、吐き気の有無を確認したり、指を立ててそれを左右に動かしながら目で追いかけるように言ってきたり、意外と忙しい。ひとしきり診察が済んだところで、医師は納得したように宣言する。

「うん、もう大丈夫みたいだねー。MRIもCTも特に異常ないし、頬と両ひざと右肘の擦過傷、これ以外に大した怪我もない。あ、頭部に帽状腱膜下血腫が見受けられるけど…」

「ぼ、ぼーじょーけん…何です?」

「帽状腱膜下血腫、いわゆるたんこぶだね。ほら、このあたりちょっと痛いでしょ?」

 言いながら右耳の上あたりにちょいと手を触れられる。自分でも触ってみると、確かにちょっとぶよぶよしていて押すと痛い。

「まあ、念のためこの後、一通り再検査を受けてもらうけど、それで異常がなければ退院できます。こぶもだんだん引いていくから。大丈夫、元通りになるよ」

 そう言ってにっこりと笑った。


 結局、退院はその日の夕方になった。

 頭部MRIに始まり、血液検査、運動能力、視力視野角、眼底検査、その他もろもろ、加えて検査の合間には警察の事情聴取があったりと、まったく息つく暇もない。事故そのものより、むしろそういう後始末の方で何倍も疲れたような気がする。主に精神的に。

「う~、入院って意外と疲れる。寝てるだけだと思ったのに」

 ついついそんなことを口走ってナースに笑われたり。

 走とは対照的に、私はこれまで入院どころかインフルエンザにさえほとんどかかったことのない健康優良児なので、自分が病院のベッドに横たわっているこの視界も新鮮ではある。ただ、ばたばたしたおかげでシェフとはあの後まともに話が出来ず、自分の置かれた状況についてはいまだにきちんと把握しきれていない。

「おーい、生きてるか?」

 地下の売店で買った薄っぺらなエコバッグに荷物を詰め終え、ベッドを整え終わったところで背後から声がかかる。振り向いて見ると、入り口の枠にもたれかかるようにして真弓先生が病室を覗き込んでいた。

「あ、先生、私もう退院ですよ」

「知ってる。そのつもりで迎えに来た。色々と災難だったな」

 そのままつかつかとそばまで来ると、私の右頬に貼られた滅菌パッドに気付いてショックを受けた表情になった。

「お前、それ…」

「あ、これ?」

 左手で頬に触れてみる。ワゴン車に体当たりをかました時にワイパーか何かに当たったらしく、右頬の端から耳にかけて長さ五センチ程度の浅いひっかき傷ができていた。

「大丈夫です。もうそれほど痛くないし…」

「そう言う問題じゃないだろうったく! この前は左、今度は右。お前、つくりだけは悪くないんだからもう少し自分の顔を大事にしろよ!」

 そう、怒ったような口調で責める。

「なんですかその微妙なセリフ…」

 頬を膨らまして反射的に文句を言いかけた私は、急にガバッと頭を抱き寄せられて言葉を失った。真弓先生は私の頭を胸に抱いたまま、さっきとは打って変わって、まるで小さな子供に言い聞かせるように優しく言う。

「お前はもう少し自分を大切にしろ。心配しているのは私だけじゃないぞ。それに、お前にもし何かあったら自分のこと以上に悲しむ奴がいるだろう?」

 それを言われると、まったく反論できない。

「すいません」

 素直にそう謝ったら気が済んだらしく、照れ隠しなのか何なのか、そのままヘッドロックをきめてくる。

「うわ、ギブギブ! 痛い死ぬ死ぬ! せっかく退院なのに~!」

 手足をバタバタさせて慌てて逃げ出すと、くしゃくしゃになった髪を手櫛でなでつけられ、身をかがめて顔を正面から見つめられる。

「?」

「うん、お前はそのくらい挑戦的な表情かおしているほうがいい」

「…あの、先生?」

「ああ、行くか」

 真弓先生はそのままするりと背中を向けると、私を先導するように先に立って歩き始めた。


 駐車場にはいつもの赤い小さなスポーツカーではなく、卵のようにつるんとしたシルエットの白いワゴン車が停まっていた。

「あれ? 先生、いつもの“アレ”は?」

「おい、私の愛車を“アレ”呼ばわりするなよ。退院後いきなりあいつじゃ辛いだろうと思って借りてきた」

「借りたって…だれに?」

「ああ、ガッティーナの…」

「ええ? シェフって車持ってたんですか?」

「そりゃ食材の仕入れだってあるし、車くらいなきゃ不便だろう」

「…まあ、確かに」

 私の頷きに応えるように、ピーッとシグナル音が鳴って後席のスライドドアがゆっくりと開きはじめる。

「ほら乗れ」

「おじゃましまーす」

 荷物をぽいと放り込み、乗り込もうとしてふと気付く。

「先生、まさか私がぶつかった車って」

「違う違う。あの日あいつは駅から歩きだったらしい。路地からあの車ハイエースが四つ角に出て来て、脇に避けた所でお前が反対側から突っ込んで来たって」

「あー。本当に目の前だったんだ」

「お前もなー、いくら焦ってたってほとんど停まっている車に突貫すんなよ。おかげで可哀想に向こうさんは人身事故扱いだ」

 そのままスライドドアが外から閉められる。先生は運転席に回り込んでシートベルトを締めながら後ろを振り向き、私の顔色を確認するように覗き込んできた。

「ほら、ベルト締めとけ。安全運転で行くぞ」

 そう言うと、いつものロケットスタートがまるで嘘のように、氷の上をすーっと滑るようななめらかな発進で出口ゲートに向かう。

「…先生、実は運転うまかったんですね」

「失礼な! とはいえまあ、お前の反応が面白かったもんでな。つい…」

「うわー、失礼はどっちですか。私、本当に怖かったんですよ」

 ”本当に”の部分をことさら強調して文句をつける。本当マジ勘弁して欲しい。あの時は私の人としての尊厳すら脅かされかねなかった(つまり、あの、ちょっとちびっちゃったかも…という点で)。

 そんなやり取りの合間にも、左折して道に出たワゴンはほとんど加速度を感じさせない滑らかさですいっと追い越し車線に入る。EV特有の羽音のような低いうなりが耳に心地よい。

「なんだかフワフワで面白くない車だな」

 そんな私の葛藤を知ってか知らずか、右手一本でハンドルを支えながら、真弓先生はしれっとそんなけしからん感想を吐く。

「なに言っているんですか。私は断然こっちの方がいいです」

「しょせんお子ちゃまには内燃機エンジンの熱いソウルは伝わらんか…」

「そんなもの伝わりませんよ。まったく」

「つまらん奴だなあ。お前だって爆炎ロケット娘のくせに」

「爆炎って…」

 なんだかとてつもなくレトロなイメージの二つ名に呆れ、気を取り直して反論を試みる。

「でも、私は他人に自分の趣味を強要したりしませんから」

「その分周りに迷惑はかけてるけどな」

 負けた。

 見事にリターンエースを決められて私はがっくりと顔を伏せた。


---To be continued---

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