第26話 引っ越し

「じゃあ、待っててやるから、着替えと教科書持ってすぐ戻って来い」

 家のすぐ前まで車で送ってくれた真弓先生は、サイドブレーキを踏むなり意外なことを言い出す。

「は? え?」

「うん、しばらく留守にするから、必要な荷物をまとめてこいって」

「どういうことですか? ここ、私んちですけど」

「だから、しばらくはここに居ない方がいい。あんなことがあったばかりじゃさすがに不用心だからな」

 言われた瞬間、あの不気味な追跡者を思い出して思わず身震いした。

 確かにしばらくは一人っきりにはなりたくないけど。でも、どこに?

「じゃあ私、一体どこに住めばいいんですか?」

「今から送っていく。ほら、向こうで待ってるから早く」

「えー、誰が?」

 そんな押し問答がしばらく続き、根負けした私はとりあえず数日分の着替えと洗面道具、さらに言われたとおり家にあった教科書とスマホの充電器、その他もろもろ手近にあった雑貨をまとめて玄関を出る。

 ワゴン車のリアゲートにもたれて所在なげにしていた真弓先生は、私がナップザック一つで現れたのを見て目を丸くしている。

「本当に、それだけでいいのか?」

「はい、制服以外にはそれほど服も持ってませんし、まさか永久に帰って来れない訳でもないでしょう?」

「いや、しばらくは戻らないつもりで居た方がいい」

 言われてもう一度うーんと考える。

 冷蔵庫は空っぽだし、洗濯物は事故の前日に片付けたばっかりだったので特に急ぐ物はない。不在中の郵便物はちょっと気になるけど、まあ、どうしても困ったらまた真弓先生に手伝ってもらおうと独り決めして頷いた。

「はい、OKです」

「なんだ、じゃあ私の車でも別によかったじゃないか」

 なんてぶつくさ言っている。

「じゃあ、とりあえず行くか」

 そう言うと、自分だけさっさと運転席に乗り込んで私を急かす。

 慌てて後部座席に乗り込む姿をチラリと一瞥した先生はサイドブレーキを戻し、まるで手品師のように優雅に手首をひねってギアを入れ、同時にまるで割れ物でも扱うように柔らかくアクセルを踏み込んだ。プーンという微かな電磁音が響き、車はまだ私がシートベルトも締めないうち、夜の住宅街に低い唸りだけを残して走り始めた。

 私は相変わらず暗闇に沈み込んだままで背後に消えていく走の家を車窓から見上げ、ふうと小さくため息をつく。

「どうした?」

 先生は耳ざとく聞きつけてバックミラー越しに私の目を見つめる。

「いえ、ちょっと前まではここにごく普通の二家族の生活が確かにあったのに。あっという間に誰もいなくなっちゃうんだなーって思って」

 なんとなくメランコリックな気分になってそうつぶやいてみる。

 でも真弓先生は私の声が聞こえなかったのか、何も答えず、まっすぐ前を向いたまま短くクラクションを鳴らした。


 車はものの数分で再び静かに停車した。

 深く物思いに沈んでいた私はサイドブレーキの音で不意に現実に引き戻され、そこがガッティーナの駐車場であることに気付いて困惑する。

「え? 学生寮に行くんじゃなかったんですか? ああ、もしかして自転車も積んでいってくれるとか?」

 パンクしたままの自転車はすぐには役には立たないけど、このまま店に置きっぱなしにしておくのも確かに迷惑だろう。

「いや、ここが目的地」

 真弓先生は短く答え、ヘッドライトを消すとぐいと後部座席に身を乗り出してきた。私を見つめるその瞳にはいつになく真剣な光が宿っている。

「…あのな、念のため先にお前には話しておくぞ」

「はい?」

 真弓先生は自分から話しておくと宣言したくせにしばらく言いよどみ、やがて意を決したように大きく息を吸って話し始めた。

「あいつのご両親は私達が高校生の頃、交通事故で亡くなったんだよ」

「はい、それは以前にうかがいました」

「…ひき逃げだった。発見がもう少し早ければ助かった命だとも言われていたんだ。そして、犯人は未だに捕まっていない…」

「…ひき逃げ…」

 さすがに衝撃的すぎてすぐには言葉が出ない。

「今回の事故がその時のトラウマを呼び覚ましてしまった可能性がある。実際あそこまで取り乱しているあいつの姿を見たのは私も初めてだ」

(ああ。申し訳ないことをしたなあ)

 本気で後悔する。真弓先生の言った“周りに迷惑をかけている”という言葉の本当の意味に、私は今頃ようやく気がついた。

「すいません。反省してます」

 しゅんとうなだれた私をどう思ったのか、先生は私の頭をポンポンと撫でながら言葉を続ける。

「お前の責任じゃない。そこは気にするな」

 そうは言われても、ガッティーナの留守番電話に切羽詰まったメッセージを残してしまった経緯もある。

「今回、お前を引き取ると言い出したのもその辺に理由があると私は思っている。普段ぼんやりのあいつらしくもない頑固さで一歩も譲らなかったんだ」

「って、私、ガッティーナここに住むんですか?」

 驚きがそのまま口から漏れる。

「そう、最近辞めた従業員バイトが使っていた部屋がそのまま空いているそうだ」

 ああ、私の前に勤めていた人のことだ。まさか住み込みまでだとは知らなかったけど。

 でも、それくらい信頼して身近に置いていた人なら、辞められたのは確かに痛かっただろう。道理ですんなり私みたいなのが採用された訳だ。

「ま、そんな訳でしばらくは何だかんだと過干渉気味になるだろう。お前も色々言われて鬱陶しいだろうとは思うが、そこは気持ちを汲んでやってくれ」

 真弓先生の真摯な口調には、かつての同級生クラスメイトを大切に思いやる気持ちが溢れていた。

「…わかりました」

「あと、この話はここだけの秘密にしておいてくれよ。私があいつに叱られるからな。余計な気をつかうなって」

 冗談めかしてそう締めくくる真弓先生に、私は無言のまま大きく頷く。

「じゃあ行くか」

 ふっと大きく息を吐き、先生は気持ちを切り替えるように明るい口ぶりで私を促した。


「はーい、待ってたわよーっ!」

 店の扉を開くと、まるでバネ仕掛けの人形のようにシェフが飛び出してきた。にこやかな笑顔はいつも通りだけど、確かに普段と比べるとだいぶテンションが高い。

「あら? 荷物これだけ? しばらく居てもらおうと思っているのだけど」

「あ、大丈夫です。私服あんまり持ってないんで」

 それだけ答えると、居ずまいを正して深々と頭を下げる。

「このたびはご迷惑をおかけして本当にすいませんでした」

 その途端、シェフは鳩が豆鉄砲を食らったようにキョトンとした顔つきになった。

「それから、今日からしばらくお世話になります」

「まーっ、そんな畏まらなくてもいいのに。むしろ私の方が心細いから来て欲しいって無理にお願いした立場なのにー」

 そんなことは全然言ってなかったぞ吉田真弓二十七歳独身、そうは思ったけれど口には出さず、改めて深々と礼をする。

「ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします」

 言った途端に笑われた。

 おかげで今朝からシェフとの間にあった微妙なわだかまりは消えたけど、笑い過ぎだぞ吉田真弓。

「ともかく、今日は店に出なくていいからゆっくり休んで部屋に慣れてね。お風呂に入りたかったらもう洗ってあるから給湯ボタンを押すだけでいいわ。タオルやシャンプーは置いてある物を遠慮なく使って。あ、とりあえず部屋に案内するわね。真弓、店番お願いね」

 高いテンションのままで一息に言われておお、とおののく私に頓着もせず、シェフは半分放心状態の私のバッグをひょいと奪って先に立った。

 今まで一度もあけたことのなかったロッカールームの奥の扉が自宅へ繋がっているらしく、その場に揃えられていた白いスリッパに履き替えて目の前の狭い階段を上っていくと、たどり着いた二階全体がプライベートエリアだった。

「狭い我が家ですが、遠慮なくくつろいでね」

 十分広いリビングを背中に、シェフは芝居がかった仕草で外国の司会者のように両手を広げてお辞儀をする。

「すごい!」

 私の家より一桁以上は高そうなソファにカーペット、壁にならぶ家具類も丁寧に磨かれて飴色につやつやと輝いている。

「ちっともすごくなんかないわ。ただ古いだけ」

 確かに、幅の広い猫足のサイドボードに据えられたシルバーの薄型テレビだけが雰囲気から浮いていて、せっかくの統一感を微妙に乱しているのが惜しいというか何というか。

「ほとんどが祖母からの貰いものなの。もう亡くなっちゃったけど、祖父は以前イタリア家具の輸入でちょっと羽振りが良かったみたいで、ほとんどがその頃あつらえたものらしいわ」

「ふわーっ、ということは、この部屋の家具は少なくとも私より遥かに年上だと…」

「私と比べたってそうよ。それよりお部屋に案内するわ」

 クスリと笑われ、そのままリビングの反対側にある扉を抜けると廊下を挟んで斜め向かいの白い扉を押し開ける。

「おお!」

 こちらはリビングとはまた全然雰囲気が違う。現代的なシャープなデザインの家具が揃い、扉付きのライティングデスクに座り心地の良さそうなチェア、ベッドはセミダブルと至れり尽くせりだった。

「ここは元々私の部屋だったんだけど、私が父の書斎に移ったから。狭くてごめんね」

 私はまだ放心状態のままふるふると首を振る。

「これで狭かったら私の部屋なんて犬小屋です」

「気に入ってくれたかしら」

「そんなこと気にしたらバチが当たります。本当にここ、使わせていただけるんですか?」

「いいえ、是非使って欲しいの。女の一人住まいで私も不安だったし、かえってありがたいくらい。お風呂はドアを出て右、トイレはその隣、私の部屋は反対側の突き当たり。じゃあ、私は店に戻るから。私を待たずに先に休んでもらって構わないわ」

 そう言い残すと、シェフは廊下をくるくる回りながら上機嫌で店に戻っていった。


---To be continued---

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