第8話 前途多難
扉を開け放したままの図書室の前でようやく立ち止まり、何度も深呼吸して弾んだ息を整えると、足音を殺して室内に入る。
「あの~、ロケットと白血病について知りたいんですけど……」
ひんやりと静まりかえった室内の空気を乱さないよう小声でレファレンスを求める。と、カウンターの奥にある机で書き物をしていた年配の司書、深沢先生がぎょっとした表情で顔を上げた。
「一体何なの? その組み合わせ」
興味を引かれたらしく、老眼鏡をずらしながらカウンターから身を乗り出すように私の襟章を確かめた彼女は、次の瞬間「ああ」といった感じで大きく頷いた。
「あなた、もしかしたら走君の彼女さんよね?」
とんでもない誤解にカッと顔が赤くなる。
「えぇ! 違いますよ!」
あせって慌てて首を振る私に、
「でも、いつも一緒にいらっしゃったでしょ? 校内でよく見かけたわよ」
そう何でもないことのようにサラリと言って柔らかく微笑んだ。
まさか、そんな風にとられているとは思ってもみなかった。
「走君、よくロケットや航空力学の本を借りてたからね。今日はあなたが代理で来られたのかしら?」
「いえ、私が読みたいんです。だから、できれば素人でもとっつきやすい本を教えて下さい。あ、あと、ファンシーなんとか貧血って病気のことも……」
「ファンシー? そうねえ」
答えながらカウンターに腰を下ろし、今年の春に配備されたばかりの図書検索用タブレットを自分の方に向けて慣れた手つきですいすいと操作する。もう孫だっている年齢のはずなのに、間違いなく私よりもデジタルデバイスの操作に慣れている。
「もう少し具体的に、どんなことが知りたいのかしら?」
と聞かれ、できるだけ全体像が網羅的にわかる入門書を要望する。
「それでも、ロケットで二十冊、病気の方は五十冊以上あるわよ、どうする?」
「すいません、無理です。先生のお勧めをお願いします!」
どうするとか聞かれても答えようがない。そんなにたくさん読破できる自信もない。ということですっぱり丸投げする。
「それは責任重大ね。うーん……」
それでも、延ばした人差し指を顎の下に添え、まるでレシピを考えるように楽しげに思案する深沢先生。
「これかな」
と、同じ指を今度はタブレットの画面に向けてピッとタッチする。
そばの小型プリンターからにょろりと打ち出されたレシート大の用紙を破ってしばらく眺め、うんと大きく頷いて私に差し出した。
「これでどうかしら? どれも開架にあるから、リストにある棚番号で探して頂戴。見つからなかったらまた声をかけてね」
そう言うと再びにっこりと微笑んだ。
つられて私もえへへと愛想笑いを浮かべ、おざなりなお辞儀をしてずらりと立ち並ぶ本棚に目を向ける。
うちの図書室はすぐとなりに建てられた公立図書館と書架を共有している関係で、蔵書の数が半端なく多い。一応、図書室のど真ん中を仕切っているガラスの壁の向こう側が公立図書館で、こちら側が学校図書室という位置づけなんだけど、学生である私達はどちらの書架も自由に閲覧できる。ガラス壁にくりぬかれたドアは学生証を兼ねたスマホで自由に行き来できるのだ。
渡された検索結果によると目当ての本はどちらも
目当ての本は意外とあっさり見つかった。ロケットの本はJAXAの宇宙工学者が書いたという中学生レベルの入門書、白血病の方は、新聞記者が書いたエッセー風の闘病記だった。だが、先生が口走った〝なんとか貧血〟の本はさすがに見あたらなかった。貸出手続きはどちらでもできるので、再びドアをくぐって学校側のカウンターに本を持ち帰る。
「あら、もう見つかった?」
貸出機でバーコードをかざしていると、これもまた全面ガラス張りの閉架書庫から私を見かけてひょいと顔を出した深沢先生が笑顔を向けてくる。
「あ、はい、無事に見つかりました」
「ところで……」
不意に表情を引き締めた先生は内緒話をするように声を落とした。
「差し支えなければ聞いてもいいかしら? どなたかお知り合いがご病気なの?」
私は勝手に目が潤んでしまいそうになるのをぐっとこらえて無言で頷いた。どうにか口角を持ち上げてぎこちなく笑顔を作ると、何でもないことのように付け足してみる。
「走が、ですね。あの莫迦、勝手に入院なんかしちゃって……」
そのままへへ〜っと笑ってみた。先生の表情が途端に曇る。
「まあ……」
そのまま絶句する深沢先生にひらひらと手を振ると、
「あ、全然平気です。レファレンスありがとうございました!」
私は慌てて本をわしづかみにすると、そのまま小走りに図書室を出た。
やばい、あのままうかつに優しい言葉でもかけられようものなら泣いてしまうところだった。
「うー、でも困ったな」
階段の踊り場まで一気に走り、手に持ったままの本を見つめてつぶやく。閲覧室で読むつもりだったところをいたたまれず飛び出して来たおかげで、ゆっくり本が読める場所をほかに思いつかない。
学校の近くには喫茶店などないし、教室はもちろん、ファミレスやバーガーショップでこんな本を読んでいるところを同級生に見つかるのもなんか嫌だ。部室には由里子が頑張っているだろうし、自宅で一人きりだと沈んだっきり永久に浮上してこれなくなりそうで怖い。
できればだれか信頼できる友達を巻き込んでこの思いを共有したいけど、いくら考えても、
「……思いつかない」
脱力してへなへなとその場にへたり込む。
地味にショックだった。私、実は友達いないのかも。
こんな時、最初に思いつくのは走だ。というか、あいつしかいない。
私は今さらながら自分がいかにあの幼なじみに依存していたのかに気付いて大きくため息をついた。
「で、どうしてここに来る?」
悩んだ末、私は再び職員室を訪れた。さすがにお盆休みのこの時間まで粘っている先生はほかにおらず、真弓先生だけがいつもの窓際の席で難しい顔をしてぽつりと座っていた。
「いえ、そろそろお腹がすいたな~と」
「お前の目には暇そうに見えるかも知れんが、私はこれでも忙しいんだぞ?」
眉をしかめて私を見上げる真弓先生。でも、ここで負けるわけにはいかない。両者の視線がぶつかって静かな火花を散らす。
「先生、晩ご飯おごってくれるって言ったじゃないですか?」
「いいや、おごるとは言ってないぞ、食費を貸してやるって言っただけだ」
「まあいいじゃないですか、同じようなもんです」
「断じて同じではないぞ。……まあいい。少し待て」
そう言って小さくため息をつく真弓先生。心底嫌そうな素振りをまったく隠そうともせず、それでも手早く書類を片付け、いつものように放り出していたトートバックをひっつかんで立ち上がる。
「行くか」
「できれば、少し離れたところがいいです」
「どうして?」
私は手に持った本を両手に並べて持ち替え、題名を見せる。
「これ、読みたいです」
「家で読め」
「嫌です」
再びにらみ合い。だが今度も先生の方がが先に目をそらした。
「しょうがないな、わかった。私の知り合いの店に行くぞ。ちゃんと食事さえオーダーすれば閉店まで放っておいてくれる。ほれ」
背中を押されて職員室を出る。戸締まりをしてくるからと言われて先に職員駐車場に向かった私は、一台だけぽつりと残っている小型スポーツカーに気付いてぎくりと足を止めた。
(やばい、そうだった……)
気付いたときにはもう遅かった。
「お、どうした?」
躊躇する私に後ろから呼びかける先生のセリフには心なしかからかうような調子が混じっている。
「あ、あの、やっぱりいいです。自分で……」
「お前~、人を誘っといてそれはないだろ。いいから来い」
襟首を掴まれて半ば強制的に助手席に詰め込まれる。
「先生、お願いですから今日はあんまり無茶をしないで…」
「あー、何だー、聞こえんなー」
言い終わらないうちにぐいとアクセルが踏み込まれ、後輪を激しくスピンさせながら赤いスポーツカーは猛スピードで公道へ躍り出た。
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