第2話 失踪

「……奈津希、聞いているのか?」

 問われて、ふと我に返る。

 半切りのトーストを食べ終え、ぼんやりココアをすすっていた私に、父が慌ただしくリビングを行き来しながら言う。

「父さん、今日から出張だ。三日間、神戸だ」

「あ、うん、聞いてる。頑張って」

「お前も夏休みだからってあんまり呑気にしてるんじゃないぞ」

「えー、うん。大丈夫」

 うわのそらでぼんやりとした返事を返す私を一瞬怪訝そうに見つめる父だったが、何かを言い出そうとするより先にテレビの時刻表示に気づき、自分の腕時計と見比べると慌ててリビングを飛び出していった。玄関のドアがガチャリと音を立てて閉まり、テレビから聞こえるニュースキャスターの興奮した声だけが静まり返った家の中に場違いに響く。

『今日未明からの流星雨、ご覧になりましたか? すごかったですねぇ』

『そうですねぇ、私、生まれて初めてこんなすんごい流れ星を見ましたよ!』

 答えるゲストの声も同様に弾んでいる。

 そう、今年のペルセウス座流星群は近年まれに見る大流星雨になった。

 いつもの年だと、多くても一時間に三十個程度しか流れないのに、今年の出現数は多分、百個を軽く越えていたと思う。

 真弓先生と走が慌ただしく消えたあと、展望台に頭を中心に放射状に寝転がった私たちは、日の出の瞬間までちょっとした興奮状態だった。帰りの電車でちょっとだけボイスレコーダーの出現記録を聞き返してみたけど、最初の眠そうな雰囲気はほんの五分ほどで吹き飛び、流星の出現方位と長さを報告する声の合間に、次第に「すごい!」とか、「ヤバイ!」という声が混じり始め、最後はほとんど歓声のオンパレードになった。日の出の遅いアジアやヨーロッパの人たちは、きっともっとすごい流星雨を見たに違いない。

 あまりに凄すぎて現実味に欠け、いまだになんだか夢の中にいるようにふわふわしたままだ。

 私たちは結局、夜明けまで観測を続け、いつものように展望台に併設されたプラネタリウム館の倉庫に望遠鏡を預かってもらうと、始発電車でそれぞれの家に戻った。

 でも、結局、真弓先生と走はそのまま戻って来なかった。帰りに通りがかった走の家も、人の気配はなく、ただ朝もやの中にうす青く沈んでいた。

 突然音量が上がった賑やかなジングルにひかれて不意に我に帰る。テレビを見やると、時刻はそろそろ八時を回るころ。

「とりあえず行ってみるか」

 私は勢いをつけようとわざわざ声に出して立ち上がり、空になったマグカップを軽く洗って水切りカゴに放り込むと、部屋に戻って手早く制服に着替えた。

 今日から三日間はお盆休み期間ということで課外授業はやってない。でも、別に部活動が禁止されているわけでもないので何人かは来ているだろう。それに、走の様子も気になる。

 ブラウスのボタンをとめながらカーテンの隙間から外を覗くと、相変わらず雲一つない抜けるような夏空が広がっている。

「今日も暑くなりそうだなー」

 何気なくつぶやき、髪は後ろで一つにまとめてポニーテールにする。鞄はもたない。財布とスマホだけあればいい。

「いってきま~す」

 いつもの習慣で、無人の玄関にそう言い残す。


「さーて、と」

 ローファーのつま先でトントンとアスファルトを突きながら走の家の様子をうかがう。

 いつもならこの時間には走ママが洗濯物を干しはじめているはずなのに、今日に限ってその姿が見当たらないのが気になる。

「っかしいなあ」

 つぶやきながら、勝手知ったる走の家、そのままズカズカとエントランスに入り込み、玄関ドアのノブに手をかけた。

 ガチャリという硬い手応え。

「あれ?」

 鍵がかかっている。

 いや、それ自体は防犯上もとっても良いことなのだけど、私の知る限り、日中、走の家の玄関に鍵がかかっていることはかつて一度もなかったはず。

 慌てて庭に回り込んでみると、洗濯物どころかここにも雨戸が降りている。

「ええ? 留守?」

 だれも居ないなんておかしい。昨日はそんなこと全く言ってなかったのに。

「走~!、走ママ~! 居ませんか~?」

 大声で呼んでみる。それでも、家はしんと静まりかえっていた。

「これは、異常事態?」

 色々ヤバいような気がする。

 走が私に何も言わずにどこかに行ってしまうなんて、記憶にある限り一度もなかった。ちょっと近くのコンビニに出かけるのだって、いちいちウザいメッセージを入れてくるようなやつだ。家族全員で留守にするなんて重要なこと、言い忘れるなんてありえない。

 それに、もしこの事態が長引くとしたら、私は今晩から三日間の食事を一体どうしたらいいのだろう。

 残業が多く、普段でも日が変わる前に帰宅することなどほとんどない父は、私がいつも通り星川家で晩御飯を食べると思い込んでいたはず。買い置きの食パンはトーストにしてさっき食べ尽くしてしまったし、家にまとまったお金なんて置いてない。

「うそ、やだ!」

 そこまで思い至り、慌てて財布を確かめる。中にあるのはわずか五百三十円。先週カラオケに行って歌い倒したのがまずかった。お小遣い日まで何日もないからいいやと正直たかをくくっていた。

「うわ、本当にヤバい、餓死する!」

 こうなったら是が非でも走、いや、食料を確保せねば。

 一人パニックに陥った私はそれ以上は考えずに走り出す。

 学校に行けば、きっと走はあのふんわりぼんやりした笑顔で「あれ、どうしたの?」なんて言って迎えてくれるはず。

 そのはずだったのに。


「走? そう言えば今日はまだ来てないねって言うか、ダンナの行き先ぐらい嫁のあんたがちゃんと把握してなさいよ」

 部室で今朝の流星群の記録をまとめていた由里子は、私が走の事を聞いた途端に呆れ顔でまぜっ返す。

「ダンナ言うな。そんなんじゃないっていつも言ってるでしょ!」

「あのねえ、そう言ってるのはあんた達だけ。どこからどう見たって長年連れ添った老夫婦のノリじゃんよ。いい加減認めて楽になりなさいって」

「だから~! 私はあんなふわふわしたのじゃなくて、せめてもうちょっと……」

「私は忙しい。そんなに気になるなら独身せんせいに聞いてくればいいじゃん。昨日走を連れ出したの、あの人でしょ」

「あ、そうか」

「しっかりしなさいよ~もうっ!」

 そこまで言うと、由里子は再びイヤホンを耳に突っ込んで流星群の描き起こしに戻る。同心円の描かれたチャートに素早く放射状の線を描き込みながら、小さく鼻歌まで歌い出した。

 こうなるともうダメだ。多分録音を聴きながら今朝の大流星雨を思い起こしているのだろう。時々グフフッとかデヘヘッとか、不気味な笑い声がそれに混じる。

「じゃあ、職員室行ってみる」

 宣言してみるが、星の世界に行ってしまった由里子からの返事はない。

 しょうがない。真弓先生もどうせ独りで暇だから出勤しているに違いないと独り決めして今度は本部棟に走る。

「こら、天野、廊下は走るな!」

 と、いきなり体育教師の金剛寺に怒鳴られてペコペコと頭を下げ、話題を逸らそうと「吉田先生はいらっしゃいますか?」と聞いてみる。

「吉田先生? ああ、そう言えば今朝は珍しく遅刻されていたな。随分深刻な顔していたし、お前ら、また何かやったのか?」

 彼にとっては何気ない一言だろうけど、なんとなくカチンとくる。大体、そんな言われようをするほど目立った記憶は……。まあ、あるな。

「またって何ですか、またって? 吉田先生に言いつけますよ」

 でも、ちょっと悔しかったのでトーンを上げて反論する。

「あ、いやいい。先生は中にいらっしゃるから」

 と、まさか言い返されるとは思っていなかったのか、慌ててとりなしてくる金剛寺。うん? 相変わらず吉田先生には頭が上がらないらしい。

「はーい」

 せいぜい愛想よく返事を返し、最後にニヤリと笑ってギョッとした顔を浮かべる金剛寺先生を尻目に勢いよくドアを引き開けた。

「2年4組、天野奈津希入ります!」

 空調に冷やされた空気がどっと吹き出して来るのに逆らってズカズカ大股で職員室に入る。

(うわ、私たちには節約しろとか言ってるくせに!)

 教室では六月中旬から九月中旬の学期中しかエアコンは使わせてもらえない。当然夏休み期間は部室も含めてエアコン禁止、しかも、誰が決めたか、生徒が四十人も詰め込まれた教室で律儀に二十八度設定を守るものだから、ほとんど効いている気がしない。それに比べるとこの部屋は天国だった。多少タバコくさいのは別にしても。

 後ろ手にドアを閉めながら見回すと、真弓先生は一番奥の自分のデスクで採点用の赤色フェルトペンを中途半端に掲げ、窓の外を眺めたまま機能停止フリーズしていた。

「先生? 真弓先生!」

 軽く呼んでみるが反応がない。

「吉田先生!」

 三度目でようやくフリーズが解除された。

「おう、なんだナツ、用事か?」

「用事があるから来たんですけど……」

 なんだか変だ。心ここにあらずという感じで、今日に限っては目線すら合わせてもらえない。

「なんだか怪しいな。先生、私に何か隠していませんか?」

「む……」

 いきなり核心を突いてみると案の定だった。

 先生の目は何かすがるものをを探すように空中をふわふわと泳ぎ、口をへの字に結んだまま、いつものマシンガン毒舌トークが出てこない。

「走のこと、聞きに来ました。先生何かご存じなんですよね?」

 途端に嫌そうな表情になる。

「……ナツ、お前」

 そこで言葉を切り、ペンをコトリとデスクに置いてそのまま右手を胸にあて、大きく深呼吸する。が、それでもなお、なかなか話を切り出そうとしない。

 私と話をするのがそんなに気重なんだろうかと逆に不安になる。

「お前、ほんにんから何も聞いてないのか?」

「え? はい」

「そうか」

 そのまま迷子の子猫を見るような目つきで見つめられる。

「じゃあ、悪いが私からは何も言えないな」

「いや、それは困ります!」

 私はいきり立った。

「困るって言われてもだな、こういうことは個人情報と言ってな、厳重に……」

「生命の危機なんです!」

「は?」

「私、走がいないと死んじゃいます!」

「……えらく情熱的なセリフだが、意味がわからんぞ」

 私は途端に赤面した。確かに、言葉だけを取られたら全然別の意味になる。

「っああ、すいません! そんな意味じゃないです。全然違います。本当に。信じてください!」

 すがりつく私の手を面倒くさそうに払いながら、

「ああ、わかったからちょっと落ち着け。聞いてやるからもう少しちゃんと話せ」

 と、ともかく話を聞いてくれるつもりにはなったらしい。

 私は指を指されるまま手近の丸スツールを引き寄せて腰を落ち着けると、天野家の食糧事情について詳しく説明した。不在がちな父が星川家に月々なにがしかの食費を払って私の夕食を手配していることとか、昼食のお弁当も走ママにお願いしてしまっていることとか。小遣いの残金がわずか五百三十円であることとか。

 確かに高校生にもなってお弁当は甘えすぎのような気がしないでもないけど、「いいのよナッちゃん、どうせ一人分も二人分も作る手間は同じだから」と言われて断れるほど私は意思が強くない。走ママの料理は美味しいのだ。

「でもですね先生、これでも最近は夕飯作りを手伝ったりするようになりましたし、ちゃんとお弁当箱は洗って返しますし……」

「そのくらいの気遣いは当たり前だバカ。しかしまあ、そうだったか。困ったな」

 本気で困っている。

「大丈夫ですよぅ先生。私と走の仲じゃないですか。それに私、先生から聞いたって誰にも言いません。誓います」

「そういうことじゃないんだよ。しかもお前、言葉の使い方を微妙に間違ってるぞ」

「えー?」

 あえて軽いノリで返してみたけど、先生の口ぶりはひたすら渋い。でも、私だってここで引き下がるわけには行かない。文字どおり命がかかっているのだ。

 しばらく無言のにらみ合いが続いた後、先生がついに折れた。手元のプリントに視線を落として用紙の角をぐにぐにと折り曲げながら、ぽつりとつぶやくように、

「休学届を受理したんだ」

 そう聞こえた。

「え?」

 いきなり予想外の単語を持ち出されてきょとんとする。

「私の?」

「どうしてそういう話になるんだ。走のだよ」

「え! どうして?」

 我ながら相当バカっぽい顔をしていたのだと思う。先生は哀れみすら感じさせる表情になると私の肩にガシッと両手を置いた。

「気を落とさずに聞け。星川走は休学した。当分学校には来ない」

 人は、あまりにも意外な事実を知らされると声が出せなくなるんだということに、私はこの時生まれてはじめて気づいた。

「……ちょ」

 それきり言葉が出ない。気がつくと私はポロポロと涙をこぼしていた。

「っだぁあ、だからそこで泣くなって。お前の柄じゃないだろう?」

 慌てた先生がポケットから慌ててハンカチを引っ張り出すと私の頬に押し当てた。

「……私、何も聞いていない」

 驚いて、情けなくて、何だか寂しくて、そんなつもりじゃないのにどうしても涙が止まってくれなかった。

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