第3話 家庭訪問
「ほら、とりあえず涙を拭け。ずいぶんひどい顔になってるぞ」
そう言って真弓先生に箱ごとほいと渡されたティッシュで立て続けに鼻をかみながら、私は悔しさと寂しさがないまぜになった気持ちで一杯だった。
「まあ、お前に伝えなかったのは悪かったよ。本人から堅く口止めされていたんでな」
気まずそうな顔で言い訳する真弓先生。
「……どうして、ですか?」
グスグスと鼻をすすりながら、それでも訊く。走が私に隠し事なんて、にわかに信じられない。
「さあ、な。さすがにそれは本人じゃないからわからん」
言いながら、腕組みをして口を尖らせる真弓先生。
「でも……」
私と走は保育園入園以来、不思議なほどずっと同じクラスだった。朝から晩までずっと一緒で、多分、それぞれの親よりもお互いと一緒の時間の方がよほど多かったと思う。
小学校低学年の頃は、しょっちゅう体調を崩す走の世話が私の役目だった。授業中いきなり放送で呼び出され、保健室で青白い顔で伏せっている走を連れて家に帰ったものだ。
あげくに数週間学校に来ないなんてこともよくあった。そんな時、宿題や連絡のプリントを走の家に届けるのも私の役目だった。
もしかしたら、小、中とずっと同じクラスだったのもそれが関係しているのかも知れない。
いつでもどこでも簡単に倒れてしまうので、走は小学校入学と同時に、発売されたばかりのGPS付きこども携帯を持たされていた。自然、付き添い役を強いられた私も色違いの携帯を買ってもらい、まあ、それだけはちょっと嬉しかった。
いつでもお互いの所在がわかるように、移動するときや長時間電話に出られなくなるときには必ずショートメールを送り合うのが暗黙の約束になり、〝本屋に行く〟とか、〝お風呂入る〟みたいなしょうもないやり取りまで含めると、二人の間で交わされたメッセージやメールの件数は軽く数万通を越えていると思う。
高校に入学してふたりともスマホを持つようになり、便利なメッセージアプリが登場してから私は逆にほとんどメッセージを送らなくなった。
ぶっちゃけ言うといいかげん飽きた。
でも走の方は相変わらずで、毎日のように顔をあわせているにも関わらず、今でも一日に数回はメッセージが送られて来る。
だから、突然こんな風に連絡が取れなくなる事がどうしても信じられない。
「それにしても、お前がそんなにあいつに気を使っているなんて思わなかったよ。傍目には身勝手なお嬢様とそれに振り回される心配性の執事っていう感じにしか見えなかったがな」
ずいぶん酷い言われようだ。
「先生は知らないんですね。昔は、私の方が彼の召使いみたいな感じだったんですから」
すかさず力説する。ここを誤解されるわけにはいかない。
そんな二人の関係が大きく変わるきっかけになったのは、私の両親の離婚だった。
色白で病弱。だれもがそう思っていた走が、母が私の元を去って行った翌日、急に早朝ジョギングを始めると言いだした。
大方の予想通り、無理がたたって何日もせずに倒れた。なのに、私や走の両親が口を酸っぱくして何度止めるように言っても頑として譲らなかった。
挙げ句の果てには私がお守り役で一緒に走らされることになり、さすがに迷惑したのを覚えている。
初めて大げんかしたのもそれが原因だったし、数日とはいえお互い口をきかなかったのは後にも先にもその時だけ。
それでも、彼は意思を曲げずに貫き通した。
あの時は本当に驚いた。あそこまで強情を張る走なんて生まれて初めて見たから。
結局、早起きが嫌で一月もせずにお守り役を放棄した私を尻目に、彼はそれ以来、大雨や雪の日を別にすればほとんど毎日、今でも毎朝走っている。
いや、走っていた……か。
小学校入学以来、ずっと保健室の常連だった走。
今でも色白で細っこいのは変わらないけど、彼はあの頃とは比較にならないほど丈夫になった。
最初は私が毎朝家まで迎えに行っていたはずが、いつの間にか立場が逆になっていた。
「私の両親が離婚したのがきっかけで、彼は変わりました。多分、アイツなりに自立しようと思ったんじゃないですかね」
それを聞いて真弓先生は納得したように頷いた。
「なるほど……。だとすると、今回もそうなのかも、な」
「で、走は今、どこにいるんですか?」
「それは…私にも詳しくはわからない。ご両親に聞いてみるしかないだろう」
先生は背もたれに身体をあずけ、大きなジェスチャーで腕を組む。しばらくそのままうーんと天井を眺めてうなり、やおら椅子をきしませながら私をじっと見つめ、急に立ち上がる。
「ナツ、お前、放課後何か用事あるか?」
「まあ、部室で適当に暇を潰して帰ろうと思ってましたけど、別にこれといって……」
「よし、じゃあ、後で車で送ってやる。
「えぇ?」
思いがけない提案に目を丸くしながらも、私は小さく頷いた。
部室に戻ると、待ち構えていた由里子に捕まった。
「文化祭で今回の流星群のパネル展示をやりたいのよ」
そういえば、夏休みが終わればすぐ文化祭だ。
去年は先輩の手伝いに駆り出されて展示テーマを決めるまでもなかったけど、来年の今頃には早くも引退だ。さすがに今年何もやらないわけに行かないだろう。
「あんたも何か発表テーマを決めなさいよ。今だったらまだ間に合うから」
言われて悩む。こういうことは走の担当だとすっかり頼りきっていたので、正直何も考えてなかった。
「私も流星群じゃだめかな?」
「うーん」
ところが、あっさり頷いてくれると思った由里子は意外に渋る。
「いや、手伝ってくれるというのは純粋に嬉しいんだけど、それだと展示が貧相になるわ」
「え?」
「だって、あんたがこっちに来ると走がもれなくついて来るよね。そうすると、トモヒロが奇跡的に頑張ったとして、それでも展示テーマが二つしかない。それはちょっと困る」
確かに。二年生の部員は
アイディアだけは抜群だけど実務が壊滅的なトモヒロが締め切りをぶっ飛ばすのは中学時代からもう慣れっこで今更怒る気にもならない。一年が思いのほかしっかりしているので今の所どうにかなっているけど、確かに万一のことは常に計算に入れておく必要がある。
「じゃあ、走に何か別のテーマを……」
何気なく言いかけてハッと気付く。
そもそも、走は、文化祭までに戻って来るだろうか?
一方由里子は信じられないものでも見たような表情で私を睨みつける。
「あんた、バッカじゃないの。走がそんなことするわけないじゃん。いつだって『奈津希命』の忠犬ハチ公なのに」
断言されて胸がチクリと痛む。
「……じゃあさ、しっかり者の一年に何かやらせよう」
「先輩としてどうなのよその態度。
「……そうかな」
「そりゃそうよ。OBにも顔向けできないわ。いい、二年生部員一人一テーマは厳守! まあ、
「ええ~!」
三年生が由里子を副部長に指名した理由がなんとなくわかる。
あの
と、ここで素朴な疑問が浮かぶ。
「ねえ、由里子」
「何?」
「どうしてあなたが部長にならなかったの?」
問われてニヤリと不敵な笑みを浮かべる由里子。
「まあ、部長やりたがってたからね、あいつ。おおかた内申でも気にしてたんじゃないの?」
「でも、やりにくくない?」
「全然。むしろ生徒会との弾除けにちょうどいいわ。それに私、昔から暗躍するのが好きなのよ」
そう言い放ってカカカッと笑う由里子。こ、怖い。
「まあ、テーマは来週までに提出のこと。よく話し合ってね」
「……うん」
どうやら、さすがの由里子
本当に、誰にも何も言わずに消えてしまうなんて…。走は一体何を考えているのだろう。
私は肩を落とす。しょうがない、とりあえず図書館で何かネタを探しながら時間を潰すか…と振り向きかけたところでガシッと腕を掴まれた。
「ま、それはそれとして、今は手伝ってもらうわよん」
「えー、結局手伝わせるんかい!」
「どーせ暇なんでしょ」
「ぐっ!」
ズバリと言われて反論できない。
真弓先生を待つと約束した以上、夕方までは学校にいなくてはならないし、自分のテーマが決まってない以上、逃げる口実も見つからない。
由里子はニヤリと不敵な笑みを浮かべると一言。
「大丈夫、少しは手加減してあげるから、キリキリ働いてちょうだい」
退路を絶たれた私の背中に戦慄が走る。
集計が一段落付いてようやく解放された頃には太陽はとっくに西の地平線にかかっていた。
「天文地学部、部室の鍵、返却でーす」
鍵の返却まで押し付けられ、本日二回目となる職員室。
ようやく激務から解放され、ヘロヘロになりながらガラリと扉を開く。
見ると、真弓先生はオレンジ色に染まる空をバックに、昼間見た時とほとんど変わらない姿勢で相変わらずぼんやりしていた。
「先生! もう帰りますけど?」
「お、おう! 行くか」
真弓先生は答えながらバタバタとデスクを整理すると、となりの机に投げ出していたバッグとキーホルダーをがしっとつかんで慌ただしく飛び出してきた。
「じゃあ、ナビは頼む」
当たり前のように言われて一瞬たじろぐ。
私だって乗り降りするバス停を別にすれば道案内できるほどには詳しくない。家の周りの徒歩圏内、バスを乗り換える駅の周辺数百メートル四方がせいぜいだ。これまではどこに行くにも便利な
「え~、先生、走の家ご存じないんですか?」
「当たり前だ。
「だって、さっきはそう言ってたじゃないですか」
「実はちょっと憧れてたんだ」
「は? 家庭訪問に?」
「ああ、いい響きじゃないか。いかにも教育者って言う感じがするな」
と言うと、目をキラキラさせて握りこぶしをぐっと握りしめたり。
ああ、この人、何も考えていない。
というか、この人の萌えポイントがさっぱり理解できない。
私は頭を抱えると、無言でポケットからスマホを取り出し、マップアプリを立ち上げる。
「先生、これ」
と、嫌味半分にルート検索した画面を目の前に突きつけた。
「えー、どれどれ?」
そんな素振りには目もくれず、寄り目気味に画面を睨んでしばし考える素振りを見せた真弓先生は、指でちょいちょいと画面をいじり、身体を起こしてにっこり微笑んだ。
「よしわかった。じゃあ行くか!」
そのままバッグをブンと振り回して肩に担ぐと、タイトなパンツに包まれた長い足で大股に歩き出す。
「え、これだけで、ですか?」
廊下の行き止まりから西日が差し込み、長身な先生のシルエットはオレンジ色の光に包まれて神々しいほどに輝く。
「ほら、置いていくぞ!」
「あ、ちょ、待って下さいよ!」
相変わらずの超マイペース。私は慌ててスマホをポケットにしまい込み、先生の影を追っって走り出した。
校舎の裏にある駐車場にたどり着くと、ちょうど小さな赤いスポーツカーがアイドリングを始めたところ。ナンバーは黄色だから軽乗用車なんだろうけど、オープンカーっていうのか、屋根がない。おまけにシートが二つしかない。
「これ、先生のですか?」
らしいと言えばいかにも真弓先生らしい。でも、嫌な予感がプンプンする。
「いいから早く乗れ乗れ!」
急かされて恐る恐るドアを開けてみるものの、シートが低くめちゃくちゃ乗りにくい。それでもなんとかお尻からすっぽりとはまり込むように硬いシートに腰を落ち着けると、シートベルトがまたえらく変わっている。ベルトをリュックサックみたいに両肩にかけ、腰の周りで一周する複雑なタイプ。
「先生、これ…」
嫌な予感がピークに達し、やっぱりやめたとシートベルトをはずそうとして手で制される。ヤバい。目が据わってる。
「いいからしっかりつかまってろよ」
次の瞬間、ギュルギュルという激しい音と共に、赤いスポーツカーはまるでロケットみたいに飛び出した。
「きゃー!」
悲鳴を上げるいとまもなく、通用門を飛び出したスポーツカーはスリップ音を響かせながら鋭く左にカーブする。
「せ、せ、先生!」
「あー、なんだ~?」
黄色に変わった信号にスピードを上げて突っ込みながらのほほんと答える先生。
「し、し、し」
前を走るトレーラーのお尻に追突せんばかりの勢いで加速し、車間がほんの少しだけ開いた所で、まるでジャンプするかのように追い越し車線にポンと飛び込む。
「だからなんだっつうの?」
そのままシートに押しつけられるように急加速し、トレーラーをパスしたところで再び走行車線にひょいっと入り、さらに加速。
「殺されるー! 降ろしてー!」
「人聞きの悪いこと言うな!」
「ぎゃーっ!」
いくら騒いでも停めてくれない。あれは絶対に面白がっていた。
結局、走の家に着いたときには私は完全に真っ白に燃え尽きていた。少しちびったかも知れない。
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