第152話 泣くな、嘆くな、怒るな、取り乱すな、苦しむな、後悔するな
アスカはギュッと目を潰っていた。
今、兄のことを考えてはいけない。あとで思い出す時間はいくらでもある。
アスカは必死で自分にそういいきかせた。
目の端に見えるモニタ画面には、司令部のブライト、ミライ、リンたちがなにかを叫んでいた。だが、何も聞えなかった。何も伝わらないようにしていた。
音声を切断しているアスカには、ぱくぱくと口を開いている滑稽な映像にしか見えない。
いまは誰の声も聞きたくない。
兄への思い、兄との想い出を、思いださないように集中していたかった。
泣くな、嘆くな、怒るな、取り乱すな、苦しむな、後悔するな……。
ぜったいに感情を揺さぶられるな。
心の奥底にあらゆる感情を閉じこめろ。
どんな感情でも、今、心の中に浮かんだら、こいつに、このデミリアンに取り込まれる。
そんなことぜったいさせない。
兄を奪われたのに、さらに自分がそのあとを追うのをぜったいに許さない。
兄のどこかうれしそうな困惑顔が浮びそうになるーー。
とてもあったかい……あれはあたしへの当てつけ……。
兄が真剣にトレーニング中に取り組んでいる姿が頭を
見とれるほど……みっともない姿……。
冗談で自分をからかった兄の満足気な笑顔と笑い声が聞こえそうになるーー。
心を和ませる……反吐がでそうな笑い声……。
アスカは自分の手で耳を塞いだ。
自分のヴァイタル・データを表示しているモニタを睨みつけた。
グラフに乱れがあった。
心拍数が上昇し、呼吸が少し荒くなっている。脳の数値をみると、いくつもの分泌物の値がじりじりと上昇しているのがわかった。
ふざけるなぁ。
あたしはこんなことで、心を乱さない。あんたなんかに絶対に取り込まれやしない。
取り込まれてなんかやるか。
アスカはふたたび、ヴァイタルデータのグラフをにらみつけた。先ほどまで山なりに上がりはじめていたグラフが、すーっと下りはじめていた。
アスカはふーっと大きく嘆息した。
呼吸の値が落ち着きはじめる。
もう大丈夫……。
あたしはもう大丈夫……。
みんなが心配することなど何もなかった、万事にそなえる必要などなかった。
アスカは口角をあげた。まだ口元をひきむすんでいたが、笑顔にみえるはずだ。
あたしは乗り越えた——。
その証拠を満面の笑みに乗せて、みんなに送りつけてやる。
パイロットとしてこのデミリアン、セラ・ヴィーナスのたくらみをねじ伏せたのだ。
ざまぁみろ。
アスカは気分が良かった。軽やかなしぐさで手を伸ばして、先ほど切断した音声回線のスイッチをいれた。すぐに室内が声や音で満たされはじめた。
「ブライト、メイ、あたし耐えきったわ……」
その時、右側の壁から、パタンという音がした。
聞きなれた音……、いつもは気にもとめない音……。
デッドマン・カウンターが一枚めくれただけだった。
それは兄、リョウマの命の音だった。
そこまでが限界だった。
アスカが必死でせき止めたあらゆる感情の波が一気に、自我の壁を崩落させた。
あたしが、殺したのは亜獣なんかじゃなかった——
あたしが、殺したのは人間だった——
あたしが、人間を殺した——
あたしが、兄さんを殺した——
あたしが、この手で兄さんを殺した……。
アスカはあーっという声をあげ、髪の毛を、顔を掻きむしりはじめた。
悲傷に歪み、後悔に沈み、憤怒に哮って、空虚に放心している……。
あらゆる感情がほとばしり、狂乱の表情がアスカの顔を隈取っていった。
ドクン……。
どこからか大きな、とても大きな鼓動が聞こえた。
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