ばばあバー

@queso4

ばばあバー

無人島に携えるものを只の一つだけ選ぶなら括弧にしようと決めたとき、その貼り紙が気になった。


ばばあバー

求ム、孫

時給500円、賄い有

受付このビル上、5階


サイズはA4。字は手書き。左寄せされた看板に、ぴしゃりと張られた白い紙。

思い返せば先月も、立ちはだかった貼り紙があった。


劇団なんちゃら

第六期

入団試験会場はコチラ


なんちゃらは勿論正確な名称が思い出せないから便宜上充てている言葉だが、探してみたらそんな劇団もありそうで、それが劇団というものだ。扉の向こうでは入団試験が、と想像するだけで血湧き肉踊る。アドリブで何かを演じることが求められたりするのかしらん。たぶん、あえて泣かない演技の方が評価される。審査員諸氏は折り畳み式の細い脚付き・ど華奢な机に脳味噌預けて頬杖ついて、マストアイテムはパイプ椅子です。晴れて入団できた暁には、志高きはらからと、鈴木団員田中団員とうきうきと呼び合えるのか、否か。電動自転車による稽古通いは許されるのか否か。

想像力の翼でどこまでも、と行きたい気持ちは山々だったが宴もたけなわ、その時は人といたこともあり、意外と常識派の私は広げきった妄想劇場(入団試験の巻)を端からくるくる畳んでケースにしまい、横向きに歪みきった視線と意識とを両の掌で押さえるや否やごきりと正面に向けて、惜しまれながらも会場破りになる道を捨てた。この度選ばれたのは、「気になる貼り紙だわ」「気になる気になる、なんとも気になる」などと毒にも薬にもならない会話で人生の空隙をパテでも塗り込むかのように懸命に埋めつつ、足元のコンクリをわずかながらも確実に削りつつ、貼り紙のことなぞ次の瞬間にはケロリと忘れて、つかつかつかと歩いていく方の道です。


貼り紙(劇団)は置いといて、視線と意識をも一度ごきりとやったらば、眼前にあるのは薄汚れきった建物で、こちらがおそらく貼り紙(ばばあ)の言うところの「このビル」だ。かつて人々がビルなる言葉に抱いたであろう、進歩的都会的近未来的印象が「このビル」からは微塵も感じられず、周辺住民が吹きすさぶビル風とは無縁の穏やかな生活を送っていることは、想像に難くない。たぶんこんなのを雑居ビルと人は呼ぶのであろう、「このビル」の正面には昔風のエレベータ、それを囲むのは鶯色のタイル。けちで不器用な職人が卵の黄身塗りたくったかのごとし、いびつに光るコーニーな長方形たちが、必死にびっしり並んでいる。

今日は一人でいるのだし、というかほとんどの時間一人でいるのだし、守るべきものはなく盗られるほど金もなく、私はとりあえずエレベータのボタンを押す。


気付けば私は男と向かい合っている。はだ艶だけ見りゃ中年で、声だけ聞いたら若人の男。齢が知りたい、一の位まで正確に。何かの事件で加害者か被害者になってくれたなら、両手に括弧の年嵩が、電波に乗ってお茶の間に届くのに。

諸兄は、魚卵のようにばかすか数ある帝都東京の不動産屋に、価値ある時間を泣く泣く捨て置かれたご経験をお持ちだろうか。ぎすぎすした雰囲気でパンク寸前のくせして「親切自慢です」が売り文句の、欺瞞と矛盾が熱い息を吐く不動産屋に。ここはちょうどそんな雰囲気の場所で(従業員一人でいかにしてぎすぎすした雰囲気を充填したのかは不明)、案内する者とされる者とが、長机でもって、至極丁寧に隔てられている。じっくり話さなきゃ人柄はわからない、なんてのは、うつけ者の寝言。人ひとりの底意地の悪さが辺りに臭いだすまでに、十分あれば十分だ。端的に言えばこの男、頗る感じが悪かった。品定めするような目玉の動きと五六秒置きの特大の嘆息、ただただクレッシェンドの貧乏揺すりに、試される、わが勤労意欲は。


しかし当方腐っても大人、餅つきの、杵じゃない人の要領で、ええ、ええ、ええ、と相槌打ってりゃ会話は進む。ここには抵抗があるわけで、進むことさえやめなけりゃ、いつか絶対に止まるので。

ふと見れば扉。そして再び白い紙。下にあったのとおんなじ筆跡「スッタフ以外立ち入り禁止」。スッタフ。ロシア語風の響き。扉から出入りする赤毛の大男を思い浮かべる。

「孫になっていただくのに、特別な手続きはいりません」貧乏揺すりのついでにぼそぼそと形式的に説明を進めるこの男は、どちらかというと小柄だ。彼はスッタフではないかもしれない。

「寂しいおばあさんと他愛ない話をする、それだけ。昼飯でも食いながら。あるいは煎餅なんかつまみながら。それで1時間500円です」

「私がほんとの孫じゃないことは、すぐわかりそうなものですが、しかし、」

「大丈夫、大丈夫。登録されてるばばあはね、みんなきっちりぼけててね。誰が来ようが同じなの。むしろ初対面の人と話した方が、ね、いいしょや、刺激になるんだし」

私は、いきなりため口で話し始める人間を信用しないと決めている。この男ときたら、そんなことも知らない。

「言うなれば、私なぞ、どこの馬の骨ともわからぬ女。盗むかもしれないし、殺すかもわからない。ご家族は心配でないんですか」

「誰とも話さないで一人でいるなんて、ほとんど死んでるようなもんだからね。殺されたって一人よりはね。来る人いるだけ、ましでしょう。ご家族がそう判断されたの。こういう優しさもあるってことです」

ここまで言ってすっきりしたのか、男は、ここぞというときのために大事に奥にしまっていた笑み(と本人が思っているとおぼしき顔)を流星のごとく一瞬間走らせた。間髪いれずに、「どのおばあさんにしますか」とのお尋ね。ぱすりとひらいたノートには、下手くそな字で、こうあった。


どんぐり

みっちゃん

らっかさん


らっかさんが落下傘の意味だと理解するのに時間がかかって、答えはすぐに決まる。

「らっかさんにします」

「ああ、らっかさん。貯金額の話ばかりするおばあさんですけどね、この人にするんですね」

「はい、その通りです」

「ビジュアルのみに留まらず、性根まで漏れなく悪いのが傷に傷、親族は来ない、友人はいない、清々しいまでの完璧な一人暮らし」

「わかっていますとも」

「彼女の辞書に『感謝』の2文字はない。与えられるのは当然で必然、じゃなきゃ憤る、泣きわめく、恨みごとで城ができちゃう。何度でも同じようにすることが可能だと切腹の覚悟をしてでも誓えるような、ごくごくちっぽけな親切以外は、けっして彼女に与えてはいけません、そこはわかる?」

「ええ、わかります」

「よし」と男。「じゃあ、いいでしょう」再び、男。

「それでは、こちらの扉から退出をお願いします。ドアを開けたら、もうおばあさんの家の前に出るから」と言うが早いか、彼は例の貼り紙がされているドアを少しだけ開けて、こちらの様子を窺うようにドアノブを握ったまま静止する。

みるみるうちにスッタフの仲間入りをしていた私は激しく動揺してしまい、「帰るときはどうしたらいいんですか」などと、些末なことを尋ねてしまう。「向こうの時間で2時間経ったら、なんとなくこちらに戻って来れるから。心配ご無用」ぼそぼそしてはいたものの、おそらく男はこう言った。

よく考えれば、ロシア語はロシア人専用のことばではないし、ちびや痩せっぽちや黒髪のロシア人だってきっとたくさんいるだろう。万人の立つ場所が、スッタフに続いている。


心の平安を取り戻した私は、ドアノブを握る男の目を見てうんうん頷き、ドアのこちら側の領土拡張を計るべく「スッタフ」の「フ」の字辺りを、ぐぐぐっと圧す。ついでなので、向こう側の世界の方に、右足で一歩踏み出す。


***


気づけば私は住宅地にいる。正面には、庭がある、駐車場がある、それから特に二階建て一軒家がある。やっぱりな。駐車場と外界との境目にある扉、そのレバーを傾けてみれば、ぎぎぎ、と、降り積もった時間までが軋む。ほんのり得られた隙間から、小生、我が身を押し込んだ。

ざっざと敷石進んだが後、玄関の前に立ったが早いか、人差し指に力を入れて、来客ですよと知らせてみるが、残念、応える声はなし。不審者にならない程度の間とはこんなのか、あるいは、こんなのか、と、もう一度ぴんぽん、を鳴らす。


意外にも道路の方から「なによ、いま来たの」と投げ入れられる、声。びっくりする私と私の体。そちらを振り向くと、えんじ色の袋を持った老婆が、私を見て笑う。

「遅かったじゃない、待ちくたびれたよ」


らっかさんの髪の毛は短くて縮れている。パーマをあてているようにも、癖っ毛のようにも見える。彼女の皮膚の質感が知りたいか、それなら画用紙丸めて丸めて、も一度開いた、それ、それを想像するといい。小さいタニがたくさんできて、向こうは明るくこちらは暗く、デッサンにおあつらえ向きなあの感じ。全体を眺めれば起伏に富んでいる、しかし頂点に向かう過程は思いの外すべらかだ、改めて観察してみれば新しい発見がある。彼女の眼球は都合よく皺に囲まれているため黒目がちで、人形に埋め込まれた丸いぼたんの、ブラックホールのような底のなさを想起させる。


玄関で靴を脱ぎ、右に曲がれば仏壇のある和室に、まっすぐ廊下を進めば台所にたどり着く。台所とその和室をつなぐようにして洋室があり、テレビやらソファやらが備えられている。ソファの正面には、我々を見下ろす、額縁に収まった、スイスかどこかの山麓の風景。一度スタート地点、すなわち玄関に気持ちを戻して、廊下を進まずに左に曲がれば階段に、やや進んでみたところで左手の扉を開けば雪隠に、さらに行ったところで左手の扉を開けば洗面所および浴室に出るシステム。雪隠・浴室の向かい側は壁になっていて、かつてらっかさんの夫の頭を守っていた、数多のシャッポが飾られている。


この家にはカレンダーが多い。台所の入り口、インターフォンの近く、玄関正面鏡の隣、とかく至るところに、大きいの小さいの日めくりの写真つきの、なんらかの形式のカレンダーがある。仏壇の隣にかけられている、大安なり友引なり記されているカレンダーは長月のページ、13日の欄にはwordで言ったら72ポイントくらいの字で「ヘアカット」とある。

「カレーでも一緒に作ろうか、材料ならあるから」

私が仏壇に挨拶するのを見届けて、らっかさんは、言う。

「じゃがいもはこっち」

彼女が出してきたじゃがいもは、芽の存在感すさまじく、芋というよりほとんど鬼。包丁でツノをえぐっていきながら、じゃがいもの皮を剥くのは、デッサンするのに似ている、と私は考える。曲線を、なるべくたくさんの平面に置き換えていくから。いや、たぶん、逆で、デッサンが皮剥きに似ているのだ。

振り向けば、背後の食器棚の上には無数のフィルムケース。500円玉が入っているのが、ケースから発されるずっしりの雰囲気でわかる。

「ああ、それね」同じくツノえぐりを進めるらっかさんは、私の視線に気づいたらしい。

「隣の家の子供が鍵を忘れて閉め出されていたから、うちで待たせてあげていた日があったのよ。そうしたら、その子、『おばあちゃん、これちょうだい』って言うんだよ。図々しいよねえ」


私は、この話を知っている。


一緒に食べるとおいしいねえ。いつもは一人で食べているから、適当なものを買って来ちゃうよ、その方が安いから、とらっかさんは言う。

「一人分のための食材って、ほんとにちょっとでいいてのに、ちょっとで買わせてもらえないよね。ねえ、おばあちゃんは、いつも昼間何をしてるの」

私のスプーンは、普段らっかさんが作るカレーとは違う形に切られた人参をいじっている。

「週に3日は体操。市民会館のところでね、集まって体操するのよ。私の歳でこんなに体が柔らかい人、ほかにいないから、いつも驚かれるよ」

「バスで行くの?」

「自転車だよ」

「おばあちゃん、自転車に乗るの」

「そうだよ、そこらの若者より元気なんだから。私は何年も病院のお世話になってないの。風邪だって引いてない」

「食事がいいのかもね。体操に行かない日は?何してるの?」

「銀行に行くこともあるけど、最近は公園のぶらんこに乗ってる。子どもがいるときは恥ずかしいからね、それくらいは私にだってわかるの。子どものいない時間帯を見計らって行くのよ、あと」と言ってらっかさんは一旦麦茶を飲む。

「あと、一人きりで寂しくてたまらないときは、チラシをちぎって、それに集中するようにしてるのよ。できるだけゆっくり、細く、長くね。そうすれば少しだけ、気が紛れる気がするから」


わかる、と言いかけて私はやめる。


人の気持ちがわかる日は永遠に来ない。私たちに許されるのは、「わかる気がする」と感じることだけだ。


だから私は笑ってみるのだけど、らっかさんには気まずい沈黙に感じられたらしい。

「一緒に作って食べると、おいしいね」

彼女は、今日何度目になるかわからない台詞を再び口にして(スヌーズ機能が付いているのかもしれない)、咀嚼を続ける。「そうだね」と言ったら私にだって沈黙が破れる。どなたでもできる簡単なお仕事です。


「良子はどうなの?仕事忙しいの?」



気づけば私は、自分が住む街の夜の歩道に突っ立っている。元いたところに帰ってきた、私はそう理解している。

名が体を表すのは多くて4割、残り6割が映すのは目標であり理想である。

魔法瓶、永久脱毛、社会主義国、みんなそうであれと願って与えられた名前だ。

理想との気の遠くなるような距離をしっかと見つめるときほど、我々を切なくさせる瞬間はほかにない。詐欺師誠一、かしまし静。彼らの背後には、潰えた夢が影になり横たわっている。

だから、ばばあバーがたとえバーでなくても、それはそんなに大事なことじゃないのだ。大事なのは、あの扉の向こうの世界では彼女が私の名前をちゃんと覚えている、ということ。


***


「こんにちは」向こうから来た年配の女性に声をかけられる。「こんにちは」おばあちゃんは応える。

「あら、お孫さん?」

「ええと、あなた、ジュンコの娘だっけね?」おばあちゃんは質問に答えられない。

「私はコウジの娘だよ、おばあちゃん。いつもお世話になってます」私は途中から女性に向けて話す。

「美人のお孫さんとお出掛けでいいわね、気を付けて行ってきてね」

ご近所さんは親切さからかドライさからか、おばあちゃんのおかしな発言にわずかの疑義さえ示さない。ひらひら手を振り去っていく。

「あの人ね、挨拶はするんだけど、誰だかわからないの」おばあちゃんは小声で、でも今すぐウインクでもしそうにうきうきして、私に告げる。

誰だかわかる人が、彼女には、実際何人いるのだろう。


こうして私たちは蕎麦屋に着く。私が先週電話したことをおばあちゃんは覚えていなくって、だから私が今日来るなんて彼女は1ミリも思っていなくって、当然昼御飯のための買い出しはされていなくって(でも冷蔵庫には何個も何個もヨーグルト、前のがあるのに買い足されていると推察)、一緒に買い物に行ったっていいけれど、もういいか、外食で、そうしようそうしよう、の結果。

「これはなに」

「なめこだよ、おばあちゃん」

「へえ、私、こんなのって初めて」

私がなめこそばを頼むから、おばあちゃんも同じものにした。おばあちゃんは訝しげに、箸でなめこを引っ提げる。初めてだって、ご冗談。深窓の令嬢じゃあるまいし。頭の中で毒づけど、今の彼女には無意味、そしてそれなりに真実。彼女はこれからまた何度も、二回目の初めてを迎えることになるのだろう。


蕎麦がまだ来ないからおばあちゃんは言う。

「いいもの見せてあげようか」

私は知っている、これから登場するブツは、彼女が箪笥から引っ張り出してきたものだと。何が出てくるか、当てて見せようか。

彼女が出してきたものは、刺繍の施された白っぽい布(ビンゴ!)。

さくら。もみじ。つばき。あやめ。5センチかける5センチくらいの大きさのモチーフが、4かける4で16個、きちりと並んで今日も美しい。


「私が女学校に行ってたときね、らっかさんに刺繍をしたんだよ。戦争に使う予定だったらっかさんなの」

私はらっかさんを落下傘に、頭の中で変換する。パラシュートとは、なんだか違うものみたいに響くから、不思議だ。3Dでそれがイメージできない私は、絵本の挿し絵みたいな、平和なイラストを思い浮かべる。

そばが、来た。

「きれいな色の糸だね」

私は布がつゆに浸からないか、気になっている。

「何十年も前の糸なのに、すごいでしょう」

彼女が自慢するポイントも、私は知っている。

だから変えるのだ、私の受け止め方を。新鮮な気持ちで会話をするために。

刺繍と言えば(できるだけ新しいことを思い出そうと私は努める)。

らっかさんの家に初めて行った日、今まで20年以上油絵だと思っていたスイスの山々が、実は刺繍の作品だったのだと私は気づいたのだった。


らっかさんと私は彼女の家に着いて、靴を脱いで、手を洗って、ソファに腰かける。

今日はケーキを持ってきたの。おばあちゃん、この間、誕生日だったでしょう?

おばあちゃんは一瞬ぽかんの顔、そのあと少しだけ眉を下げて、わかるかわからないかくらいの微量の涙を生じる。さっきケーキを冷蔵庫に入れたのは彼女なのだけど、感動が何回も味わえるなら、それはそれでよろしい。


溶けていく蝋燭を見つめながら、お祝いの歌を一人でよろよろと歌いながら、私の心は遠くへ飛んでいく。

諸兄は、一度でも考えたことはありませんか。我々は、天文学的な数のチェックリストで織られている存在であると。タバコを吸うのか、吸わないか。眼鏡をかけるかかけないか。ラジオを聴くか。野球をするか。夜中にぐっすり眠れるか。人混みに紛れるときはいつも、脳裏に浮かぶ、群れが、ほかでもないチェックリストの。まる、ばつ、ばつ、まる。まるまるまるばつ。まるまるばつばつばつまるまるまる。

私とおばあちゃんの表を比べたら、一致するところはほとんどないだろう。でも私たちは、いずれも、一人暮らししかできないくせして寂しさを持て余していて、だからきっと、少しなら共感できるはずだった。


傲慢かもしれなくても、私は彼女に「わかる」と言ってみたい。



今日はバスで帰ろうと思うと言うと、おばあちゃんは手書きの時刻表を確認してくれる。すると、目当てのバスが来るまでにあと10分もない。「急がなくちゃ」おばあちゃんは言う。家を出るや否や、彼女は走り始める。私は、おばあちゃんほどの高齢者が走るところを初めて見るから、バスの時間そっちのけで驚く。


おばあちゃんの頑張りが功を奏して、私たちは予想以上に早くバス停に着く。べンチに腰掛ける。

「ボーナスはもうすぐ入るのかね」

おばあちゃんがふう、と息を吐いたあとで私に尋ねる。

「まだ、時間がかかるんじゃないかな」

仏壇の隣のカレンダーに明朝体で示された「神無月」の字のことを思い出しつつ、私は応える。

「本格的な夏は、これから来るのかね」

私は、いよいよ彼女の世界の歪みが、ごまかしきれないところまで来ていることを悟る。

ねえ、おばあちゃん、あなたが知ってる夏の雲って、もっと、頼もしい厚みで浮かんでいなかった?

「そうだね、きっとどんどん暑くなるね」

歪んでいるものに寄り添いたいなら、自分の身を曲げて、形を合わせたらいい。


私がバスに乗ると、おばあちゃんは心底愛しそうに手を振ってくれる。でも彼女が見つめるのは私じゃない。一人でいない時間だ。彼女は、二人の時間に手を振っている。私は、なるべく目の前の人のためだけに手を振り返そうと、努める。

私のこれまでの来訪は、ばばあバーには数えてもらえていなかった。頻度が高いとは言えなかったからだろうか。だから、私の名前と存在を、彼女は遠くに放り投げてしまったんだろうか。


「すべてかりそめに過ぎない、覚える者も覚えられる者も」(マルクス・マウレリウス・アントニヌス)

でも、じゃあ、覚えられない者は?


***


たぶん、週5ないしは週6のペースで朝の中央線の車内はあんこまみれになり、ヒッピーは躍りだし、インテリは発狂し、さなぎだったアゲハは蝶になり飛んでいくだろう。もしも私が、まんじゅうだったなら。

前後左右、もれなくきっちりと圧迫された結果、私の体内から、形而上学的あんこが毎日噴出する。想像してごらん、一年間に無為に失われるあんこの量。大変な量であることは疑いようもない。何人の恵まれない子供たちの腹を満たせるだろう。その可能性を、この傍若無人な満員電車ときたら、つゆとも考えない。私のあんこは失われ放題である。

こんな横暴が許されるのは政治的背景があるからに違いない。どこかの政党の有力な支持団体が、満員電車が維持されていることで私腹を肥やしているのだ。だから件の政党が、意地でも乗車率を下げまいとしているのだ。サクラの数万人や数十万人、送り込まれていてもおかしくない。私は強大な力の前にひれ伏し、膨れる鞄の群れと沈黙とに囲まれ自由を奪われて、圧迫され続ける運命を甘受するしかないのか?


いや待てよ、ちょっと冷静にお嬢さん、今日は平日で、それはどこまでもたしかで、だからご覧の通りの地獄絵図、鞄から本1冊取り出す権利もスペースもここにはないのだけれども、私はと言えばいつだかの日曜日の代休を取得中、少なくとも今日だけは、束の間の自由の身であるのだった。時間さえ選べば何もこんな殺人的輸送機関に身を委ねる必要もなかったのに、さすがワガハイ、今世紀最大のうっかり者、いやむしろここまでくれば、ほとんどがっかり者と言ってよい。習慣は取り去ったつもりのおせうゆの染みのごとし、さりげない割に頑固なものであるらしい。いつもの時間に目覚め、いつも通りにラジオをつけて音楽やらニュースやらを部屋中に垂れ流していると、いつも7時45分頃に流れてくるCMがいつもの通り7時45分頃耳に入り、至極当然の流れとしていつものように家を出て駅に向かっていたのだった。


そうとわかれば話は早く、英語アナウンスの言うところのネクスト・ステーションに到着、ドアが開くなり人壁かき分け(もちろん、お馴染み「すいません、すいません」の大安売りは忘れない)、深海から帰還したダイバーのごとくぷはっと外界へ顔を出せば、驚くほど清純な空気が私を待っている。


久しぶりに、らっかさんに会うのもいいかもしれない。そして、私の名前を呼ぶ彼女と、ぬるりと垂れていくスライムを眺めるような徹頭徹尾からっぽの時間を過ごすのだ。


各種エネルギーが枯渇したので、もの知る人から地球を見捨てて旅立った、と言われたのならば納得してしまいそうだ。平日の街は、絶妙なさじ加減で通行人を減らす。

私は残された住民たちの普段の食事のことを考えながら歩く。夕食では、どのくらいの大きさのハンバーグを、いくつ食べるのだろう、この女。あるいは、あの男。知人であろうとそうでなかろうと、他人の人生は私の知らない時間ばっかりでできている。

ドラッグストアを過ぎて、洋菓子店が閉まってるのを横目でたしかめて。古着屋はまだ開かない。ラーメン屋には行かない。学習塾。駐車場。定食屋。金券ショップ。

こうして私はいつも、ばばあバーのある通りに出るのだけど。


紙はA4。字は手書き。

「まさか」はすぐさま「やっぱり」になる。見覚えのある筆跡で放り出された、シンプルで真っ直ぐなメッセージ。


ばばあバーは終りました。


そうか、終わったのか。ばばあバーは、終わってしまったのか。

その理由を書くような親切な心、および時間、そして右手(あるいは他の筆記器官)を持ち合わせているのならば、もっと他にすべきことがあるのは明白である。だからこの必要最低限の情報提供は、理にかなっている。


私には親切な心はないが時間と右手ならある。今のところ右足と左足もある。だから、また駅に向かって、つかつかつかと歩いてみることにする。

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