【乾師寿一】7


「美々、仕事終わったらすぐ帰ってくるて。多分あと三十分くらいやないかな。」

 慣れた感じで合鍵を取り出し、『YAGI』と書かれた表札のある部屋に入っていく。ワンルームの部屋は意外にも生活感がなく、敏和の部屋を思い出した。俺が来た時だけ散らかる部屋が、俺の足跡をしっかり残してくれるその部屋が、とても好きだった。

「なんか飲みます?」

 本当によく通っているのだろう。もしかしたらここは松葉の部屋なのではないかと思ってしまうくらい、堂々と部屋を物色している。

「美男美女カップルだね。周りが羨むんじゃない?」

「はは、付き合うとりませんよ、美々とは。恋人とか、なんかそういうのにしたくないんよ。」

 酷いな、とちょっとイラッとしたけれど、直後に「それよりずっと大事で尊い存在だから」と続けられ、なにかがするんと、胸の奥を通って行った。

「だから、就職して色々落ち着いたら、嫁に貰おうと思うてるんです。」

「きゃー、ゴチソウサマです。」

「先輩は?」

 コーヒーミルが、ゴリゴリと音をたてて、独特の匂いで部屋を満たしていく。

「先輩は、これからどうするんです?」

 点けられないテレビ。時計の音が、やけに大きく聞こえる。

 時が、進んでいる。

「俺は、」

「緑!」

 部屋に立ち込めていたものを全て吹き飛ばすように、扉が開く。

 美々だ、と思って振り返ったのに、あまりにも記憶にある姿と違って、誰だ、と思ってしまった。『敏和の面影』と『美しさ』は、言葉は同じだけれど、姿を全く変えて、そこにあった。

「ビビ。」

 思わずそう呼んでしまった。呼んで、俺を見上げた姿が、息を飲むくらい敏和と重なった。けれど、それは、どこかで装っていて、薄い膜のような、水の中のような、息苦しさを感じる。

「寿一、相変わらず、大きいね。」

 美々は笑う。ふわっと外の香りがして、もうすぐ冬が来る、と、この香りは胸を締め付けるから嫌いだ、と思った。敏和を最後に見た、あの中庭も、同じ匂いの、同じ温度の空気が漂っていた。あの空気は中庭の木を枯らして、そして、そこに二度と敏和を呼び戻してはくれなかった。

 どんなに会いたいと思っても、笑い飛ばすように、全てがもうここには無くて、どんどんと遠くへ運ばれて行って。

 止まってしまったようで、本当に止まってくれたらいいのに、時間は確かに進んでいて。

「よしみ、せんぱい。」

 造花を受け取った、あのとき。

「俺ね、」

 八木美々を避けるようになってしまった、あの頃。

「先輩の弟、敏和のこと、好きなんだ。」

 変わらずに、立ち止まって、あの中庭から抜け出せずにいたのは、俺だけだった。

「ごめんなさい。」

 ひとつだけ壊れた、窓の鍵。

 美々も、松葉も、敏和も、そこからちゃんと、出て行った。

 いつも持ち歩いて、ずっと捨てられなかった、枯れることもないピンクの花。

「ごめんなさい。」

 出来るだけ、笑った。

 美々も、八木美々らしく、くしゃくしゃに笑った。

「やだなぁ、謝らないでよ。」

 差し出した、あの日の造花を、美々はひったくるように、俺の手から取った。

「ごめんね、これがアンタを、ずっと苦しめていたんだね。」

 造花の鮮やかさが、美々の手のひらからじんわりと染み込んで、モノクロだった彼女を、以前の明るい色に戻していく。

「ははは、馬鹿だね、寿一。」

 美々は松葉になにやらジェスチャーをする。松葉は首を傾げながらもそのサインを受け取って、どこかへ行く。

 急に手を引かれ、連れ出されたのはベランダ。数十秒ほど遅れてきた松葉が、美々にライターを手渡すと、なにもないコンクリートの床に、造花を置いた。

「私はね、ただ、本当にジンクス通りの意味を込めて、これを渡したんだよ。」

 カチッと、小さな火を灯したライター。

「離れ離れになっても、会えますように、って。」

 寒さに負けてしまいそうな火が、ピンクの造花を、赤く染め上げる。

「叶ったね。」

 俺を見上げて、美々は笑った。

「また、会えたね。」

 焦げ臭い匂い。あぁ、この冬の匂いをかき消してくれる。火が、寒さを忘れさせてくれる。

「叶うまで持っていてくれてありがとう、寿一。」

 目頭が熱い。眉間が痛い。中庭から、美々と松葉に引っ張られて、グランドへ。

 燃え盛る炎の前、敏和の、前。

「敏和に、会いたい。」

 最後の学校祭。最後のジンクス。松葉に別れを告げられ泣いていた敏和。どうしてあの時、鞄で眠っていたピンクの造花を火に投げ入れて、そう言ってあげられなかったのだろう。

「敏和が、好きだ。」

 冬の匂いが香る中庭。表情を崩すことなく、唐突に別れを切り出した敏和。どうして、去り行く背中に、自信を持ってそう言ってあげられなかったのだろう。

「ずっと一緒に居て欲しかった。」

 いつかはわからないけれど、独りでは凍えてしまいそうな冬の日。本当は寂しがり屋で、泣き虫な敏和。どうして、誰にも内緒であの田舎から旅立とうとした敏和を、追い掛けてあげられなかったんだろう。

「今も、ずっと、ずっと。」

 どうして、君がビビだと知っていたって、君に恋をしたんだって、胸を張って言ってあげられなかったのだろう。

「会いたい。」

 どうして。

 こんなにも強い気持ちを、疑っていたのだろう。

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