【乾師寿一】3
ビビの噂は、嫌というくらい耳に入って来た。幸いにも、俺がビビを振った、ということは誰にも知られていないようだった。けれど、いつも中庭で一緒に昼休みを過ごしていたのに、学祭以来ぱったりと会わなくなったから、なにかあった、というのはみんな気付いていただろう。でもその『なにか』は、俺がビビに振られた、というのがほとんどだった。
ビビは怪我をしてバレーを辞めたらしく、大学は実家に戻るというのを、誰かがわざわざ教えてくれた。男遊びをするようになった、とか、見た目が派手になった、とか、聞こえる噂はあまり気持ちいいものではなかった。
いつだったか、放課後、見たことのないイケメンと楽しそうに話しているの見て、あぁそうか、となにかが吹っ切れて、今までは興味がなかった合コンに参加して、あれよあれよと童貞を捨てて、俺も負けじとたくさんの女の子と付き合った。
逃げてしまったけれど、彼女たちよりもビビのほうが絶対に好きだったし大事だった。けれど、ビビとはどうしたって付き合うことが出来なかった。
一年はあっという間に過ぎて、ビビが卒業して、久々に入った中庭には、雪が積もっていた。独りだととても静かで、大木に寄りかかると、そこはまるで洗濯機の横のように感じた。
(俺はビビが好きなのだろうか。)
今更になって、その気持ちについて考えてみた。ビビはもう、この町には戻ってこないのに。遠く離れてしまったのに。
(好きって、なんなんだよ。)
どんな女の子と肌を重ねても、感じるのはドロドロと重たい熱を帯びた欲だけだった。これを好きと呼んでしまうのは、あまりにも汚い気がした。恋心に夢を抱いてるだけかもしれない。けど、認めたくない。
(好きって、)
考えて、考えて、思った。
(俺を好きと思ってくれた、ビビなら、知っているはずだ。)
新しくしたばかりの携帯にはビビの連絡先を入れてなくて、机から前の携帯を取り出し、電話番号を写した。ビビも携帯を新しくして、連絡先が変わっているかもしれない。その時は、それまでだ。諦めよう。じんわりと汗が滲む手で、慎重に番号を押した。
耳に当てると、電話は、繋がって、
『……えっと、もしもし?』
あぁ。俺は、その一言。その声。たった二秒ほどのその時間で、今の今まで抱いていた疑問に、あっさりと答えを見付けた。
(好き、だ。)
俺は、この、携帯の向こう側の、この声の持ち主を、心の底から好きだと、そう思った。
(ビビ、だ。)
その声は、ビビだった。八木美々ではなく、十年間共に過ごした、最愛のビビだ、と感じた。
(生まれ変わったんだ。)
名前だけでは、なかった。やっぱり、ビビはビビだった。
(どうして今まで気付かなかったのだろうか!)
俺は喜びと愛おしさでいっぱいになって、その気持ちの思うがまま、居ても立ってもいられず、次の日学校帰りのその足で、高松宮へ向かう電車に乗った。
ビビの住所は知っていた。実家の雰囲気とかも、聞いていた。だから、時間はかかったけど、『八木家』を見付けることが出来た。もう夜の九時だったから、先に連絡をしておこう、と、家の影に隠れて、電話をかけた。
『もしもし?』
「あ、ビビ、いきなりごめんね、実は、」
会いに来たんだ。
そう言おうとした。けど、言葉が止まった。
人影が、今まさに、八木家の前で立ち止まった人が。
『……どうしたの?』
今、俺が電話しているはずの『ビビ』が、玄関の前で、見知らぬ男と、キスをしているのだ。
(どういうことだ。)
視界がぐるぐるとした。
『ねぇ、大丈夫?』
意味がわからなかった。
(キミは誰だ。)
相変わらず、俺と電話しながら、八木美々は目の前で、見知らぬ男に手を振っている。
「ばいばーい、また明日、大学でね。」
そう言った彼女の声。それは、八木美々で、ビビでは、なかった。
(なんで。)
つまり、俺は、俺が好きだと確信したビビは、八木美々ではなく、八木美々を装った、誰かだった。
八木美々の携帯を持ち、八木美々によく似た声をし、八木美々のことをよく知る、けれど八木美々ではない、まるで架空の存在のような『ビビ』。
何も知らないふりをして、色々探りを入れてみた。その結果わかったのは、俺のことは全く知らないことと、八木美々を装いながら、『ビビ』の本当の性格は、彼女とまるで正反対ということだった。目的はわからない。このことを八木美々本人は恐らく知らない。(知っているのなら、八木美々から俺のことを聞き出すだろうし、『ビビ』は俺が八木美々に会うことをなんとか避けようとしていたから。)
最初は、なんとしてでも正体を突き止めてやろう、という気持ちで電話していた。なにが目的で俺を騙しているのか。そればかりが気になって。
でも、電話の向こうの『ビビ』と話すたび、その正体に近付くたび、八木美々と違う部分を感じるたび、『ビビ』という存在に惹かれていく自分がいた。
優しく静かな笑い声。ちょうどいい温度で、真綿のようにくるんでくれる空気。繋がっているその時間全てを俺に捧げてくれているような、そんな心地よさ。
それはまるで、猫のビビのようだった。
(もしかして、ビビが不思議な魔法で、天国から俺と電話してくれてるのかもしれない。)
そんな、笑っちゃうようなことを、少しだけ本気で考えるくらい、『ビビ』と電話している時間は特別なものへと変わっていった。
(もし、正体に気付いたら、この時間を失ってしまうというのなら。)
いつしか俺は、『ビビ』を八木美々ではなく、『ビビ』という一人の存在と考えて、その正体や目的からは目を背けるようになった。
そして、『ビビ』のことを、声しか知らないその人を、心の底から、好きだと思った。その気持ちを伝えたとき、『ビビ』は確かに、喜んでくれた。
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