【乾師寿一】2



 ビビが居なくなって、胸にぽっかりと穴が開いたまま、高校生活は始まった。

 新入部員獲得に燃える運動部から、数多くの熱烈なスカウトを受けていたけれど、一切興味が湧かず、どうにか逃げれないだろうか、と辺りを見回して。

 四階の窓から、何気なく見下ろした、中庭。

「!」

 立ち入り禁止のはずの中庭に、人影が見えた。

(あそこに入れたら、先輩たちから逃げられるかも。)

 そう思って、一階まで下りて、窓から中庭を見つめた。大きな桜の木が誇らしげに咲いていて、見事だなぁと見上げていると、カツンカツン、とガラスを叩く音が聞こえて。

 とても美人な先輩が、中庭から俺を見て、微笑んでいた。

 先輩は俺を見ながら、少し離れた窓を指した。行ってみると、鍵が壊れていて、そこから中庭へ入れるようだった。先輩を見ると、コクコク頷いたので、誰も見ていないのを確認して、中庭へと足を踏み入れた。

「えっと、お邪魔、します。」

「ねぇ、すっごい背高いね!なんか部活やってるの!?」

 先輩は目を輝かせながら、早速そう聞いてきた。圧倒されながらも首を横に振ると。

「えー!もったいないよ!ねぇ、バレーやろう!楽しいよ!」

 と、どこからか取り出したバレーボールを押し付けてきた。

「私、三年の八木美々!キミは?」

「えっと……乾師、寿一、です。」

「え!としかず?ははは!あたしの弟とおんなじ名前!」

「は、はぁ……。」

 なんだこの人は。

 そう思って、何気なく、先輩の名札を見た。真っ白な名札に書かれた『八木美々』の字を見て、ぼんやりとしていた意識が、一気に覚めた。

「ビビ……!?」

「え?あ、もしかして名前?今ビビって言ったでしょう。美々って書いて、ヨシミって読むんだよ。」

 先輩の言葉など頭に入っていなかった。

(ビビだ!ビビが帰って来たんだ!)

 その名前が、その響きが、恋しくて堪らなかった。彼女の名前はヨシミで、ビビではない。けれど、どんな形でもいい。俺はただ、ビビを求めていた。

「ビビって、呼んでもいい!?」

「えっ、うーん、……あ、バレーの練習に付き合ってくれたらいいよ、トシカズ。」

 笑って、差し出された手。

 ビビもまた、俺に、愛しい存在の名を重ねていたのだ。


 そうして、菊花高校のマドンナと俺は、あっという間に親しくなった。昼休みは中庭でお昼ご飯を食べて、時間ギリギリまでバレーの練習に付き合った。おかげで俺はすっかりバレーが上手くなったけれど、部活に入る気はなかった。

「ビビ、夏休みは、実家に帰るの?」

「帰りませんのですよ、あ、寿一次トス上げて。」

「はいはーい。えー、大好きな弟に会わなくていいの?」

「アターック!」

「させるか!」

「あー、もー、上手くなりやがってー。」

「はっはっはー。で、なんで帰んないの?」

「んー、いいの、私には寿一がいるから。なんちゃって!」

 ほんのり赤く染まった、ビビの笑顔。

 こんなに側に居ながら、俺はビビを、八木美々を、まったく見ていなかった。

 呆れるくらい、自分のことばかり考えていた。不甲斐なさを、残酷さを、気付かされたのは、初めての学校祭だった。


「あのね、寿一に、渡したいものがあるの。」

 学校祭最終日。片づけに追われるなかビビに呼び出された俺は、そう言ってピンクの造花を渡された。

「なにこれ?」

 ジンクスに疎かった俺は、正直ゴミでも渡されたのかと思って、その花の価値を、意味を、まったく理解していなかった。

 ビビはそれ以上何も言わずに、さっさとどこかへ行ってしまって。どうしたらいいのか。とりあえずクラスの女子なら一人くらい欲しい奴がいるだろう、とそれを持ち帰った。

 けれど、クラスメイトは、それを見るや否や一斉に騒ぎだして。

「誰から貰ったの!?」もしくは「誰にあげるの!?」という質問が殺到して、意味がわかっていない俺の様子に気付いた誰かが、

「学祭のとき、好きな人に造花を渡すジンクスがあるの!」

 と言って、そこでやっと、俺は全てに気付いたのだ。

 全てに。皆が騒いでいる理由に。ビビの気持ちに。

 そして俺が、ビビのことを、名前しか見ていなかったことに。

(このままじゃ、だめだ。)

 ビビを傷付けないために。

 俺は、ビビと距離を置くことを、決めた。

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