【八木敏和】16
「美々がヨッシーなら、敏和はトッシーやな。」
「八木のままでいいよ。」
「俺のことも、名前で呼んでエエんよ。緑(ミドリ)って。」
「今、初めて名前知った。」
「ひどー。罰としてトッシー決定やな。」
松葉といるようになったからか。トシカズと出会ってしまったからか。覗くことがうんと少なくなった中庭の桜が、すっかり緑色に染まった頃。
「敏和!」
「だから、八木でいいって……、」
廊下で突然名前を呼ばれて、気付くと目の前にあの巨大な『トシカズ』が立っていた。
「ちょっと話、あるんだけど!」
先輩、というだけでもこの四階では目立つのに、そのひょろ長い高身長が、余計に注目を集める。通り過ぎる人たちが足を止めてこちらを見るから、これ以上目立ってしまう前に、
「僕はないです!」
と精一杯の大声で返して、来た道を走って戻った。追ってくる足音が、トシカズなのか松葉なのかを確認できず、とにかく人のいないほうへと向かって。
いつの間にか、僕の足は、中庭へ。
「……っ、は……。」
酸欠になった頭に、ぐるぐる回る視界が気持ち悪くて、木に凭れかかる。チャイムが聞こえたけど、今からまた四階に戻る気力がなく、そのまま中庭から空を見上げた。
(あぁ、ここは心地がいいな。)
目を閉じる。窓の開く音がして、乱暴な足音が近付いてきたけど、乱れた呼吸を直すのに精一杯で、その人物を確認することも、再び逃げることも、出来なかった。
「なんで、逃げるの。」
耳馴染みのある、声。改めて、僕はこの声が好きだと思った。
「なんで、追ってくるんですか。」
目を閉じたまま、そう返した。
「ちゃんと、話がしたいから。」
隣に人の気配を感じて、ゆっくり目を開ける。すぐ横に、同じように木に凭れたトシカズが、じっと僕を見下ろしている。
「話すことは、ありません。」
「ビ、……お姉さんのことじゃ、なくて。キミのこと、聞きたい。」
「僕のこと?」
トシカズの指が、上を指す。
「いつもあそこから、俺のこと、見ていたでしょう。」
指の先。四階の、自習室前の、窓。
「……先輩のことを見ていたわけじゃありません。自惚れです。」
「そうなの?めっちゃショックー。」
「っていうか、よく見えましたね。」
「見える見える。キミは、前髪が長すぎなんだよ。」
「!」
大きな手が、額に触れる。無理やりに払われた前髪。鮮明になる、視界。
トシカズと、ハッキリ目が、合って。
(すきなんだ。)
あの日の声が、あの言葉が、何故か鮮明に蘇る。この人が、この声が、この口が、僕に、そう言ったのだ。
(ずっとこのじかんがつづいたらいいのに。)
石になったように、目が反らせなかった。
だから。
いつの間にか唇に触れていたトシカズの唇を、拒否することが、出来なかった。
「んっ……、」
やっと整ってきた呼吸が、鼓動が、再び乱れ始める。大きな体と大木に挟まれて、きっとどこの窓からも、僕の姿を確認することは出来ないだろう。
「せん、ぱ、」
チョコレイトのように、唇と舌から伝わる熱で、頭の中が溶けていく。あまく、ゆっくり、どろどろと。
(どうして、僕、こんなこと、)
薄く目を開ける。視界が滲んでいて、よくわからない。指先まで熱を帯びた手をなんとか動かして、ぼやけた視界のなか動くものを、捉える。ふわふわ、やわらかくて、熱い。
「っは……、」
捉えたものが離れて、僕とトシカズを、舌が、銀の糸で繋ぐ。それを見つめて、ようやく、じんわりと状況を理解した。
「なに、して、」
「へへへ。」
高揚した顔で、へにゃ、と微笑む。
「俺、敏和に一目惚れしたみたい。」
トシカズは、そう言って。
僕がなにか返すよりも先に、もう一度キスをした。
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