【八木敏和】13

「び、ビビ……!?」

 いつの間にか、中庭に入ってきて、いつの間にか、柵に躓いて豪快に転んでいたのは、いつも見下ろしていた、あの『優しい巨人』だった。

 そして、その声が、一年前を鮮明に思い出させた。

「っ……、」

 思わず呼びそうになった名前を懸命に飲み込んで、その姿を見つめる。

 無造作、という言葉が似合うボサボサな黒髪。眠そうで、今にも閉じてしまうのではないかというくらい重たい目は、長い前髪にほとんど隠されてしまっている。全体的にぼんやりとしている顔なのに、泣きボクロがやけにその存在を主張していた。

 遠くから見ても感じるほどの高身長は、いざ目の前にすると『高い』や『大きい』ではなく『長い』、更には『ひょろ長い』がぴったりで、例えるならそれは、成長しすぎたモヤシだった。クタクタでシワシワの学ランを、土でもっと汚して、成長しすぎたモヤシは、じっと僕を見下した。

「ビビ、の、」

 あぁ、そうだよ。僕は、貴方をよく知っているよ。よく知っているのに、なにも知らなかった。だから、僕は貴方に会いに、ここに来たんだ。

(トシカズ。)

 声に出さずに、その名を呼んだ。『ビビの弟』が知るはずもない、貴方の名前を。

(僕は、呼べない。)

「教えて欲しいんだけど!」

「!」

 トシカズは、膝をついて勢いよく僕の肩を掴んだ。咄嗟に松葉がその腕を掴んで、僕と離そうとする。でも、トシカズには松葉が見えていないのか、まるで居ないように構わず、言葉を続けた。

「去年の、夏休み!その辺りに、なんかあった!?事故とか、病気とか、そういうの、してない!?」

 がたがたと掴んだ肩を揺すられて、衝撃に負けた手からパンが落ちてしまう。

「先輩、そんなに揺すったら返事したくても出来へん思いますよ!」

 松葉の阻止がようやく届いて、肩は掴まれたままだけれど、動きは治まる。

「ご、めん。」

 乱れた前髪から、さっきよりもハッキリと目が見える。薄く開く瞳は、キラキラと潤んでいる。頬を染めて、だらしなく開いた口元。トシカズの顔から溢れるのは、無理やりに断ち切られた『ビビ』との関係に訪れた突然の光に対しての『喜び』だった。

「ただ、その、なにか、あったんじゃないか、って、」

 隠し切れないその喜びに、胸の奥から、モヤモヤしてトゲトゲした、ドロっと重い感情が湧き上がる。

(お前が好きだって言ったビビは、僕なんだよ。)

 そう吐き捨てたい気持ちを、ぐっと堪えて。

「夏、休み?」

 この、溢れてくるキラキラを、なんとしてでも、止めたくて。

「姉さんなら、大学で出来た彼氏の家にいつも泊まりに行ってたから、なにがあったか、僕にはわかりません。」

 毒を、吐いた。

「元気なのは、間違いないですけどね。」

 トシカズの目を見ることは出来ずに、力の抜けた腕から脱け出して、松葉も置いて、中庭から逃げ出した。

 嘘は吐いていない。

 嘘を吐いて、嘘を吐かなかったことで、僕はトシカズを、何度も傷つけたんだ。

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