【八木敏和】5

 その日から僕は、この携帯の中、彼相手のときだけ『ビビ』になった。いつも側で、眩しいなと思いながらも見つめていたから、姉の癖や特徴なんかは、後輩を騙せるくらいには熟知していた。

 なにひとつ知っていることのない『トシカズ』だったけれど、いつも口を挟む隙なく彼が一方的に喋るだけだったから、とくに困ることもなかった。

『ねぇねぇ、ビビ、聞いて!』

 彼は毎日、決まって二十一時に電話をしてきた。そして、毎回取り留めのない、くだらない話をした。

 たとえば、トイレットペーパーに絵柄がついて落ち着かない、とか、目玉焼きはソース派なのに間違ってケチャップをかけてしまった、とか。

 そんなことを、世紀の大発見みたいに一生懸命に話してくれた。更に、彼の話はいつも横道に反れていくので、

『昨日ゲームやってたらバグってね、バグ、バグ?あれ、バグって居なかったっけ。ほら、あの、しわしわな犬。あれ、でもあれはブルドックか。ブルドックって、誰かに似てるよね。 誰だっけ、近所のおばさんだっけ。(結局隣のクラスの田中くんだった)』

 という感じになって、バッテリーの警告音が聞こえたころにようやく、『あ、そうだ、ゲームがバグッたんだ。』と、話が一周する感じだった。僕はそんな、彼のへたくそな話を聞くのが、いつしか毎日の楽しみになっていた。

『ビビの実家には、野良猫がいっぱいいるんだよね。いいな。今日はどんな猫を見たの?俺ね、黒猫が好きだよ。夜に目だけが光るの、格好良くない?宇宙人みたいなさ。ピカーンって。』

『今日ね、数学の高橋がさ、なんか気持ち悪いネクタイしてたんだよね。毒蛇みたいなやつ。あれ、絶対毒があるよ。体に毒があるってやばくない?なんで生きていられるんだろうね。河豚とかさ。あ、河豚って食べたことある?』

 姉本人からトシカズのことを聞くのは、怖くて出来なかったけれど、トシカズが話す言葉から、なんとなく二人の距離を測っていた。

 全く交流が無いわけではなく、姉もそれなりに自分のことを話していたみたいで、でも、トシカズのこの感じから察するに、当たり障りの無い会話を、頭の隅にも残らないような話を、暇つぶし程度に交わしていた、という感じだろう。 

 それでも、思った。

『あのね、俺、ビビのこと、好きなんだ。』

 知り合ってから一か月が過ぎたころ。照れながら、そんな言葉をくれた。電話の向こうで、はにかみながら、勇気を出して伝える姿が、僕にでも想像できた。本人を知る姉なら、なおさら。

『ビビの声を聞いたら、嫌なことも全部忘れちゃうんだ。ビビが、今、遠くで俺の近くにいるんだって思ったら、なんかこう、ふわふわする。』

 ならば、こんな僕でも、それを嬉しく感じるのなら、姉はどうなのだろう。姉に全部教えたら、姉とトシカズを繋いであげたら、もしかしたら。そんなことを、考えた。

『ずっとこの時間が続いたらいいのに。』

 考えて、考えるくせに、僕は『ビビ』としての時間を、失うことが出来なかった。

 失えなかった。だから神様は、奪いに来たんだ。

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