エピローグ/二
ユキコの悪い罠にはめられた。
悪さとは完璧なまでの巧妙さ。ユキコは完璧にユウリを罠にはめた。悪いことを考えているときのポーズを、今日はユキコは一度たりとも見せなかった。本気だったのだ。ユウリの方にしても視界は麻酔のせいか、薄い霧の中にいるようにぼんやりとしていた。だから見抜けなかった。ユキコの策謀を見抜けなかった。ユウリがヒステリックに叫びパニックになることをユキコは分かっていたんだろう。コナツと仲違いをしたことは「最近こなっちゃん来ないけど、どうしたの?」と以前ユキコが聞いてきたときに、なんとなくそれとなく、伝えていた。だからユキコは直前まで隠していたんだ。
狡い。
本当に狡猾な大人。
クソババア!
殴ってやりたい。
蹴ってやりたい。
右足は折れてしまっているけれど。
骨なんてさらに粉々になってもいいから必殺技でユキコをぶっ殺してやりたいって思った。
それにしてもしかしだ。
コナツは一体何を考えているんだろう。
コナツの気持ちがユウリには分からない。
どうしてユウリに会いに来たのか。
嫌いになったんじゃないの?
頬を強く殴って。
最低だ!
そう、叫んだじゃないか。
それなのにユキコと待ち合わせたりなんかしてユウリに会いに来た。
理解不能意味不明。
コナツの気持ちなんて欠片も分からない。
沈黙が苦しかった。
コナツはベッドの横のパイプ椅子に腰掛けて「久しぶりだね、元気してた? あ、コレ、お饅頭、食べて」と彼女らしくなく元気なく言ってユウリにお饅頭の箱を手渡してそれきり、スマートフォンのゲームを始めて無言を貫いている。
コナツの気持ちがユウリには分からない。
彼女の綺麗な横顔を見ても何も分からない。彼女の喜怒哀楽は冷え切っている。表情の変化は微細。無表情。そんなコナツを見るのは多分、初めて。
本当に何しに来たんだよ。
帰ればいいじゃない。
嫌いなんでしょ?
ユウリのことなんてどうだっていいんでしょ?
どうだっていいんだったら早く帰って。
ちょっと眠りたい気分なんだから。
仲直りしに来たんじゃないのなら早く帰って。
それ以外の用件だったら早く消えて。
時間の無駄よ。
時間の無駄なんだから、でもそれが要件なのなら別に、……ここにいてもいいのだけれど。
ああ、期待しちゃってるな。
やっぱり期待してるんだ。
ユウリはだってまだ。
やっぱりやっぱりまだ。
コナツのことが好き。
大好き。
凄く好き。
傍にいられたら蘇ってしまったの。
真夏、失われて消えてしまったはずの狂おしいほどの恋心が、純真が。
一度死んでしまった金魚が小さな金魚鉢の中で蘇生したかのように奇跡的な復活を遂げたのだ。
これが、これこそが本当の気持ちだって思う。
この恋こそが本物だって思うんだ。
泡沫じゃない。
それは長い時間をかけて育んできたもの。
確かめてきたもの。
それは一度の過ちで綺麗に消えるものではなかったんだ。
残っていたんだ。
カーテンに隠されていただけ。
カーテンの生地は厚く向こう側とこちら側を遮断するものだったけれどそれにきちんとつけられた折り目を便りにそっと押し開けば、それはすぐ近くに、見えていない間でも、すぐそこにあり続けていたんだ。
それに触れて、掬って、精確によく見れば分かる。
これが本物なんだって分かるよ。
あなたが好き。
愛している。
ごめんね。
許して。
どうか許して下さい。
お願いします。
出来ればどうか。
もう一度。
仲良くして欲しい。
あの日よりも前の二人に戻りたい。
恋人同士になんてなれなくていいから。
一緒の未来を過ごしたい。
あなたと一緒に錦景女子高校に行きたいの。
……駄目?
そっか。
それじゃあ諦める。
諦めきれないけれど。
何でもかんでも割り切れるほど心は大人じゃないけれど。
あなたが嫌なら仕方ないですよね?
ごめんね。
本当に酷いことをしたよね。
だって本当に凄く好きだったんだもん。
好きなんだもん。
恋に狂った心のコントロールは難しかったんだ。
その気持ち。
分かって欲しかった。
「ユウリ」
コナツが口を開いたのは本当に唐突だった。
「は、はい」ビクっと小さく震えてコナツを見れば、彼女はその大きな瞳を見開いてユウリの顔をまっすぐに見ている。コナツのスマートフォンは毛布に覆われたユウリのおへその丁度上に置いてあった。
「なんで電話してくれなかったの?」コナツの口調はヒステリックに染まっていた。「ずっと待ってたんだよ、ユウリからの電話、この夏の間ずっと待ってた、電話で謝ってくれるのずっと、待ってたんだよ?」
「え?」ユウリの頭は回っていなかった。いきなりヒステリックに言われて脳ミソはコナツの言葉を処理出来ない「え? え? え? 電話?」
「そうだよ、電話だよ!」コナツは自分のスマートフォンをユウリのおへその上で強く、何度も叩いた。つまりユウリのお腹もコナツにバシバシと激しく叩かれている状態だった。「電話して来てよぉ! 私のこと好きなんでしょ!? 私にキスしたいんでしょ!? だったら電話して謝ってよ! それが普通でしょ!?」
「……え、えっとぉ、」ユウリはコナツの怖い目から目を逸らせなかった。コナツの剣幕に圧倒されて全く脳ミソは回転しないんだ。「わ、私、普通じゃない、からぁ、よく分かんなくって」
「はあ!? よく分からないってどういうことよ!?」
「だ、だって、よく分からないんだもんっ」
「なんで分からないのっ!?」
「ご、ごめん」
「今謝ったって遅いんだよ!」コナツはぐっと顔をユウリに近づけて怒鳴る。「遅過ぎる! 遅過ぎるのぉ!」
「ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい、」ユウリの声に涙声が混じる。視界もなんだか湿り気を帯びてきた。本当にこの場から逃げ出したかった。耳を両手で塞ぎたい気分だった。「謝るから、お願いだから、怒鳴らないでよぉ」
「あのときすぐに電話してくれたら、謝ってくれたら私、ユウリの彼女になってあげてもよかったんだよ! ユウリの彼女になって夏の思い出を作ってもいいなって思ってたんだよ!」
「……えええええええええ!?」
ユウリは吃驚してベッドの上に立ち上がってしまいそうだった。けれど右足は吊られているので一度体は跳ねたが結局すとんと元に戻った。戻ってからユウリはまた叫ぶ。「……えええええええ!?」
「ああ、駄目だよ、ユウリ、骨折れてるんだから暴れちゃあ」
「だって、だって、ええええええ!?」
「もう、ユウリ、うるさいっ、」コナツの顔は仄かに赤らんでいた。「と、とにかく、私、そう思ってたんだからねっ」
「私のこと殴ったのに?」
「そりゃあ、だって、急にキスするんだもん、吃驚しちゃって、っていうか、殴ってないよ、叩いたんだよ、それって大きな違いだよね、ああ、叩いたのは悪かったって思ってるよ、ごめん」
「私のこと、最低って言った」
「だって私、心の準備出来てなかったし、まさかユウリが私のことをそんな風に思っていたなんて知らなかったし、でも、女の子同士でもユウリとだったらいいかなって思ったよ、ユウリ以外に好きだって思える人なんて他にいないし、」コナツの顔はピンク色だった。「と、とにかくね、なんていうか、ちゃんとして欲しかった、ちゃんとロマンチックにして欲しかった、ロマンチックにしてくれたらよかったんだけどな、あんな風に乱暴にされるのは嫌だったんだよ」
そしてコナツは乙女の目をユウリに向けている。
ユウリも乙女の目で見つめ返した。
コナツは首をわずかに傾ける。
彼女のチャーミングさが強調される。
ぎゅって抱き締めたい。
「あ、あの」
ユウリは一つ、咳払い。
そして出来る限り背筋をピンと伸ばして姿勢を正した。
「もう遅いかもしれないけどでも、まだ気持ちが変わってないんだったら、」ユウリは自分の前髪を整えて歯切れよく発声した。顔が熱い。多分、ユウリの顔もピンク色だ。「私と付き合ってくれませんか?」
コナツは満点の笑顔を見せた。
嬉しそうだった。
だから。
ユウリはすぐに幸せになれるって思ったんだ。
返事を待たずに嬉しくなった。
でもコナツは笑顔で答えた。
「ごめんね」
何も感じなかった。
なんて嘘。
虚勢なんて張れなくって。
頬の筋肉はぴくぴくと震えた。
悲しかった。
目元が熱い。
熱過ぎる。
涙がこぼれそう。
「……そっか、」ユウリは声を押し殺して下を向く。泣き顔は見られたくなかった。「そっか、駄目なんだね」
「今は駄目」
「え? 今?」ユウリは泣き顔を上げて、涙に滲んで煌めくコナツの笑顔を見る。
「未来は分からないってことだよ、つまりユウリ次第ってこと、私をどれだけロマンチックにさせてくれるのかで未来は変わるってこと、私楽しみにしてるから、ユウリに期待してるんだよ、どれだけ私に素敵を見せてくれるかって期待してるんだからね、」コナツは恥ずかしそうに言ってから右手をユウリに差し出した。「まあ、とりあえず、仲直りしよっか」
「うん、」ユウリはコナツの右手を握り締めた。「ありがとう、コナツ、私絶対、期待に答えて見せるから」
心の幸せの濃度は濃くなってユウリは素直にありがとうって言うことが出来た。
でも。
でもね。
本当は手だけじゃなくって、今すぐにでもコナツにキスして体を抱き締めて彼女の色んな部分を触って舐めたかったんだ。でも右足が固定されて不自由だし、逃げ場もないし、また怒らせたら今度こそ終わりだって思うと下手なことは出来ないから右手だけでユウリは我慢した。
我慢したんだ。
だから。
ちょっと不幸って思った。
不幸かも。
コナツのことは好き。
大好き。
でもちょっと面倒臭いって思った。
つべこべ言わずにさっさとエッチさせろって思った。
ロマンチックは好きだけど。
回り道は嫌いなの。
そう思うユウリが、本当のユウリ。
コナツに向かって優しく微笑んでいるユウリは偽物。
本物のユウリを受け止めてくれるコナツはいつ現れるのだろう?
それまで我慢なの?
どれだけあなたをロマンチック・モードにさせればいいの?
面倒臭いな。
じれったいな。
じれったい恋。
まあ、しかし、コナツに関してはゆっくりやろう。
ゆっくりやらなくっちゃ、急いでは駄目みたい。
急いで失敗したんだから反省しなくっちゃいけない。
それはきっとストレスになるでしょうけれど。
今のところ時間制限はないようだ。
ゆっくりしましょう。
とりあえず、そういうことで。
そして。
右手にコナツの体温を感じながらユウリは考えてしまっていたのです。
この夏、ユウリの周りに現れた魅力的な女たちのことを。
水戸レイカ、伊達リサコ、小泉チイ、そして森村ハルカ。
彼女たちと、どうにかして凄く、仲良くなれないかな。
まあ、最悪。
気が紛れるのだったらユキコでもいい。
誰でもいい。
最低だって自覚はあるよ。
でも体の疼き、業火紅蓮の火種は消える素振りを見せず燃え続けているから、自分じゃそれをどうにも出来ないから、誰かになんとかしてもらわなくっちゃしょうがない。
最低ですか?
ですが、まあ。
自覚がない最低よりはまだマシですよね?
「ユウリ、夏の終わりの華火は一緒に見に行けるよね」
夏休みの終わり、八月三十一日には、利根川の河川敷で盛大な華火大会が開かれる。
「うん、行けると思う、車椅子になるかもしれないけど」
「塾で知り合った子も誘っていいかな?」
「塾なんて行ってたの?」
「うん、ママが夏期講習くらいは受けなさいって、あんまり役に立ってる気はしないんだけどね、あ、ユウリも足治ったら来ない?」
「うん、考えとくね」
「それで誘ってもいい?」
「うん、それでどんな子なの?」
「アオちゃんって言って、五中の、ちょっと変わった子なんだけど、きっとユウリと気が合うと思うんだよね」
「それってどういう意味?」
ユウリはむっとした顔を作りながら見ず知らずのアオという子に嫉妬していた。彼女はユウリが知らないコナツとの時間を過ごしているのだ。それは十分嫉妬の理由になり得る。それに華火に誘うってことはそれくらい仲がいいってことだ。二人きりの華火を邪魔されるのも気に食わない。
しかしそう強く思う一方でユウリは別の気持ちを抱いている。
アオがコナツみたいに面倒臭くない女の子だったらいいと思った。簡単にキスしてくれる女の子だったらいいと思った。レズビアンに抵抗がない女の子だったらいいと思った。何よりユウリ好みの可愛い少女だったらいいなと思って、口が滑った。「……アオちゃんって可愛いの?」
「可愛いけど、」途端にコナツの目の色が変わった。しまったと思っても、遅い。さっそくミスってしまった。「アオちゃん、可愛いけど、それを私に聞くなんて、それってちょっとどういうつもりなの?」
「別に」
ユウリはコナツから視線を逸らして言葉を濁す。
コナツって恋人にしたら面倒臭いタイプの女の子かもしれないな。
未来に幾ばくかの不安を感じてしまったユウリは。
煙草が吸いたくなった。
アルコールに酔いたくなった。
ブリッジン・フォ・ニュウが聞きたくなった。
それから。
新しい風を感じたいの。
業火紅蓮少女ブラフ。
業火紅蓮少女ブラフ/Breezing For New 枕木悠 @youmakuragi
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