エピローグ
エピローグ/一
錦景市は八月二十三日の午後三時の手前。
「だから何度も言わせないでよ、ただジャンプして転んだだけなんだから」
國丸ユウリは虚勢を張った。
それが意味も価値もなく、素直じゃなくて可愛くない、ということは莫迦じゃないから分かるんだけど、ユウリはここにおいても、病院のベッドの上でも虚勢を張った。右足の、膝から下をギブスでガチガチに固められていても虚勢張らずにはいられなかったんだ。
スクリュウのブロンズ製のマケットに上段回し蹴りをしたと本当のことを言えば、その理由ももちろん國丸ユキコは聞いてくるだろう。そしてことの詳細を話せば、ユキコはたかが失恋でなんて莫迦なことをしたんだって思うだろう。笑うだろう。批判するだろう。
ユウリはユキコに、たかが失恋で、と批判されたくなかった。上段回し蹴りを放った理由は厳密に言えば、失恋だけではないのだから。水戸レイカの気持ちを思っての怒りもそこに含まれる。失恋よりも、莫迦男を必殺技で成敗してやる、という気持ちの方が最終的にはユウリの心の中で膨らんで大きかったんだ。だからたかが失恋で、なんて思ってもらいたくなかったんだ。それは完全な間違い、誤謬なんだから。
幸いにもスクリュウのブロンズ製のマケットは無傷。ユウリが口を割らなければ誰もきっと真相は分からないはずだ。
「ジャンプして転んで、ただそれだけで、」ベッドの脇のパイプ椅子に足を組み前傾で腰掛けているユキコはユウリの右足をプロテクトしているギブスをさすって薄ら笑いを浮かべている。「果たしてこんな風になるのだろうか? っていうか、どうしてジャンプなんてしたのよ?」
「だから何度も言わせないでって、」ユウリが考えついた言い訳は一つだけだった。「コレクチブ・ロウテイションのロックンロールが響いていたからジャンプせずにはいられなかったの、私の気持ち、分かるよね?」
言ってユウリは目をぎゅっと瞑った。
もう何も言わない、というサイン。
これ以上何か言ったらヒステリックになるぞ、というサインを送ったんだ。
「はぁ、」ユウリの口を割らせよう、という気が早々になくなったようでユキコは溜息を吐き、そしてどこかセンチメンタルという風に独り言を漏らした。「でもまさかねぇ、森村とまた会えるなんて思ってもみなかったなぁ」
森村ハルカがチョコレート菓子を携えてユウリのお見舞いにやってきたのは午前中のことだった。G大の武村研究室に所属する大学院生のハルカとユキコは面識があったようで、二人は再会に驚き合っていた。ともに錦景女子高校出身で、歳も一つしか変わらない。同じ校舎に通っていたのだから面識があっても不思議じゃない。ユキコはなんだか若返って女子高生に戻ったみたいに無邪気に笑っていた。ノスタルジックな二人の会話から想像するに、ハルカとユキコの人間関係って知り合い以上友達未満。どこかぎこちなくって余所余所しかった。でも話したいことは沢山ある。二人は連絡先の交換をしていた。そしてなんとなくの流れで、ユウリもハルカの連絡先を手に入れた。別に彼女の連絡先がスマートフォンに登録されていたってしょうがないんだけれど、おそらく彼女に連絡することなんてないでしょう、でもハルカは綺麗な女だし、何よりもちょっとした命の恩人だから彼女の番号は消さないつもり。
特別展覧室で意識を失ったユウリに気付き、救急車を呼んでくれたのはハルカだった。第一発見者は黒猫のスコール。スコールがハルカの抱っこを嫌がって跳び出して、再び特別展覧室に鈴を鳴らしながらやってきてくれなかったらユウリは見つかっていなかったのだ。ユウリは一応、ハルカに「ありがとうございました」とお礼を言った。素直に言えたのは、もうコウヘイのことなんてどうでもよくなっていたからだ。忙しくてお見舞いに行けないからとハルカに持たせた天体史研究の最新の概説書は有り難くもらうことにしたけれど、彼に天体史の先生、という以上の感情はユウリの心から綺麗に消えてしまっていた。ハルカの圧倒的な美貌に、もちろんそれ以外の素敵な部分にも、彼は完全に惚れてしまっていて、もうどうしようもないくらい骨抜きにされてしまっている。それを目の当たりにして、冷めない少女はいないだろう。ハルカと一緒のときのコウヘイの表情ったら、あり得ない!
莫迦な男。
莫迦な男を好きになってしまった少女も莫迦。
病室で目を覚ました時にはすっかり、そういう気持ちになっていた。
所詮その程度の恋だったのだ。
その程度の恋を引きずって悩んでいるなんて莫迦莫迦しいって思った。
もうお終い。
病室のベッドの上の今が、終章。
カーテンコール。
一端の幕引き。
右足はまだ引きずる必要があるみたいなんだけど。
自由に動けなくって、つまり不自由。
しかしそれが不思議とユウリに冷静になる時間をくれた。
なぜかとても安らいでいるんだ。
徹底的に打ちのめされたからでしょうか?
意図せずして、ショック療法の後なの?
右足に響いた痛みって全てを支配した。
ユウリの全てをゼロにリセットするほどの一撃だったんだ。
強力な一撃は確かな傷を少女の右足に残した。
今はギブスの硬い白に包まれて見えないけれど、それが解かれて確かめるとき、どんな傷になっているのだろうか?
どんな歪なものになっているだろうか?
触ったときに凸凹になっているのだろうか?
ユキコはたまに自分のリストカットの傷跡を、愛おしそうに撫でている。
それと同じになるかもしれないな、とユウリは思った。未来にユウリは、自分の右足を愛おしく撫でているだろうか?
普通の少女のように、傷が嫌だとは思わない。
それは危険な少女の証かしら?
しかし自分の傷を見て安らぐのは事実。
弱い自分を確かめて可憐と思うのも事実。
傷は冷静に微笑ませる。
骨折は結構複雑で、チタン製のボルトで固定しているんだって。
傷付けられて生まれたままの純真さを失って異物を捻じ込まれて、しかしそれらの不純さが経験で。
強くなれるのかな?
ユウリはまたヒステリックになって自分を見失うでしょう。
それは自分でも一生捨てられないって分かるキャラクタ。
しかしヒステリックになって業火に燃えても、右足のボルトだけは燃えない。
燃えない銀色。
それは業火紅蓮少女の唯一の理性かもしれない。
銀色の冷たさは冷静な時間を作る。
とても不自由だ、この世は柵ばかりだ、と強く感じさせる瞬間を生む。
そのボルトによってユウリは現世に繋ぎ止められているかもしれない。
ボルトの冷たさ。
異物を捻じ込まれ全てを燃やせない不完全なものになった。
完全に燃えられない。
不完全燃焼。
死ねない。
でも燃えるから。
燃えてしまうから。
虚勢を張るの。
麻酔が切れたってナースコールは押さないつもり。
「あ、そろそろ時間ね」ユキコは突然言った。
「え?」ユウリは目を開ける。「なんの時間?」
ユキコはパイプ椅子から立ち上がり、ニタリと笑ってさらりと言った。「コナツちゃんがお見舞いに来る時間」
「え!?」ユウリは吃驚して盛大に声を張り上げてしまった。病室が個室でよかった。「何それ、そんなの私、聞いてないっ!」
「三時にロビィで待ち合わせてるの、迎えに行ってくるわね」
「あ、ちょっと待って、ユキコぉ!」
制止を聞かずユキコは颯爽と病室から出て行ってしまった。
それを見送ってからの心臓の高鳴りはヤバ過ぎて。
色々考え過ぎて。
何も考えられなかった。
どういうつもり?
どうしてお見舞いなんて来るの?
来る気になったの?
あんな酷いことをしたのにどうしてユキコと待ち合わせなんてしてんの!?
心臓も脳ミソも瞬間的に破裂寸前。
そしてそれは、病室の扉が強く叩かれたことによって、間違いなく破裂した。
彼女らしい強いノックだった。
こちらの返事も待たずに扉は横に素早くスライドされる。
新島コナツが複雑な表情をしてそこに立っている。
「……入ってもいいですか?」
声音には熟成されて発酵したような粘り気のあるヒステリックが混ざっていた。それがコナツらしくなくてまだ、あのときの怒りはまだ続いているんだな、と思ってユウリは窓の向こうに逃げたくなった。でもこの病室は四階。窓の向こうは空。それに逃げようたって右足は固定されたままだ。動けない。笑うしかない。
「……え、ええ、どうぞ」
ユウリはぎこちなく笑ってコナツを迎い入れるしかないようだ。
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