ロスト、スカーレト・ブルーム・オーバ・シー/十三
この部屋にはコレクチブ・ロウテイションのあの娘は発電機がBGMとして流れていた。
その歌はなぜかとてもスクリュウにぴったりだと思えた。この空間に相応しいと思えた。なぜかそのメロディが。
「スクリュウのマケットだよ、この特別展覧会のためにマリエさんから買ったんだよ、どぉ、凄いでしょ?」
コウヘイは部屋の真ん中に立つスクリュウのマケットを見ながら得意げに言った。コウヘイの瞳は爛々と輝いている。
確かに凄い。
大きさはユウリの身長くらいで小さいのに、圧倒的な存在感がある。
とても精巧に出来ていて、プロペラを天頂に備えた独特なフォルムは錦景山に立つ七十メートルのそれだった。
「はい、凄いです」
特別展覧会のテーマがスクリュウだということをユウリは知っていた。特別展覧会のポスタは大学構内の至る所に張られていたし、レイカからもその仔細を聞いていたからだ。
パイザ・インダストリィが錦景山に建設した次世代エネルギア発電施設、通称スクリュウ。そのプロジェクトの思想理念、建設過程、そしてプロジェクト凍結の引き金となった爆発事故が、天体史として体系化されここに展示されていた。この特別展覧会を企画したのはコウヘイだ。コウヘイは現代史家としてスクリュウをテーマの一つにしている。
コウヘイはユウリにスクリュウに関する展示物について解説してくれた。そのほとんどがマリエの骨董屋から仕入れたものだと教えてくれた。コウヘイが私費公費を投じて集めたものがここには揃っているんだ。
つまりここはコウヘイのコレクション・ルーム。
スクリュウ趣味の極致がここなのだ。
彼にとっての最高のエンタテインメント。
ユウリにとっても確かに、ミュージアムの中でここが一番面白い。あの場所が、塔の遊園で繰り広げられていた過去が、こんな風に掬い揚げられ天体史として再構成され提示されている。スクリュウのマケットが立っていなくても十分に価値があるということはユウリには分かった。
とても綺麗に整然に。
悲劇も喜劇も公平に。
スクリュウのありのままを露出させ。
過去から未来を貫く望遠を鮮烈に見せている。
この空間はコウヘイが描く物語。
その物語はここに届き。
その物語が主張するものに震えた。
ユウリの心の琴線はそれに弾かれて響いた。
感動して涙が溢れ出る。
涙が溢れて止まらない。
奇跡に思えた。
想いを分かり合えた。
隣に、傍に立っている人が物語の語り部。
今の気持ちを正直に伝えなくてはいけないと思う。
物語をあなたと。
語り合っていたいの。
私と歩く未来も悪くないでしょ?
「先生、好きです」
想いを音に変換した瞬間。
華が咲いたような気がした。
すべてが薔薇色に。
体中に紅が走って熱くなった。
それは髪の毛に、毛先にも伝導して。
もしかして今の私の髪の毛は。
金色を透過して、紅色に咲き、煌めいているのかもしれません。
「え?」スクリュウのマケットをまだ観察し足りないという風に見ていたコウヘイの無邪気に輝く眼は、ユウリに向けられた。
「好きです、先生」
コウヘイとスクリュウの間に立ち、ユウリはコウヘイの視線を独占した。一度音になれば、音は続いてく。躊躇いは消えてもうない。コレクチブ・ロウテイションのロックンロールが聞こえているからさらにブレーキなんて掛けられない。「好きなんです、私、先生のことが好き、大好きなの」
「え、冗談でしょ?」
コウヘイは明らかに戸惑っていた。ユウリの気持ちなんて全く知らなかった、という顔をする。そんな顔は悔しいけれど、当然だと思う。十五歳の少女の恋心なんて、二十七歳の綺麗な男は考えないだろう。
だけど言葉にしたんだから。
言葉にしたんだ。
少しは考えられるようになったでしょ?
私の気持ち。
私の恋心。
私の願い。
私の未来。
私の十五歳の夏。
少し考えて。
少し考えた?
あなたの傍に私がいる理由。
それは!
リンっ。
唐突に響いたベルの音。
自動ドアが開いている。
そちらに目をやっても誰もいない。
しかしベルの音は響き続けている。
「きゃ!」足下に気配を感じて見れば、そこには黒猫のスコールがいた。「スコール!?」
「スコール、待ちなさい!」
スコールに続いて女性が姿を見せた。彼女はユウリとコウヘイの周りを逃げているスコールを捕まえて抱き抱えてわざと怖い顔を作って言う。「こらっ、勝手に入っちゃ駄目っしょ、全く君はわんぱくなんだから」
「何してんの、ハルちゃん、」コウヘイは聞いたことがない、フランクな口調で彼女に言う。「ミュージアムの中にスコールを入れちゃ駄目だって」
「分かってるわよ、でもスコールが勝手に入っちゃったんだよ」
「その鈴、どうしたの?」
「買ってきたの、」彼女は素敵なスマイルを見せて言う。「やっぱりこの金色のベルがないとスコールじゃないっていうか、いや別にこの子のことを前に私が飼っていたスコールの幻影を見ているわけではないわけではなくって、そうじゃないんだがね」
「どっちなの?」
「いや、本当は私はセンチメンタリズムの渦の中にいて、」彼女はスコールをぎゅっと抱き締める。「同一視していることは否めない、あの子の代わりは他にいないって思ってた、でもこの子が私の目の前に現れた、スコールの生まれ変わりかしら、なんて思っちゃうのは仕方がないことですよね?」
「別に僕は、黒猫をなんて呼ぼうがどうだっていいけれど、君が名前を付けてそれを皆が呼んでいる、だからその黒猫はスコール以外の何ものでもないんじゃないの?」
「あ、もしかしてこの娘が噂のユウリちゃん?」
ユウリはじっと彼女の大きな瞳に見つめられて身動きが取れなくなった。
見つめ返すのが精一杯で声を出すことも出来なかった。
彼女の登場に吃驚していたからだ。
まさか彼女がこのタイミングで現れるなんて思わなかった。
この人が、森村ハルカ。
コウヘイが想いを寄せる人。
二十七歳、コウヘイと同い年の大学院生。出身は錦景市だが西の大学を出て、西の方で就職してこの春まで働いていた。けれど天体史の研究者になる夢を諦めきれずG大の大学院に入学してコウヘイの研究室に所属した女。
ハルカの存在はレイカから聞かされていて知っていた。
とっても綺麗な人よ、と聞かされていたから彼女の美貌は知っていたんだけれど。
それはちょっと規格外だった。
私の方が絶対に可愛いし、綺麗。
実物を見て、ユウリの中にあったその強気は一瞬にして焼失。
世界にこの人よりも、黒髪のショートヘアが似合う人はいないんじゃないかって思えた。
コウヘイが心酔してしまうのも頷ける。
ユウリだってその美貌に心酔してしまいそうなんだから。
「あら?」ハルカは首を横に傾けて言う。「人見知りさんなのかな?」
「えっと、その」言葉が出なかった。
「いいよ、緊張しているんだね、」ハルカはユウリの頭を優しく撫でた。「いい色ね」
「あ、ありがとうございます、これ、スプレで染めてて、洗えば落ちるやつで」ユウリは無性に恥ずかしくなっていた。どうして自分は彼女に金髪のことを解説しているんだろうって思った。
「違うよ、私が言っているのは、あなたの紅、本当の色」
「え?」
紅?
本当の色?
なんのこと?
「ハルちゃん、」コウヘイはハルカの前に進み出て言った。「まだ感想を聞いてないんだけど」
「感想?」ハルカはとぼける顔を見せる。
「この展示の感想だよ、BGMもハルちゃんに言われたようにしたし」
「まあ、そうね、」ハルカは首をぐるりと回してフロアをゆっくりと見回して言う。「こういう見せ方もアリ、なんじゃない? ロマンチストなコウヘイ君らしくっていいんじゃないの?」
「そう」
コウヘイは小さく頷いただけだったけれど控えめに、凄く感情的に喜んでいることが分かった。
そして。
コウヘイはユウリの存在など忘れてしまったかのようにハルカと話しながら、この部屋から出て行ってしまった。
ユウリの告白なんてなかったことにするようにコウヘイは行ってしまった。
ユウリはまだ返事を聞いてない。
返事をしていないのに逃げたんだ!
彼は逃亡者。
追うべきだ。
返事を聞いていないんだから追いかけて聞き出すべきだ。
でもユウリの足は動かなかった。
適いっこない。
あの人には。
答えは明白だ。
ユウリは勝負に負けたんだ。
一つの恋が失われて。
心がその事実を理解していくに従って。
悲しくてしょうがなくなって涙が溢れ出る。
学術的興奮が少し前に流した涙とは違う管の栓が開いて瞬間的に溢れた。
止められない。
空っぽになるまでそれは止まる気配がない。
また裏切れたって思う。
この夏を返せって思う。
別にコウヘイは何も悪くないってことは分かってるんだけど、その気持ちは強く膨らんで怒りに変化する。
いつか同じような気持ちを抱いたような気がした。
ああ、そうだ。
コナツに拒絶されたときと同じ気持ちになっている。
なんて短絡的なんだと自分のことを思う。
まるで成長してないじゃないか。
何も変わっていないじゃないかって思う。
何かが変わったって思っていたのに、なんて莫迦な勘違い。
錯誤。
間違っていたんだ。
私は間違っていた。
私の全ては間違い。
私の夏は間違っていた。
あそこで電車に飛び込んで私は死ねばよかったんだ。
死ねなかったことが間違いだったんだ。
コウヘイが私の手を強く引っ張ったから、私は過ちの夏を生きてしまった。
コウヘイだ。
全てはコウヘイのせいだ。
コウヘイがいなければ間違えなかったのかもしれない。
許せない。
許せない男だ。殺してやりたい。どうやって殺すのがいいか、早くて精確に済むか、ちょっと考えた。
銃を輸入するのもいいけれど研いだばかりの包丁でぐさりと刺してやりたいと思った。
ケラケラって笑いながら私は、包丁をあなたの体の中でかき回してぐちゃぐちゃにするの。
そしてあなたはそのときに初めてきっと、やっと真剣に私のことを見て。
私に恋をして。
私を殺すか、殺さないか悩むのね。
研いだばかりの包丁だけが、私に新しい未来を見せてくれるような気がした。
そしてふと。
レイカのことを考えた。
コウヘイに想いを寄せる、レイカのことを考えたんだ。
彼女は健気だ。
コウヘイとの恋が適わないことを知って。
知っているのに。
彼女は自分の体を売ってお金を貯めて彼の望みを叶えたんだ。
ユウリの財布から金を盗んだのもそれが理由なんだ。
ユウリはスクリュウのマケットをまっすぐに見つめた。
スクリュウのマケットは、レイカが体を売らなければここに立っていないんだ。
コウヘイはその事実を知らない。
レイカの恋心を知らない。
何も知らないんだ。
それは罪だと思う。
罪でなかったらなんだと言うのだろう!?
レイカは莫迦な女だ。
それ以上にコウヘイは、莫迦な男だ。屑だ。悪だ。
こんなもののためにレイカは知らなくていい世界を体験してしまった。味合う必要のない気持ちを舐めた。
全てはコウヘイのコレクション・ルームの完成度のために。
コウヘイがハルカから誉められるために。
それだけのもののためにレイカの気持ちは。
そして私の気持ちは。
どうなるの!?
悔しくて。
許せなくて。
ここには私以外に誰もいないから。
孤独だから。
ユウリは声をあげて泣く。
そして溢れる破壊の衝動は必然的に眼前にそびえるスクリュウのマケットに向いた。
壊してやろう。
壊さなくっちゃいけない。
これが諸悪の根源。
平和を乱す元凶。
アマキが早朝、華の公園で見せてくれた上段回し蹴りのイメージを脳ミソで再生する。
ユウリはスクリュウを見据えて間合いを取り、構えた。
相手は動かない。
簡単だ。
スカートが少し引っかかるのが気になるけれど。
覚悟しろ。
綺麗に壊してやる。
コウヘイにはもう、未練なんてない。
綺麗さっぱり、これでお終い。
お終いなんだ!
ユウリは右足を跳ね上げ。
回転した。
スカートが暴れた。
右足はしなり思い描く軌道でスクリュウの天辺を捉えた。
黒いミリタリィブーツに包まれたユウリの右足はスクリュウの天辺を叩く。
瞬間。
ユウリの右足の甲に痛みが走った。
激痛に崩れるように倒れ込む。
痛い。
どうして?
黒いミリタリィブーツは頑丈なのに。
見ればブーツの甲をプロテクトしている素材が割れ変形していた。
スクリュウは、と下から見上げれば傷一つなく何事もなかったかのようにそびえ立っている。
「なんで壊れてないの!」
ユウリの口からは金切り声が出た。「どうしてよ! どうして!? どうして必殺技で壊れないのよ!」
理由はすぐに分かった。スクリュウのマケットの案内ボードがちょうどユウリの視線の先に見えた。隅にブロンズ製と記載されていた。ユウリはプラモデルのようなものだと思っていたけれどまるで違っていたんだ。銅だったのだ。硬いんだ。こんなに硬くっちゃどうしようもないじゃないか。壊せないじゃないか。
「なんでブロンズ製なの!?」ユウリは倒れ込んだままヒステリックに叫ぶ。「信じられない! 卑怯だわ!」
そしてユウリは徐々に強くなる痛みに涙を流した。
今までで知らない痛み。
足の骨が折れてしまったんだろうな、と思った。
どの場所かは精確には分からない。
とにかく右足の全部に痛みが広がっていて動かせない。
少しでも動かしてしまったらさらに強い痛みがくる。
それが怖くて動けない。
痛みは時間が経てば経つほど強くなる。
脂汗が額に滲み出て来た。
誰かに助けてもらう気はなかったんだけど。
虚勢を張っていたかったんだけど。
でも限界。
痛過ぎて死にそうだった。
「誰か助けて!」ユウリは叫んだ。「助けてよ!」
ユウリは叫び続けた。
虚勢なんて張っている場合じゃなくなった。
恥じらいを捨てて、助けを呼び続けたんだ。
しかしこの部屋がミュージアムの別棟にあるためか、誰もここに来る気配はなかった。
「お願い、誰か来てよ、お願いだから」
客が後から来たじゃないか。
その人たちはこの特別展示を見ないわけ!?
信じられない!
本当に!
惨めで!
どうして私が!
……ああ。
こんなところで私は、何をしてるんだろう?
激痛に意識が薄らいでいく。
このまま死ぬのだと思った。
誰にも見られず孤独に。
絶望に心を染められて。
惨めに死んでいくのだろう。
咲いた華は枯れて落ちた。
短い命。
命は失われる瞬間を目指していて最後に輝いて散る線香華火というのは間違いだ。
命って。
咲いては枯れる、喩えとは、華。
最後の一瞬は誰も知らない孤独。
そして悲劇なんだとユウリは知った。
あの娘は発電機を聞きながら意識が消える。
それから遠くに。
優しく響くベルの音を聞きながら……。
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