ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー/十二
世界望遠機関ミュージアム、というのが、コウヘイがユウリを誘ったミュージアムの正式名称だった。世界望遠機関というのは国際平和くらいの意味だ、とコウヘイはユウリに教えてくれた。「第二次大戦終結後、連合国は新しい体制に移行する際に名称の変更を検討していたんだが、その中の一つに世界望遠機関、というものがあって、オーガニゼッション・ワールド・テレスコープ、OWT、このミュージアムはその名称を提出した天体史家の思想を理念に、国際平和に関する記憶を収集しているわけなんだ」
ミュージアムはG大の東門を出て駐車場を北に抜けた先、住宅地の中にあって二階建ての横に広い白塗りの建物だった。正面玄関はガラスの自動ドア。その前に一匹の黒猫が丸まっていた。ユウリとコウヘイが傍に近付くと、気配に気付き片眼を開けた。かなりの美形。毛並みもいい。
「可愛い」ユウリは黒猫の前でしゃがみ手を伸ばした。
その手は黒猫の猫パンチに弾かれた。
ユウリはむっとなる。
黒猫はそして、逃げるように垣根の中に消えて行った。
「あ、行っちゃった」
「黒猫のスコールだよ」
「スコール?」
「スコールって名前なの、野良猫だけど」
「野良猫なのに名前があるんですか?」
「ずっとこの辺にいるんだ、皆が彼の存在を知っているから名前が必要になったんだ」
コウヘイはそう言いながらミュージアムの自動ドアを潜った。入って正面に受付があったがそこには誰もいなかった。右手の方にはホテルのロビィのようにソファとテーブルが並んだスペースがあり、そこにも誰もいない。高い天井。頭上には黄金色のシャンデリア。ロビィの奥には印象派を思わせる巨大な風景画。その脇に通路があり、それは奥まで伸びている。一階のフロアは音楽もなく、しんと静まり返っていた。二人の足音だけが高く響いている。
「こっち」コウヘイは受付の左横の階段を登る。ユウリもコウヘイに続き階段を登った。
二階の踊り場に出ると、映画館のシアターの入り口を思わせる分厚い扉が片方解放されていた。中に入ると薄暗い空間が広がっていた。ミュージアム、という雰囲気。仕切がなく天井も高いのでフロアは広々と感じられた。
白蓮の白く甘い匂いがした。
「こんにちは、先生」受付の中に一人の女性がいて、彼女はコウヘイに気付き読んでいた本を閉じて立ち上がった。縁の太い紅色の眼鏡を掛けていて、灰色のアディダスのパーカを来ていた。まだ若い。髪の色はアッシュブラウン。丸顔で童顔。おそらく学生だろう。
「今日はどう?」コウヘイはカウンタに寄りかかり聞く。カウンタの隅に白蓮が鉢に植えられて窮屈そうに咲いていた。スクリュウの袂に咲いていたものと同じ形、同じ匂いだった。
「午前中に中国からの団体客が来てもぉ大変、でもそれきりさっぱりですね」
「そう、やっぱり厳しいか」
「厳しいっていうか、やっぱりミュージアムのポテンシャルがその程度なんですよ、だからいくら特別展に気合いを入れたって、集客は変わりませんよ、ほとんど慈善事業だから成り立ってるものの、やっぱりなんとかしなくちゃいけないレベルの静けさですよ、本当に」
「そうだね、」コウヘイは苦笑する。「まあ、それは僕の前で言ってもいいけど、館長の前では言わないでくれよ」
「分かってますよ、」彼女は口を尖らせて言って、そして視線をユウリに向けた。「それで、さっきから気になってしょうがなかったですが、そちらの可愛いお嬢さんはどなたです?」
「ああ、この娘は國丸ユウリ君だ、ちょっと縁があって天体史を教えることになったんだ」
「なんだ、先生の愛人かと思ってたのに、」彼女はつまらない冗談を言ってそして、にっと笑い人懐っこい表情を作ってユウリに言った。「よろしくね、私、このミュージアムで学生アルバイトをしている小泉チイです、何か質問があったら言ってね」
そして彼女はチャーミングに顔の横で手のひらを開閉させている。そのチャーミングな仕草に笑顔になってユウリは頭を下げた。
「ねぇ、それってもしかしてゼプテンバのコスロテ?」チイが聞いてくる。
「あ、はい、」ユウリは分かってくれて、嬉しくなった。「そうです、私、ゼプテンバ様が大好きで」
「私も好きなの、いいよね、コレクチブ・ロウテイション、ザ・グラムロックって感じで」
コレクチブ・ロウテイションについて、ユウリはチイとその場で話し込んでしまった。チイは錦景女子のOGでコレクチブ・ロウテイションは学校では伝説なのだと言った。「あの学校には沢山の伝説があるんだよ」
それを聞いてユウリは。
錦景女子に後ろ髪を引かれた。
伝説を知りたい。
伝説の中に入り込みたい。
没入したい。
しかしユウリは中央高校に行くと決めたのだし。
少し迷うな。
迷ってしまうんだ。
いつも何かに迷っているような気がする。
「よかったら私、ガイドしましょうか?」チイは提案した。
「え、いいの、頼める?」
「どうせ今日はもう誰も来ないでしょうし、」チイは背後の時計を見た錦景市は午後の四時。ミュージアムの閉館は五時だった。「ここのことは私の方が先生より詳しいでしょう?」
というわけでチイが世界望遠機関ミュージアムを案内してくれることになった。コーナは大きく分けて二つある。第二次大戦と現代戦争について。チイは詳しく展示物について解説してくれた。戦争の悲惨さを訴えるものが全てだった。戦争の悲惨さを象徴するものが並んでいる。過去を否定するものが並んでいる。時代を否定するシンボルの羅列は、ユウリの眼に奇妙に映った。フロア内にミニシアタがあり、およそ二〇分ほどの映像を見た。その映像も展示物と同じような主張を訴えていた。空襲によって焼失する家、爆発する戦車、戦艦に飛び込む飛行機、行進する兵隊、銃弾を撃ち込まれ死ぬ人、原子力爆弾が作り出す芸術的と思えるほどのキノコ雲。それらの過去を、このミュージアムは否定しているのだ。
ユウリは憂鬱になった。
過去を暴力的に否定して、悲惨さを訴えて、そしてそれだけでどうなると言うのだろう?
ここは未来を考えていない場所だ。
それがユウリを憂鬱にさせたのだと思う。
しかしチイの言葉に救われた。「勘違いしないで欲しいのは、ここは天体史の一つの断面だということ、つまり顔、表情の一つなの、私だって、國丸ちゃんだって、いろんな顔があるでしょう? それなのよ、ここは全てじゃないってことなのよ、全てじゃないけれどここにコレクションされているものが見せる世界も本当で、顔なのよ、天体史を研究するのであればそれは知っておかなくちゃいけないってこと、だから先生は國丸君をここに連れて来た、ね、そうでしょ、先生?」
コウヘイは二人から少し離れてぼぅっと天井に吊された飛行船の模型を見ながら何かを思案しているようだった。チイに声を掛けられ、きょとんとした顔を二人に見せる。「えっと、何?」
「もぉ、ぼぅーとしていないで下さいよ、」チイはユウリの肩を触って言った。「将来有望な研究者がここにいるんですよ、大事に大切に育てなくっちゃ駄目じゃないですか」
「大事に大切にしなくても勝手に育つでしょ?」コウヘイは冷めた眼をして言った。「生まれてきたんだから」
「先生、それって少し酷くない?」
「何が?」コウヘイはポカンとしている。
「酷いですよ、ねぇー、國丸ちゃんもそう思わない?」
「私は別に、先生の言う通りだと思うし」
ユウリは事実、そう思った。生まれたら大切に、大事にされようがされまいが勝手に育つ。ユウリがそうだった。コウヘイの言葉は正論だと思う。生まれてきたんだから。
卵じゃないんだから。
「あ、そう、」チイは丸い目でユウリの顔を見た。「まあ、確かにそうかもしれないけど」
チイはきっと恵まれた家庭環境で育ったのだろう。友達も沢山いたのだろう。そんな、柔らかい顔をしている。死のうと思ったことなんて一度もないのだろう。コレクチブ・ロウテイションのことが好きだと言うけれど彼女は、彼女たちの音楽に救いを求めることがあるのだろうか。
「國丸君、こっち」コウヘイが手を招く。
その先には別のフロアへ続く通路があって、その先には特別展覧室があるようだ。「見せたいものはこっちにあるんだ」
「はい」ユウリはコウヘイの方へ歩く。
そのタイミングで、チイの思惑とは裏腹にお客さんが来たようで彼女は急いで受付に戻った。「あ、すいませーん、チケットは券売機で買って下さーい!」
ユウリは受付に走るチイの後ろ姿を一瞥、コウヘイと並んで特別展覧室の方へ歩いていった。
細い通路の左右には窓が並んでいて特別展覧室がある別棟に繋がっていた。通路を進むと自動ドアがあり、その先が特別展覧室だった。狭い部屋だ。天井はドーム状になっていてプラネタリウムみたいに星が輝いていた。
そしてフロアの真ん中には錦景山の緑の中にそびえ立つ、スクリュウの姿があった。
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