ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー/十
レイカの部屋で優しい歌を聞いた。
その翌日。
八月二十三日は勝負の日だった。
朝早くユウリは目が覚めた。ロンズデールの紅色のツーラインの紺色のジャージを着て、髪を後ろに一つに結び、アディダスのランニングシューズを履いて、ウォークマンでブリッジン・フォ・ニュウを聞きながら早朝、静かな錦景市の街に飛び出した。
ユウリは静かな錦景市の街を走るのが好き。集団運動は嫌いだけど、体を動かすのは嫌いじゃない。本気のダッシュが好き。呼吸に苦しくなって体にも力が入らなくなって限界で、死にそうになるのが好き。脳ミソに蓄積された不純物が汗と一緒に流れ出てクリアな気持ちになれるのが好き。昨日喫煙所で倒れてしまったのは、最近走ってなかったから限界のレベルが下がってしまったのだろうと思った。レベルを上げなくっちゃいけない。少しでも。
早朝でも錦景市は酷い暑さ。湿度もヤバい。汗はすぐに噴き出して止まらなくなった。ジャージは汗で重くなる。髪はシャワーを浴びたように濡れている。
ユウリは南へ、華の公園を目指して走った。
コレクチブ・ロウテイションのロックンロールはユウリを走らせる。
ブリッジン・フォ・ニュウ、
ゴールド・フィッシュにうってつけの春、
対カルチャショック戦争の前夜、
金魚蘇生の方法、
六花錦景、
甘い口どけ髪は紅、
エヴァ・シエンタの銀の時代、
桜ピンクは恋の色、
あの娘は発電機、
ゴールド・ラッシュ・ライク・ア・ピクニック、
コインランドリィ・ドライバ、
そしてロスト・スカーレット・ブルーム・オーバ・シー。
死にそうになるまで走ったユウリは倒れ込むようにして華の公園の敷地の中に入った。
華の公園。
ライフラインというスーパーマーケットと道路を挟んだ向かいにある、この小さな公園がそう呼ばれている理由は、その中心に咲き乱れている色とりどりの華々だった。
それは火炎が空に立ち上るように咲いている。
いつの頃からか、この公園の中心には、何のためか献華がされるようになった。献華は今日もある。今日まで続く絶え間ない献華が、この公園の真ん中に、火炎のように咲く、華の群生を造り上げたのだ。
今日の火炎には紅が多い。
紅蓮の炎。
それは薔薇の紅か。
その薔薇の向こう側のベンチを見れば、そこには会えればいいなと期待していた人が座っていた。
煙草の白い煙に顔は隠されていたが、それはすぐに拡散し薄れて彼女にもユウリの姿を見せた。「久しぶりじゃないか」
金髪とブルーの瞳が素敵な彼女の名前は、武尊アマキ。その幼い顔立ちは中学生にも高校生にも見えるが錦景女子高校ではユキコの一つ先輩だった人。つまり二十九歳。
「おはようございます」ユウリはベンチに近づきアマキに頭を下げてから彼女の隣に座った。
「汗だくじゃないか」目が半開きで、どことなく眠そうな顔のアマキは煙を吐いて言う。
「走って来たから、」ユウリはジャージのファスナを降ろし、首に巻いていたコレクチブ・ロウテイションのタオルで顔の汗を拭いた。「師匠だって汗だくですよ」
「今日は暑いよ、」そう言いながらも汗だくのアマキは涼しい顔でアクエリアスを飲んでいる。「炎暑だよ」
アマキは今日もロンズデールの金メッキのツーラインが煌めく黒のジャージ姿だった。ロンズデールというブランドを教えてくれたのはアマキだ。それに髪を金色にする方法と瞳をブルーに見せる方法を教えてくれたのもアマキだった。
最初にこの華の公園で会ったとき、アマキはゼプテンバのコスロテをしているのだと思って、嬉しくなってユウリは声を掛けたんだ。そしたらアマキはポカンとした表情をユウリに向けて「何それ、喧嘩売ってんの?」とゼプテンバのコスロテを否定した。「これがアタシのスタイルなんだけど」
不良少女。それがユウリがアマキに最初に抱いた感想だった。ユウリはヤバい人に声を掛けてしまったと思ってその場から逃げ出そうとしたんだけれど、アマキはユウリの手首を掴んでベンチの隣に座らせ顔を寄せって聞いてきた。「國丸ユキコ、じゃないよな?」
「……く、國丸ユキコは私の叔母で、私は姪の國丸ユウリ、です」
「ユキコはまだ生きてるの?」
「死んでない、です」
「そう、ふうん、」アマキはなにやら考える素振りを見せて「まあ、それはともかく似すぎじゃね?」とアマキはユウリの顔を見て大笑いした。「はははっ! 本当にそっくりっ! 似すぎでしょ! ああ、それにしても懐かしいな、高校生だった頃を思い出すな、ちょっとユキコとは色々あったんだよ、色々ね」
それからユウリはアマキとこの華の公園で話すようになった。アマキはいるときもあれば、いないときもあった。出会える確率は三〇パーセントくらいだった。出会いを重ねながら彼女から色んな話を聞かせてもらった。高校生のユキコのこと、錦景女子のこと、化粧のこと、煙草のこと、酒のこと、髪を金色に染めて瞳をブルーにする方法、護身術など、本当にユウリの知らないことを教えてくれた。だからユウリは彼女のことを師匠って呼んでいるんだ。何の職業に就いているのか、彼女は絶対に教えてはくれないんだけれど。
「今日は勝負の日なんです」ユウリは言った。
「は?」アマキはポカンとする。「勝負の日?」
「はい、今日で決めてやろうかなって」
「喧嘩の話?」アマキは煙草を地面に捨てた。「ついにアタシが教えた必殺技を使う日が来たってわけ? ちゃんと技は磨いてる? 磨いてないとすぐに錆びるよ」
「喧嘩なんてしませんよ、そんな野蛮なことしませんよ」ユウリはニッコリと笑う。「必殺技を使う必要もないんです」
「今日のユウリはなんだか、どことなくお上品だ、どうかした?」
「師匠、今日私、」ユウリはアマキをまっすぐに見て言った。「告白するんです」
「そっか、」アマキはさほど表情を変えずに興味なさげに言った。「まあ、頑張って」
「はい」ユウリは歯切れよく頷き、アマキがこちらに向けて手のひらを広げているからそこに軽くパンチした。
軽い音が早朝の華の公園に短く響いた。
そしてアマキはユウリから視線を逸らしおもむろに立ち上がった。
「うーん」とアマキは腕を空に伸ばしながら、公園の真ん中に咲き乱れる華々に向かって歩く。その前でしゃがみアマキはジャージのポケットに刺さっていた一輪の薔薇を、そこに献華した。アマキは華の公園で献華する多くの人々のうちの一人だった。
「お願いよ」
アマキは小さく言って短く合掌。
そして立ち上がり。
一歩後ろに下がり。
瞬間。
アマキの躰は回転する。
彼女の躰は大きく見えた。
金色が躍動。
放たれたように彼女の右足は。
華々の上の空気を叩いて旋回。
上段回し蹴り。
それがアマキの必殺技。
彼女は別に本格的に格闘技をしているわけじゃない。ただそれだけを、必殺技だけを磨いて来たんだ。
洗練されている。
いつ見ても、綺麗だ。
「まあ、頑張って、」躰をこちらに向けたアマキは腰に手を当て精悍な顔付きをして言った。「ユウリなら大丈夫、まあ、あんまり君のこと知らないけどさ」
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