ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー/九

 目を覚ますとユウリは知らない部屋のベッドで眠っていた。しかしすぐにレイカが纏う甘い香水の匂いがしてここが彼女の部屋だと言うのはすぐに分かった。六畳ほどの狭い部屋だ。ワンルームマンションのようで、おそらく扉の向こうにキッチンと浴室とトイレがあって、レイカはそちらにいるのだろう。この部屋にレイカの姿は見えなかった。

 部屋は眩しかった。何かが強く光っているというわけではなく、この部屋には暗い色が見当たらなかった。毛布も壁もカーテンも本棚も絨毯もテレビも冷蔵庫もステレオも白かった。

 白いステレオのスピーカからミスターチルドレンが静かに聞こえていた。

 なんて歌だったか、ユウリのぼんやりとした頭は思い出せないでいる。

 ステレオの上の白いアナログ時計が示す時刻は七時。

 白いカーテンの向こう側は、夜でしょうか。

「あ、」木製の扉がスライドしてレイカが部屋に戻ってきた。レイカの表情は、どちらかと言えば明るかった。あんな風にユウリが怒鳴り散らしたにしては暗さがあまり感じられない。気丈に振る舞っている、というのが適当か。「起きた?」

「はい、」ユウリはレイカの気丈さを反射して大きく頷いて小さく笑って見せた。「ここは、レイカさんのお家?」

「そうよ、」レイカは一度自分の爪先を見てから、笑顔をユウリに見せた。「つまらない部屋でしょ?」

「綺麗な部屋ですね」

「ごめん、その、家に連れて来たりなんかして」

「いいえ、」ユウリは首をゆっくりと横に振った。「別に、でも分からない」

「分からない?」

「どうして私、レイカさんの部屋にいるんです?」

「私、ちゃんとユウちゃんと話がしたいの、したいと思って、でも、自分の部屋に運び込むのは少し卑怯だったかな、ごめんね、どうしてもちゃんと謝りたくて」

「私の方こそ、ごめんなさい、あんな風に、切れちゃって、私ってそうなんです、頭に血が昇りやすくって、でも今は眠ったせいかな、冷静、冷静です、とっても、冷静な時間です、私もレイカさんとちゃんと話したかったんです、ずっと」

「珈琲淹れるね」レイカはにっと笑い再び扉の向こうに消えた。

 ユウリの心が安らいでいるのはきっと。

 ここが彼女の部屋で、彼女が必ず帰ってくる場所だからかな。

 レイカは珈琲が注がれ湯気の立つカップを両手に持ってちゃんと戻ってきた。

「熱いから気を付けて」レイカはベッドの上のユウリに珈琲を渡す。

「ありがとうございます」ユウリは両手でそれを受け取った。

 レイカはベッド脇の座椅子に座って口を尖らせて珈琲を冷まし、カップを傾けた。

 レイカはこちらに横顔を向けている。ユウリはカップで顔を半分隠してレイカの横顔を盗み見ながら珈琲を飲んでいる。珈琲は濃くて甘くて、どこか柔らかかった。

「なぁに?」レイカは唐突にユウリの顔を見た。

「別に」ユウリは視線を上に逸らし天井で光る白さが強い蛍光灯を見た。

「やらしい顔してる」

「そうでもないですよ」ユウリは言われて思わずニヤケてしまった。そんなことを言われれば誰だって、やらしい顔になってしまいそうな気がする。

「……抱いてあげようか?」レイカはまっすぐにユウリの顔を見て言った。

 迷ったのは二秒。

 ユウリは首を横に振った。

 レイカとキスしてエッチした思い出が脳ミソに走り、そのときに知った快楽をもう一度味合いたいと体は訴えた。

 しかしもう、ユウリの心は違うんだ。「私もう、レズビアンじゃないから」

「……それって、」レイカは眉を寄せて真剣な顔をしてユウリの顔をまじまじと見てくる。「もしかして私のせい? 私のせいなの?」

「違いますよ、レイカさんのせいじゃないですよ、レイカさんは別に、私にとって、その、影響力の大きい人じゃありませんから」

「そんな風には思えないんだけど、ユウちゃんが変わっちゃったこと、私のせいだって思わざるを得ないんだけど、あんな風に怒鳴られたら」

 そこでユウリはレイカを睨み付けてやった。「怒鳴ったのはもちろん、レイカさんのせいです」

「ご、ごめん、」レイカは慌てる素振りを見せて謝った。もう一度、あんな風に怒鳴られたら堪らない、という顔をしている。ユウリのことを恐がっているみたい。ユキコを恐れるユウリとほとんど同じ表情だ。「ごめんね、でも、じゃあ、どうして、ユウちゃんは変わったの?」

「それはレイカさんに教えなくちゃいけないことですか?」ユウリは意地悪に微笑み言った。

「そんなことはないけど、」レイカは困った顔をしていた。「そうね、ユウちゃんが私にそんなこと教える必要なんてないんだけど、あ、まさかもしかして、それに天体史が関わっていたりするの?」

「まあ、そんなところです」言ってユウリは珈琲に口を付けた。

「ああ、やっぱりそうなのね、そうなんだ、でも、本当に驚いたわ、まさかコウちゃんが話していた天体史を勉強したいって女の子がユウちゃんだなんて、また会うなんて思わなかったから、本当に驚いた」

「私もです、もう会えないと思っていました、あのときにあなたとの全ては終わったんだって思ってました」

「ああ、あのときは、」レイカはカップをテーブルに置いて座椅子の上で正座して背筋をピンと伸ばして言った。「本当にごめんね、ごめんなさい、どうしてもすぐにお金が必要だったから」

「もういいです、そのことは、どうでもよくなったわけじゃないですけど、レイカさんのことを許したわけじゃありませんけれど、なんていうか、もう、終わったことなので」

「ええ、うん、」レイカは控えめに明るい表情を作って笑う。「それでいい、それで十分、ありがとう、ごめんね、どうもありがとう、なんだか、泣きそうな気分」

 レイカの顔は笑っていた。

 でも目元はほんのりピンク色で、瞳にはうっすら涙の幕が広がっていた。

 それにユウリの心は揺さぶられる。

 抱き締めて優しいキスをしてあげたいと思った。

 どうやらまだユウリの体には、前の場所の余韻が残っているよう。

 でもユウリはもう次の場所にいる。

 次の場所に立っているんだから。

 こんな気持ちは嘘だって笑い飛ばしてしまえばいいんだよね。

 気を取り直してユウリはレイカに質問した。「レイカさんはどうして、レズビアンじゃないのに、あのお店にいたのですか? 普通の風俗じゃなくて、普通じゃないピンク・ベル・キャブズに、どうしていたんですか?」

「どうしてって、それは、」レイカは少し躊躇う素振りを見せた。しかし話してくれた。少し恥ずかしそうに話すんだ。「それはだって、好きな人以外の男に抱かれたくなかったからよ、好きな人以外の男に抱かれるくらいだったらさ、女を抱いてお金を貰う方が健全かなって思ったの、そんなに健全な気分じゃいられなかったけどね、お客さん、全員ユウちゃんみたいに可愛い女の子だったらよかったんだけど、そういうわけじゃないからやっぱり辛かったな、まあ、男に抱かれて辛くなるよりはマシだったのかな、分からないけど」

「レイカさんは好きな人がいるんですか?」

「え、ああ、」レイカは少女のように照れながら頷いた。「うん、いるよ」

「もしかして武村先生ですか?」

「うん、まあ、そうだよ」レイカは自分の頬を触った。その頬の色は朱い。

「付き合っているんですか?」ユウリは大事な質問をさらりと口に出すことが出来た。

「ううん、」レイカは小さく首を振る。「絶賛片思い中」

「そうなんですか、」二人が付き合ってはいないことを、ユウリはリサコから聞いて知っていた。が、リサコの情報には根拠がなかった。それが確かめられてユウリはコウヘイが近くなったような気がしてほっとなる。そんな気持ちはレイカの前ではもちろん、隠すけど。「好きだったら告白すればいいのに」

「そうなんだけどでも、怖いでしょ? 断られてコウちゃんに嫌われたりしたら私、それこそレズビアンになっちゃいそうだもの」

「んふふっ、その冗談、」ユウリは下品に笑った。「面白い、好きですよ」

「可能性はほとんどないだろうしね、」レイカは自分の膝を抱いて言う。「コウちゃん、多分、あの人のことが好きなんだと思うし」

「え?」ユウリは敏感に反応してしまった。「先生には好きな人がいるんですか?」

「そりゃいるでしょ」

「レイカさんはその人が誰か知ってるんですか?」

「うん、知ってるんだよぉ、」レイカは口を尖らせて頷き、そして重量を感じさせる溜息を吐き額に手を当てた。「はあ、知ってるの、知ってるのに私は、莫迦よね、少しでもコウちゃんに好かれたくて、なんでもコウちゃんが望むことなら叶えてあげたいって思っちゃうんだ、莫迦だよね、可能性なんてほとんどないのにでも少ない可能性のことを考えちゃう、ゼロじゃないかもしれないから、莫迦だよね、莫迦だからユウちゃんのことも苦しめちゃったりしちゃうんだ、ああ、本当に、莫迦だよね」

 レイカは独り言のように言って珈琲を飲み干した。

 そしてテーブルの上でぺしゃんこになった箱から煙草を一本引き抜いて、レイコは部屋の隅にある白い空気清浄機の傍に移動して、ライタで火を点けた。

 白い煙を吐くと白い空気清浄機が騒ぎ出す。

 白いスピーカから響いて騒ぎ始めたのは、ミスターチルドレンの優しい歌。

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