ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー/八
傍にいれば煙草の匂いよりも、彼女の茶色の髪の毛から漂う香水の甘い匂いの方が際立っていた。
G大のキャンパスの中心にある広場の隅の喫煙所には先に、哲学者を思わせる髭面で痩せた壮年の男性がいて、難しい顔をして煙草をくわえていた。喫煙所の中は空調が整っていて涼しく、汚れた空気が籠もったあの嫌な感じは一切なかった。だから余計、レイカの香水は匂っていた。
「ああ、水戸さん、ちょうどよかった、この前話した教室の件なんだけどね、やっぱり無理?」
哲学者はレイカのことを水戸と呼び、事務的なことを話していた。そういえば、レイカの苗字を知らなかったな、水戸っていうんだ、とぼぅっと考えながらユウリは煙草を吸っていた。煙草はレイカがくれたものだった。
「だから前にご説明した通り予算的に無理なんですって、」レイカは終始、厳しい口調で哲学者と話していた。「今年度中に構内の全てのパソコンのバージョンアップをするのは会議で決まったことですし、服部先生だってそれに賛成したと聞いておりますが?」
「そうだけど、」哲学者の服部の口調はレイカに対して終始弱々しい。「でもあそこで反対に手を挙げるなんて出来なかったんだ」
「そんなこと知りませんよ、」レイカは彼の言葉を跳ね付けて煙を強く吐いた。「とにかく事務室の女に何を言っても変わりませんからね」
服部は苦笑し煙草をもみ消して「それじゃあ、失礼するよ」と最後は背広の襟を正し紳士的な態度で喫煙所から出て行った。
すると、喫煙所には当然、ユウリとレイカの二人しかいなくなった。
沈黙は約束されていたように訪れて、やっぱり何から話せばいいか考えてしまう。
幸いなのは、何かを話せない状況ではない、ということだろう。
ユウリを誘ったのはレイカだ。少なくともレイカはユウリと話をする気があるということだ。ユウリの前から逃げない、ということだ。
「ごめんね」
突然、レイカは言った。それに反応してレイカの方を見やれば、レイカは真剣な顔でまっすぐにユウリの顔を見つめていた。そしてレイカの手には皺のある封筒があって、それはユウリの方に差し出されている。「ごめんね、お金盗ったりして、返すから、あの、お願いどうか許して欲しいの、怒ってるでしょう?」
お金を返すってどういうつもり?
許して欲しいってどういうつもり?
もう消えた、と思っていた怒りは、危惧していたようにやはり、蘇り始めた。
再びレイカに近付いて、傷付いてもいいなんて思いながらもやはり、過去に切られた傷口は痛みを精確に覚えていて、今にそれをユウリの心に復活させた。
レイカのことを殴ってしまいたい。
蹴りたい。
暴力で、彼女に痛みを味合わせてやりたい。
原始的な感情にユウリはほとんど支配されていた。
一抹の理性が暴力にブレーキを掛けている状態だった。
「……いらない、」理性がやっと発した声は大きく震えていた。「いりません、いらないから」
「ごめんなさい、本当に、盗むだなんて本当に、本当に最低なことをしたと思ってる、」レイカは封筒をユウリに押しつけるようにして訴えて来る。「でもね、どうしてもあの時、お金が必要で、どうすればいいんだろうって凄く困ってて、そんなときにユウちゃんが現れて、それで凄く悪い考えが浮かんで、本当に最低よね、私って、そうよね、許して欲しいだなんて、虫が良すぎるわよね、ごめんなさい、でも私が凄く後悔しているってことは信じて欲しいの、許してくれなくてもいいから、だから、せめてお金だけは返させて、受け取って、ユウちゃん、ねぇ、お願い、お願いだから」
レイカの甘い匂いが傍にある。それは強く香って、ユウリにあの夜のことを強く思い出さた。痛みはすでに我慢出来ないほどになっていた。
どれだけ痛かったか、知っているの?
どれだけ苦しかったか、分かるの?
私がどんな思いであなたと一緒に寝たのか、想像出来る?
あの時の少女は電車に飛び込んで死のうとしたんだ!
我慢出来ない。
理性はもうない。
原始的な感情が、ユウリの純真が、叫ばせた。
「いらないって言ってんだ!」声は甲高く響いた。「あんたは私がどんな思いをしたか知ってる!? どれだけ苦しい思いをしたか分かる!? あの夜は最高の夜だったのに目を覚ましたらあんたはいなくなっていた! 金を盗んでいなくなっていたんだ! とっても吃驚した! 信じられなかった! あんたがそんなことをするなんて思わなかった! 私はあんたのことを好きになっていたんだよ! 私のことを初めて抱いたのはあんたなんだ! あんたが初めての人だったんだ! だから私はあんたに惚れていたんだよ! それなのにあんなのってないよ! 酷いよ! 酷過ぎるよ! 絶対に私はあんたのことを許さない! 私は電車に飛び込んで死のうとしたんだ! あんたは私は一度殺したんだ! 地獄に堕ちろ、クソ女!」
いつの間にか視界は涙で滲んでいた。
声には涙が混ざっていた。
怒っているのか、悲しんでいるのか、もしかしたらこの状況を楽しんでいるのか、自分でもよく分からなかった。
多分、狂っているんだろう。
心は乱れている。
狂喜乱舞。
それかもしれないね。
レイカの顔は恐怖で歪んでいる。怯えている。
「こんなもの!」ユウリはレイカの手から封筒を引ったくり半分に破いて捨てた。「こんなもので私が許すと思うな! 莫迦野郎!」
そう叫んだところで、ユウリのエネルギアはゼロになったのか、急にめまいが来て立っていられなくなりその場で膝から崩れるようにして倒れてしまった。呼吸が乱れ息苦しい。何度も吸ったり吐いたりを繰り返すが息苦しさが消えない。
ユウリは目を瞑り痺れて力の入らない手で胸を押さえた。
心臓が大きく鼓動している。その音が耳に響いている。
死ぬかもしれないと思った。
苦しかった。
「ユウちゃん!?」レイカの声がする。甘い匂いがする。レイカの体の温もりを感じる。レイカの手がユウリの背中をさすっている。「大丈夫よ、大丈夫だからね、ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐くのよ、落ち着いて、大丈夫だから、落ち着いて、大丈夫よ、大丈夫」
ユウリは言われた通り、ゆっくり呼吸を繰り返した。すると苦しみは徐々に和らいでいった。目を開けると傍にレイカの顔があった。レイカはユウリに微笑んでくれている。「過呼吸ね、大丈夫よ、しばらく休んでいれば、大丈夫だから」
ユウリは小さく頷き、目を瞑った。
するとなぜか、安らいでいる自分がいた。
安らげる状況では決してないと思うのにでも、ユウリはレイカの腕の中で安らいでいたんだ。
そしてそのままあの日の夜と同じように、ユウリは深い眠りに落ちていた。
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