ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー/七

 レイカと話をすることが出来たのは終戦記念日から一週間後の八月二十二日だった。

 この日もユウリはG大に訪れていた。この日も、というのはリサコの講義を受けてから毎日、ユウリはバスに乗ってG大に来ていた。十六日には図書館に申請書を出してカードを貰い、そこに自由に出入り出来る身分になった。次の日には図書館の書庫を利用するための認可を得るためにガイダンスにも出席した。リサコは基本的に図書館一階、書庫の入り口に近い専門雑誌のバックナンバがあるフロアの広い机で調べ物をしている。ユウリはリサコと同じ机で邪魔にならないように受験勉強をしながら、天体史の概説書を紐解いていった。図書館は私語厳禁なので、リサコに聞きたいことがあれば大学の食堂で昼食を食べながら質問した。昼食は毎回、メンバは違えど天体史を専門に研究している院生たちとともにした。様々な性格の人種がいたが、学術に生きる彼らは総じて、紳士淑女的だとユウリは思った。彼らと食事をして話をしているだけでユウリは高尚な気分になれた。それに自分たちと同じように天体史を志す中学生の可愛い少女に彼らは優しかった。春日中学校三年二組では決して味わうことの出来ない刺激に大学は満ち溢れている。そこにいる間、ユウリは三年二組の問題児ではなくなっていたんだ。

 肝心のコウヘイはと言えば、中国で開催されるというシンポジウムに出席するために一週間大学にはいなかった。予定では二十三日に帰国するとのこと。ユウリはコウヘイとの再会が待ち遠しくてならなかった。

 コウヘイの帰国の前日、八月二十二日、リサコは図書館のいつものテーブルにいなかった。何か用事でもあるのだろう、とリサコの不在は寂しかったけれど、受験勉強と天体史研究にユウリは普段通りに没頭した。空腹を合図にユウリは一度、図書館を出た。スマートフォンを確認するとリサコからメールが来ていた。リサコは風邪を引いてしまったみたい。「寂しくない?」と聞いてきたから「寂しいよ」と返信した。するとリサコは自分のキス顔の写メを送ってきた。ユウリは嬉しかった。年は八つも離れているけれど、ユウリはリサコのことを友達だって勝手に思ってる。

 リサコがいないから食堂に行くのは躊躇われた。顔見知りの人たちがいるとは限らない。だからユウリはお昼は簡単でいいや、と思い購買部であんパンと珈琲牛乳を買った。そして双心館の横に建つ、主に文学部の講義が行われているという清学館一階、冷房の効いたラウンジに行き、その壁際に並んでいるソファに座って食べた。

 一人だとやっぱり寂しかった。

 あんパンはすぐに食べ終え、人が少ないラウンジを見回しながらユウリは珈琲牛乳を飲んでいた。ラウンジのテーブルには孤独に勉強している人もいれば突っ伏して爆睡している人もいれば静かにプラモデルについて談義をしている人たちもいた。すぐに図書館に戻って勉強を再開しようと思ったのは寂しい、という気持ちよりも大学に対する憧れからだった。まだ高校受験も終わっていない中学生だけど、早く大学生になって、悠々自適に、周りの目なんて気にせずに過ごしたいと思ったからだ。そのためにはしっかり勉強しなくちゃいけない。ユウリは志望校を錦景女子高校から、県内で一番の偏差値を誇る中央高校に変えていた。中央高校は、模試でB判定だった。Bあれば十分だって担任は言っていたけれどA判定じゃなければユウリは安心できなかった。ユウリは神経質で心配症なところもある。

 ユウリはあんパンのビニル袋と珈琲牛乳の紙パックを自販機横のゴミ箱に捨てた。

 そのタイミングだった。

 ラウンジの通路を挟んで向かいにある事務室の扉が手前に開きレイカが姿を見せた。

 ユウリはレイカを見つけて立ち止まってしまった。

 レイカもユウリに気付いたみたい。

 でもレイカは以前のような、過剰な反応はしなかった。ユウリが大学内にいてどこかですれ違う可能性、あるいは自分に会いに来る、という可能性を考えていたはずだ。

 ユウリだってそれは同じだ。いつかは遭遇するだろうって思ってたんだ。

 レイカは扉の前で立ち止まり、惑う素振りを見せた。しかしそれは数秒。

 レイカは唇をきゅっと結び、何かを決めた目をしてヒールの音を鳴らしてユウリの方に近付いて来た。

 そしてユウリの前に立ち小さく言った。

「煙草行かない?」

「え?」

「喫煙所じゃないと吸えないから、」レイカは苦笑し息を大きく吐いた。「結構不自由、ストレス溜まってしょうがないの、事務室の空気最悪なの」

「あ、あの、えっと」

「大丈夫だよ、ユウちゃん、大人っぽいから、誰も中学生が煙草吸っているだなんて、思わないからさ」

 ユウリの返事を待たずにレイカはこちらに背を向けて喫煙所がある方へ歩き出した。ユウリは二秒、迷っての後、結局レイカの後を追う。

 煙草。

 久しぶりに吸いたいって思ったんだ。

 別にただ。

 ただそれだけ。

 それだけなんだってそんなわけないじゃない。

 虚勢を張って天体史に没頭することなんて出来そうになかったんだ。

 だから歩く。

 足はレイカを追って。

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