ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー/六

 レイカは最初に会った時と同じように、可憐で綺麗な人だった。

 八月十五日、終戦記念日の午後四時、錦景市G大。

 双心館、四○五号室、武村研究室の雰囲気を、リサコは「何かが帯電しているようだわね」と表現した。ユウリはレイカの前では上手く話せなかったし、レイカの笑顔はぎこちなかった。ギクシャクとした雰囲気にリサコはヒステリックになってしまったようだ。

 それまでリサコはずっと笑顔だったのに、ヒステリックはリサコの顔を恐くした。「なぁに? なんなのこの空気? やっぱり二人、知り合いなんじゃないの? 別に私に隠さなくたってよくない? お菓子は楽しく食べるものよっ、そうでしょ? 私今、全然楽しくないんだけどぉ」

 リサコはポテトチップスを豪快に頬張りながらユウリとレイカのことを交互に睨んでいる。

 コウヘイが使用している二つ並んだデスクの後ろには脚の短いガラステーブルとそれを挟むように向き合っている小さなソファが二つあり、そこで三人は珈琲を飲みながらコウヘイが会議から戻ってくるのを待っていた。

 ユウリはリサコの隣に座り、その対面にレイカが座っているという配置だった。コウヘイの研究室には給湯の設備もあって、珈琲はレイカが入れてくれたものだった。シンクの横には小さめの冷蔵庫があり、その上に電子レンジ、そしてその上のプラスチック性のかごにはスナック菓子が大量に備蓄されている。それらはリサコが購入してくるもののようで「伊達理沙子のお菓子」とかごの側面に大きく太字のマジックで書かれていた。リサコはジャンクフードが大好きみたい。

 コウヘイのデスクの上のパソコンのディスプレイにはスクリーンセイバがサイケデリックに踊っていた。その手前のスペースは本と資料が重なり合って無秩序な状態。しかしデスクの隣のスチール性の書棚はきちんと整理されていた。分厚いファイルも年代順に並んでいる。部屋全体もきちんと掃除が行き届いていて清潔だった。

 この清潔さが維持されているのは、繰り広げられていた他愛ない会話の中から推測するにレイカの仕業のようだった。レイカはリサコと違って武村研の院生ではない。学生のときには天体史を専攻していたが、院には進まずG大に事務員として就職したのだという。そして事務員という立場を利用して、学生の頃から恋心を抱いていたコウヘイに接近し、今では部屋の掃除をするような関係になった、ということらしい。

 ユウリはしかし、疑問だった。

 レイカってレズビアンじゃないの?

 レズビアンだから、ピンク・ベル・キャブズにいたんじゃないの?

 どうしてレズビアンのくせに、コウヘイの近くにいるの?

 訳が分からない。

 しかしリサコが隣にいる手前、それらの質問を口に出すのははばかられた。

「別になんでもないわよ、」リサコのヒステリックなんてなんともない、という風にさらりと言ってレイカは珈琲を飲み干しソファから腰を持ち上げた。「じゃあ、そろそろ戻らなきゃだから」

「あ、うん、」リサコはレイカのことを引き留めたりはしなかった。「じゃあね」

「うん」

 レイカは最後にユウリの顔を一瞥、ユウリの横を通って、香りを残して、扉を開けて部屋の外に消えた。レイカは何を思ってユウリを見たのか、ユウリには分からない。ユウリは振り返って閉じた扉を見つめていた。

 なんだか。

 寂しい気分になった。

 どうして寂しい気分になったのだろう。

 レイカは最低な女なのだ。

 ユウリを騙して金を盗んだ女。

 犯罪者。

 ユウリをホテルに残して。

 ……ああ。

 ああ、そういえば。

 寂しかったな。

 起きて、隣にレイカが寝ていなくって。

 感じた気持ちは寂しさだったんだ。

 寂しがり屋なんだ。

 いつだって私は。

 いつだってぎゅーってされたい。

「ぎゅー」

 突然、リサコはユウリのことを後ろから抱き締めた。

 まるで心が読まれたみたい。

 とにかく吃驚したから、ユウリはまじまじとリサコの愛らしい顔を見てしまった。

「寂しそうだったから」リサコは悪戯に言った。

 結局、その日にユウリはコウヘイと会うことは出来なかった。会議の後、教授たちに飲みに誘われ断れなかったようなのだ。せっかく会いに来たのにお人好しなんだから。しょうがないな。

 その代わりにリサコが天体史について教えてくれた。コウヘイがせっかく大学まで来たんだし、とリサコに教えるように電話口で言ったらしい。リサコは嫌な顔一つせず、ユウリに講義をしてくれた。それは空き教室を使っての本格的な講義だった。内容は第二次大戦時に知識人たちが繰り広げた、いわゆる「近代の超克」論争だった。それがリサコの研究テーマだった。ユウリは教科書に一文字も触れられていない、天体史的事象に接し、なんでしょう、やっぱり、次の場所に来たんだ、という気持ちを強く持った。

「どうだった?」

 およそ二時間に及ぶ講義を終えて、ランニングの後のような顔のリサコはユウリに感想を求めてきた。

「はい、とても、その、面白かった」ユウリは笑顔で答えた。

「よかった」リサコは照れた風に笑う。

「また来てもいいですか?」

「もちろん」

「やった」

 とにかくユウリはまた大学に来る約束を手に入れた。それは天体史に対する興味がある、というのも理由だし、今度はコウヘイの講義を受けたい、というのも理由だった。しかしそれ以上にユウリは、レイカと話をしたいという気持ちが強くあった。

 レイカのことを、レイカとのあの夜を。

 忘れられればいいのだけれど。

 やっぱりどうしたって忘れることなんて不可能だから。

 レイカの気持ちを知りたかったの。

 確かめたいの。

 例え傷付いたって。

 ええ。

 不思議。

 今は不思議となぜかいくらでも傷付きたいって思っているんだ。

 レイカのあの、可憐な匂いのせいかもしれないね。


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