ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー/五
「國丸君」
リサコに声を掛けられてユウリははっと論文から視線をあげて正面を見た。フロント・ウインドの景色は立体駐車場の暗い灰色からすっかり変わっていて、眼前には緑色が生い茂っていた。車は緑色の影に包まれている。その緑色の輪郭はぼんやりとしていた。朧だった。脳ミソは景色の情報をとてもゆっくり、取り込んでいた。ユウリの頭はオーバ・ヒートしているみたい。テストの後よりもそれは強烈だった。「どこ? ……ああ、大学に着いたんですね?」
「凄い集中力だわね、」リサコはハンドルに両手を乗せたままこちらを見て悪戯っぽく微笑んでいる。「國丸君も、もしかして先生みたいな人種?」
「……人種?」ユウリは眉を潜める。
「エキセントリック・ジーニアス」リサコはゆっくり歯切れよく形のいい唇を動かして言った。
「エキセントリック?」ユウリは首を傾ける。「……奇妙な天才?」
「それ、分かった?」リサコは論文のコピーを指さし言う。
ユウリは目を瞑り、脳ミソを二秒休ませた。そして首を横に振る。コウヘイの論文は理解不能意味不明だったから。「いいえ、なんていうのかな、手応え、みたいなものがないんです、読んだのに、音に出して読んだのに」
「難解だから、しょうがないよ、まだ國丸君には早いよ、先生の論文ってそういうんだよ、読み手にかなり委ねている部分があるから」
「うーん」ユウリは下唇を噛んで唸った。
リサコは時期尚早と簡単に言ったけれど、ユウリは悔しかった。論文の内容が理解出来ないことが悔しい。読んだのに、分からないなんて許せないことだと思った。未だかつてこんな経験はない。太刀打ち出来ない、なんて経験はこれまでユウリの生涯になかったんだ。浅くて小さくても傷は付けられた。しかしコウヘイの論文には傷一つ付けられなかった。触って、叩いて、切り込もうとしたけれどでも、弾き飛ばされた。いやどちらかというと、かわされた、に近いだろうか。
とにかくユウリはこれが学術的な難解さなのだろう、と天体史に対して少し途方に暮れた。思ったよりも難しいんだな。しかし身に纏うものとして、その難解さは魅惑的だ。そう思うから途方に暮れても、嫌な感情は一抹もなかった。焦燥感は凄まじい。一刻も早く、この頂に向かって登り出したい、という気持ちが沸いて出て留まることを知らない、という具合だった。
「さ、行くがよし、」リサコはキーを抜いて車外に出る。「ああ、暑い、死ぬぅ!」
「あ、はい」ユウリはサイドミラーで自分の髪型を確認して少し直しながら助手席を降りた。
途端に感じる酷暑。冗談ではなく、死ねる暑さだ。全身から汗が噴き出して来るのが分かる。朦朧となってふらつく。ユウリはアスファルトを踏む両脚に力を入れた。決意とか、覚悟とか、そういう風に思った瞬間の、つまり今に抱いた天体史に対しての気持ちを忘れてしまわないように。
強烈な陽射しから手を翳して目元を隠し振り返ると、広々とした駐車場のその先にG大のキャンパスが見えた。色も形もそれぞれ違っている、統一感のない建物が乱立している。それらは寺社や教会のように荘厳さを思わせる造形ではないのに、学術への無条件の憧れのせいか、ユウリの心は不揃いな建物を見て騒ぎ始めている。
鳥肌が立ったんだ。
「こっちだよ」リサコは暑さから逃げるように早足でキャンパスの方に向かっている。
「はい」ユウリも駆け足気味でリサコの後に続く。
駐車場を抜けて東門からキャンパスの中に入った。夏休み中なのだろう、人の往来はほとんどなく蝉の鳴く声だけが響いていた。北側にグラウンドがあるようで、そちらの方からホイッスルの音が微かに聞こえた。自販機横のベンチに座りコーラを飲みながら男子学生二人が静かに、しかし愉快そうに科学の話をしていた。銅像が垣根の中に見えた。銅像が横に立つ建物が図書館でチラリと中を覗くと意外にも沢山の人影があった。「中学生でも、申請書を出せば図書館の中に入れるから」とリサコが教えてくれた。図書館脇の通路をまっすぐに進むと中央の広場に出た。ベンチが広場を囲むように並んでいるが誰もいない。広場の奥にある喫煙所には人影が見えた。広場の南側の建物にリサコは扉を押して入っていく。「ああ、涼しいっ」
その建物に入って左手に事務所があり、右手の方にはラウンジがあった。そこでは何組かの学生たちがテーブルを囲んでいた。その横の通路をリサコはまっすぐに進んだ。途中にあった階段を上るでもなくひたすら進み、結局再び建物の外に出る。外に出て斜め向かいにまた別の、比較的小さめで古さを感じさせる建物の入り口が見えた。リサコは慣れた足取りでその建物の中に入った。建物の影で精悍な顔付きの掃除のおじさんが落ち葉を箒で集めていた。
「先生の研究室はここ、双心館の四階よ」
リサコはエレベータのボタンを押した。すぐに扉が開き、ユウリとリサコはエレベータの中に入る。小さいエレベータだ。作りも古い。鏡の右上は蜘蛛の巣が張ったようにひび割れている。
「どう?」リサコが聞いてくる。
「どうって、何がですか?」
「大学は、どう?」
「別に、」ユウリは感想が纏まらなかった。色んなことを思っていたから。「でも、なんだか、次の場所に来たみたい」
「なんだそりゃ」リサコがクスリと笑った。
ピンポンと音がしてエレベータの扉が開く。四階に着いた。リサコが先に出て廊下を進む。ユウリはリサコを追いかける。左手に扉が並んでいる。その反対側に外の明かりを入れる窓がある。廊下の蛍光灯は全て消えているんだけれど、太陽は強い照明だったから、視界は明るくて、明る過ぎてこの世界は幻に見えた。
リサコは五番目の扉の前で立ち止まった。
「四○五、覚えておいて、」リサコはユウリに言って扉を強くノックする。「せんせー、帰ってますかー?」
「帰ってないわよぉ」
返事がすぐにした。コウヘイの声じゃなくて女の声だった。扉がガチャリと開き、その声の主が顔を覗かせた。「会議、長引いてるみたい」
建物の中は冷房が効いていて汗は引いていたのにユウリの全身からは再び汗が噴き出した。
だってコウヘイの研究室にいた女って。
向こうもユウリの存在に気付いたようだ。おそらく多分、ユウリと同じ表情をしている。
ユウリは視線を反らせなかった。向こうもきっとそれは同じだろう。
「え、ん、どうしたの?」異変に気付いた様子のリサコは二人のことを交互に見る。「え、まさか、知り合い? レイカ、國丸君のこと知ってた?」
そう。
間違いない。
ピンク・ベル・キャブズで働くお嬢さん。ユウリの初めての人。そしてユウリからお金を盗んで消えた女。
レイカ。
彼女が手を伸ばせば届く距離にいる。
「……う、ううん、全然、」レイカは笑って首を横に振った。「知らない、知らない、うん、ちょっと知り合いに似てて、あははっ」
「はい、私も、」ユウリもとにかく、口を合わせて笑った。「ちょっと知り合いに似ていたものですから、びっくりしちゃって、んふふっ、あはははっ」
笑いが止まらなかった。
本当に。
なんて。
凄い。
偶然?
いや、もう。
なんだか、もう。
天体史の気分じゃなくなった。
よく分からなくなった。
人生って一体、なんなのでしょうね?
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