ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー/三

 八月十五日は終戦記念日だって覚えた。

 ユウリは何十回目かの終戦記念日に武村コウヘイと会う約束をしていた。二人でスクリュウを見た以来の再会。それまでメールで、ユウリにしては頻繁に連絡を取り合っていたけれど、やはり会うというのは特別だ。ずっと会いたかった。毎日でも会いたかった。でも会えなかったのは条件があったからだ。

「天体史を勉強したいなら、まずとにかく天体史Bの教科書をすっかり覚えることだね、基礎を据えないと話にならないものだから、天体史研究はそこからだよね」

 コウヘイに直接天体史を教えてもらうにはひとまずすっかり天体史Bの教科書の内容を覚えなくちゃいけない。それがつまり、コウヘイと会うため、身近に、親密になるための条件だ。

 なのでユウリは天体史Bの教科書を購入して、その一ページ目から暗記を始めた。初めは所詮教科書、と思っていたのだが、その分厚さに比例して情報量も凄く多かった。中学生の教科書と全然違っていた。でもユウリは天体史に対して確かな興味があった。コウヘイの存在に関係なく天体史に惹かれていた。だから勉強はそれほど苦痛ではなかった。むしろ楽しんでいたと思う。情報量の多さは知的好奇心を掻き立てる。ユウリはコウヘイに天体史の勉強って楽しいってメールで伝えた。「え、本当に勉強してるの?」という返信が返ってきた。「なかなか珍しい少女だね」とコウヘイはユウリのことを評価してくれた。嬉しいって思ったのは変なことかな。

 とにかく八月十五日にユウリがコウヘイと会う約束を取り付けたのは天体史Bの教科書の暗記がほぼほぼ完了したからだ。条件を満たした。なのでコウヘイはユウリに天体史のことを教えてくれるはずだ。

 この日、ユウリはゼプテンバのコスロテはしなかった。以前とほぼ同じ、清楚なユキコ仕様で自宅を出た。コウヘイはマリエのことが好きみたいだけど、彼女と同じような格好をしたところで敗北は目に見えている。だったら純朴かつ精錬潔白、そしてあどけない少女というコンセプトで攻めようと思ったのだ。選んだシャツの色はパステルブルー。ネクタイは太めのギンガムチェック。純白のロングスカートに、コンバースのハイカットを合わせてみました。

 待ち合わせは正午、錦景市駅北改札を出てすぐのトリケラトプスのオブジェの前だった。錦景市の恋人たちが待ち合わせする場所ってほとんどここだった。

 ユウリは一時間前の午前十一時に錦景市駅に着いた。炎天下の中、自転車を漕いだせいで汗が噴き出していた。オブジェが中から見える冷房の効いたロウソンの店内に避難しユウリは雑誌を立ち読みしながらコウヘイがトリケラトプスの前に現れるのを待った。

 心臓が破裂しそうで雑誌の内容なんて頭に入らない。最初に彼にどんな顔を見せよう。ちゃんと話せるかしら。はしゃいだ方が可愛く見えるかな。あ、そうだ。死ぬほど暑いし、アイスとか、コーラとか買って渡したら喜んでくれるかな。

 そんな風に妄想していたらあっと言う間に約束の時間になった。ユウリは正午の五分前にロウソンを出た。アイスとコーラを二つずつ買って、それらが入ったビニル袋を両手に下げてトリケラトプスの前に立った。

 約束の時間になった。トリケラトプスの背中から突き出た細い支柱の天辺には時計があり、その長針と短針は重なり合っていた。

 まだコウヘイは姿を見せない。スマートフォンの画面を確認した。連絡は来ていない。少しだけ遅れるのだろう。コウヘイってそういうタイプの男だ。約束の時間に少しだけ遅れる男。そういうところも、素敵じゃないか。

 五分後。

 コウヘイはまだユウリの傍にいない。

 とっても暑い。

 アイス、溶けちゃうよ。

 ちょっと苛々し始めた。

 その時だった。

「國丸君?」

 後ろから声を掛けられた。

 振り返る。

 トリケラトプスのフリルの向こう側には。

「……誰?」ユウリは目を丸くして首を傾ける。

 見知らぬ若い女の姿があったから。

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