ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー/二

 ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー。

 それがブリッジン・フォ・ニュウのBサイドのタイトルだった。

 ユウリは割れてしまった花瓶と枯れかけの白い華を片付けフローリングの床を綺麗に拭いてから、そして洗面所に行き自分の酷く青ざめた顔を鏡の中で見て、元はで瓶だったガラスの破片で切った手を水で洗った。

 血は水に溶け鮮やかな赤をユウリに激しく見せて排水溝に吸い込まれていった。痛いのに傷に石鹸を擦り付けてユウリはしつこくゴシゴシと手を洗った。

 手がこんなに激しく傷だらけなのは、わざとガラスの破片を強く握ったりしたからだった。血が鮮やかに白い華弁の一枚を染め上げたから、もっと染料が必要ね、と思ってユウリはわざと傷付き血を流し、枯れかけの白い華を虐めるように染めた。その色にユウリはほのかに陶酔した。

 痛みがある。

 自分はこんなにも傷ついているんだ。

 辛いんだ。

 それは暗喩にユキコに伝えたいことでもある。

 つまりユウリの自傷には、ユキコヘの抵抗の意味がある。

 ユキコはずっと、ユウリの全体をまっすぐに見つめていた。その視線の中でユウリは、子供のようにいじけた。本当は涙を流したかったんだけれど、なかなかそれは難しかった。ユキコへの抵抗はいつもうまくいかなくて中途半端に終わる。

 とにかくユキコと一緒の空間にはいたくなかったからユウリは手を洗い終えると自室に引き籠もり鍵を掛けた。そしてステレオの電源を入れてブリッジン・フォ・ニュウのCDを回転させヘッドホンで耳を塞いだ。そしてベッドに体を横たえタオルケットにくるまり目を瞑った。

 ブリッジン・フォ・ニュウのファンシィでキディでロックンロールなメロディ。

 アプリコット・ゼプテンバの天使の歌声。

 炸裂する黒須ウタコの黒いギター。

 それにユウリは心を委ねる。

 悲劇を癒す。

 ユキコに怒られた。

 それは悲劇。

 悲劇を愉快でしょうがない状況だと思える気分にする。それは悲劇を喜劇に変えるということではなくて、ユウリを主人公とした悲劇を楽しんでニヤリとするということだ。

 ブリッジン・フォ・ニュウが終わると聞こえてくるのはロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー。

 その楽曲は失恋を謡ったスローテンポのバラードで、ボーカルはウタコだった。ウタコの声はゼプテンバに比べればしゃがれていて好き嫌いがハッキリ分かれる声。普段の彼女の声は愛らしいのに、歌つとなると彼女は無理に窮屈そうに自分を傷つけるようなしゃがれた声を出す。ウタコの声に心を貫く強さを感じる。しゃがれていてもどことなく麗らかで伸びがあって一度気に入ってしまったらその歌声って忘れられない。ゼプテンバが天使ならばウタコは堕天使。彼女が使用しているエレクトリック・ギターは黒いファルコン。黒いファルコンは彼女によく似合ってる。

 ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シーを聞きながらユウリはユキコのことを必然的考えてしまっていた。

 ユキコに怒られるのは苦手。両親に怒られるのは全然平気なユウリだったんだけれど、ユウリはユキコに怒られることを酷く恐れていた。

 ユキコって、本気で怒るから。

 記憶に残っている限りでは、最初にユキコに怒られたのは十年前、ユウリが五歳くらいの時だった。

 あの年の瀬が近い冬の日は、祖父の家で國丸の一族の集まりがあった。どういう理由で集まっていたのか覚えていないが、一日中ユウリの子守をしてくれていたのはユキコだった。

 そのときのユキコは十八歳で、纏っていたのは錦景女子のセーラ服だった。小さいユウリは十八歳のユキコのことが好きだった。

 優しくて綺麗な人。小さいユウリはユキコをそう評価していた。ユキコはユウリに沢山キスをしてくれた。母親が一切そういうことをしてくれなかったから、代わりにユウリはユキコに母性を感じていたんだと思う。小さいユウリは毎日ユキコに会いたがった。

 このときにユキコが怒った理由はマッチだった。大広間で騒ぐ大人たちから離れ、ユウリとユキコは仏間で遊んでいた。積み木に飽きて、プラレールにも飽きて、二人はお飯事をしていた。ユウリがお母さん役で、ユキコもお母さん役だった。ユウリはどうしてお母さんが二人いるの? おかしいよ、と言った。ユキコはおかしくなんてないわ。お母さんが二人でも別に変じゃないの。世界には色々な家族がいるんだから、と優しく諭すように言った。ユウリはその場で納得した。変じゃないんだ。幼稚園でのおままごとではいつもお父さんとお母さんだけど、変じゃないんだ。今度コナツちゃんとおままごとするときはお母さんとお母さんでやろうと思った。変じゃないんだから。

「ちょっとごめんね、」ユキコは立ち上がって仏間から出た。多分お手洗いに行ったんだろう。「すぐ戻ってくるから」

「うん」ユウリは頷きユキコの背中を見送った。

 ユキコが帰ってくるまで何をしようかなと思ってユウリはおもむろにプラレールの新幹線のスイッチを入れて走らせた。レールはユウリの周りを円形に囲んでいて、新幹線はそれの上を軽快に走る。

 別に何も面白くはなかった。

 だから小さなユウリは新幹線を蹴って脱線させた。

 自らが引き起こした事故に小さなユウリはニヤリと笑った。

 そしてふいに仏壇を見上げる。

 ろうそくの火が消えていることに気付いた。

 仏壇の引き出しにマッチがあることは知っていた。ユキコが火を点けるのをちゃんと見ていたからだ。

 小さなユウリは火を点けなくちゃいけないと思った。ユキコはマッチを擦って簡単に火を点けた。簡単に見えたからユウリは自分でも出来るだろうと思った。ユウリは引き出しを開けた。すぐにマッチは見つかった。マッチの箱を手にする。とても軽い。一本取り出し、ユキコがやっていたみたいにマッチの頭を箱の側面に擦り付けた。

 火は点かなかった。

 おかしいな。

 ユウリは何度もマッチの頭を箱の側面に擦り付けた。しかし一向に火は点かない。

 燃えない。

 どうしてだろう?

 どうして燃えないの?

 ユキコは簡単に火を点けたのに。

 小さなユウリが消えたろうそくを前に途方に暮れているとユキコが戻って来た。

 襖が開いた瞬間にユウリはユキコを見つめて言った。

「お姉ちゃん、火が点かないの」

「何してるの!」

 声よりも手の方が早かった。ユキコの手はユウリの手からマッチを引ったくり、ユウリの頭を手のひらで叩いた。

 凄く強い力で叩かれた。

 感じたことのない一撃。

 本気で叩かれたんだ。

 痛い。

 痛いよ。

 涙が出た。

 小さいユウリは五歳なのですぐに泣き喚いた。

 ユキコは泣きわめくユウリを叱り続けた。いかにマッチが危ないものかを恐い顔で説明した。ユウリは大好きなユキコヘが恐くて涙が止まらなかった。

 でもユキコが最後に優しくキスをして「私はユウリのことが大好きなんだよ」と笑ったからユウリの涙はなんとか止まった。キスに嬉しくなるのと同時にもう二度とユキコを怒らせてはいけないってユウリは思った。

 ユキコの前でふざけたことをしてはいけないんだ。

 だってユキコは本気で怒るから。

 しかしでも、ユキコはユウリにいつも優しいからそれは油断を誘発し、ユウリはその教訓を忘れて彼女の前でふざけたことをして、ユキコには何度も怒られて教訓を噛みしめることになった。悲劇は何度も繰り返される。

 そして今に繰り返されたばかり。

 ユウリはいつの間にか眠ってしまったようだ。

 はっと気付いた時にはすでに夕方のオレンジが窓の外の景色を染めていた。

 ヘッドホンはユウリの頭から外れていて、音楽は小さくそれから漏れていた。ブリッジン・フォ・ニュウのCDは一体ステレオの中で何回転しただろう。

 そして。

 ユウリは気付く。隣にユキコが目を瞑って横になっている。施錠したはずなのに、ユキコがユウリの部屋にいる。ユキコはユウリの部屋の合い鍵も作っていたようだ。ユウリは別に驚かなかった。想定内だ。全然、動揺なんてしていない。

 ユウリがユキコの顔を見つめていたら閉じていた二つの目はぱっと開いた。眠ってはいなかったようだ。見つめ合った。視線を外すのが面倒だったから。

「私はユウリのことが大好きなんだよ」

 ユキコはユウリにキスをする。怒った後はいつも、同じことをする。ユキコは繰り返すことに意味があると思っているようだ。確かに意味はあるだろう。リフレインはある場面では、確かに効果的だろう。しかしユウリはそれに飽きてしまっていた。キスの効果はユウリにもう、ほとんどない。新幹線のプラレールと一緒。

「ねぇ、ユウリ、」ユキコはユウリの前髪を触りながら言った。「私とする?」

 ユウリは微笑み首を小さく振った。「しない」

「そう」

「もうキスもしないで」

「ええ、分かった」

「あ、別にユキコのこと、嫌いになったわけじゃない」

「分かるわよ、」ユキコは目を細めてにっと笑った。「それくらい」


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