B-SIDE 咲いては枯れる、喩えとは、華(Lost,Scarlet Bloom Over Sea)

ロスト、スカーレット・ブルーム・オーバ・シー/一

 こんなそんなわけで國丸ユウリの中学三年生の夏は、武村コウヘイによってガラリとその色彩を、これまでの夏とは大幅に異なったものへと変えられてしまった。ユウリの夏の概略はほとんど受験勉強と天体史とコウヘイになった。こんな夏は予期せぬ不思議な季節だと、ユウリは思っていた。叔母の國丸ユキコも不審がる目でユウリのことを見た。高校受験を控えたユウリが高校の天体史Bの教科書を熱心に読んでいたら、叔母は当然そのような反応をするだろう。

「久しぶりねって、」ユキコは笑うでもなく、目を細めて首を傾けた。「……どうしたの、ユウリ?」

 七月の最終日の正午、薄いブルーの半袖のシャツにチェック柄のロングスカートという、いつもの風な出で立ちで登場したユキコは、自宅のリビングのテーブルに向かって黙々と天体史Bの教科書をノートに書き写しているユウリを見て不審そうに聞いてきた。「その教科書って、天体史Bって高校生のものじゃないの? どうしてそれで勉強しているのよ、ついに狂っちゃったの?」

「……むっ、」ユウリは勉強を邪魔されたこととナチュラルに「狂っちゃったの?」なんて聞かれたことに対しての腹立たしさを目に宿して、ユキコのことを睨み付けてやった。「狂ってなんていないけど、勉強しているだけなんだけど」

「そう、まあ、いいわ、」ユキコはユウリの向かいに座りテーブルの上にスーパーのビニル袋を乗せて言った。「アイス食べる?」

「うん」ユウリは頷き勉強を中断してビニル袋の中を漁った。

 ユウリはレディボーデンのバニラが好き。そのことをユキコは知っているからきちんとビニル袋の中にレディボーデンのバニラがあって、本当だったらお皿に移して食べるのが女の子らしいと思うんだけどとにかく大好きなので、ユウリは直接レディボーデンのバニラをスプーンで掬って食べ始めた。そう言えば朝から何も食べていなかったな、と思いながらご飯を食べるように黙々とユウリはバニラを食べた。優雅に口の中でバニラを溶かしてその味を楽しむ、ような食べ方をユウリはしない。

 ユキコは珈琲を淹れユウリの向かいで優雅に雑誌を読み始めた。ゴシップ記事ばかりの内容はお世辞にも優雅とは言えない週刊誌だ。それに視線を落としながらユキコは口を開く。「勉強の方は進んでいる?」

「まあまあ、」ユウリはそっけなく答えた。「前の模試の結果も悪くなかったし、A判定だったし、このままのペースでいいかなって」

「そう、」ユキコもそっけなく返事をした。「まあ、ユウリならね、当然か」

 そして。

 沈黙が流れた。会話がなくなった。まあ別に、珍しいことじゃないんだけれど、ユウリはこの状況がなぜか気になった。

 沈黙が気まずいなって思った。

 ユキコとの沈黙をこんな風に思ったことはなかった。

 どうしてだろう?

 分からない。

 ユウリはユキコの顔を盗み見た。

 普通。

 自分と同じ系統の顔はいつも通り。

 でも。

 どこかが普通じゃないみたい。

 何かが違うような気がする。

 不自然なような気がする。

 ユキコはふいに視線を上げてユウリを見る。

 目が合った。

 ユキコが何を考えているのかなんて分からないんだけど。

 ドキリとして体がビクッと後ろの方へと大きく震えた。

 殺気のようなほとばしるものを感じたんだ。

「ミチルのこと、」ユキコはニッコリと笑い紅色の唇をゆっくりと動かした。「ミチルのことは許してあげるけど、私、ユウリのことが心配だわ、狂っていないか心配なのよね、さてその心配の正体って、どうなんでしょう?」

 ユウリはレディボーデンを食べるのを止めて下を向いた。

 ユキコのことを怖いと思ったんだ。

 怒られると思った。

 怯えながら同時にミチルのことを恨んだ。

 燃え上がるように恨んだ。

 やっぱり話したんだ。

 この前の最低の出来事をミチルはユキコに話したんだ。

 最低だ。

 なんてことをしてくれたんだ。

 あのときのことがユキコに知られてしまっている。

 ユキコの振りをしてミチルを抱こうとしたことが知られてしまっている。

 恥ずかしくて、惨めで、とにかく最低で、それこそ気が狂いそうだった。

 口の中に残っているはずのバニラの甘さはもうない。

「……ど、どうなんでしょうって別に、」ユウリは一瞬で唾液が渇いてしまって引きつった喉を無理やり動かし言った。そして精一杯の虚勢を張るの。「狂っちゃいないし、あんなのただ、ただ、ただの遊びじゃないの、怒らないでよ」

「怒ってないよ、」ユキコは表情を変えずに言う。「別に私は怒っているわけじゃない」

「お、」ユウリの声は震えていた。「怒ってるくせに」

「そんなのことで怒らないって」

「怒ってるなら怒ってるって言えば!?」ユウリは恐怖に耐えられなくなって叫んでしまった。「卑劣だよ! そういうの! 一体どれだけ私のことを痛め付けたら気が済むのよ!?」

 瞬間。

 ユキコがさっきまで読んでいた週刊誌がユウリの顔の横を通り過ぎた。

 ユキコが投げたんだ。

 そしてユウリの背後ではガシャンと盛大な音がした。

 振り返ればガラスの破片と僅かな水分と枯れかけていた華が床に散っていた。

 週刊誌が電話横の花瓶に当たってこんな風になってしまったんだ。

「怒ってないよ」ユキコは静かに言って珈琲を飲んでいた。

「何してんだよ、莫迦っ」

 ユウリはそう、毒付きながらも、精一杯の虚勢を張りながらもしかし、指先はガラスの破片を拾っていた。

 花瓶の中にあった僅かな水に濡れた枯れかけの華を見ながら、今自分はこの華だと思えて途端に心は暗く惨めになった。

 ガラスの破片はユウリの指先をいとも容易く切って血液の逃げ道を作る。

 枯れかけの白い華、その華弁の一枚はその血に染まり、薄く滲んだように燃えていた。

 業火紅蓮少女ブラフ。

 咲いては枯れる、喩えとは、華。

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