ブリッジン・フォ・ニュウ/十二
マリエはユウリとコウヘイをカウンタの奥に案内した。いわゆる書院造の畳が八枚敷かれた和室で、その中央には楕円形の絨毯が敷かれていて長方形の木製のテーブルがあって二人はそこに腰掛けた。色即是空と書かれた掛け軸があり、その手前には白蓮が浮かぶ直径一メートルほどの巨大な金魚鉢があって、白勝ちの桜錦やキャリコや出目金などの様々な種類のゴールド・フィッシュが遊泳していた。ユウリはしばしゴールド・フィッシュの群衆に見惚れてしまった。とても煌めいて見えるから。
「珈琲でいいかしら?」マリエはユウリに尋ねた。
「あ、はい、」ユウリは視線をマリエに移し頷く。「えっと、ありがとうございます」
マリエは奥の襖を開けしばらくの時間姿を消した。台所がそちらにあるようだ。ユウリは席を立ち金魚鉢の前にしゃがみ金魚たちの観察を始めた。「ああ、可愛いなぁ」
「金魚が好きなの?」コウヘイはリュックの中からノートパソコンを取り出しテーブルの上に置き起動させた。
「今好きになりました、」ユウリは桜錦を目で追いながら言う。これは本心だった。好きな男の前で可愛い、可愛い、言って可愛い子ぶっているわけではない。ユウリは心から金魚のことを気に入ってしまったようだ。特にこの桜錦がいい。「金魚って、可愛いんですねぇ、知らなかったです」
「可愛いかな? 見ていて面白いとは思うけど」
「あ、先生、本当のことを教えて下さいよ、」ユウリは金魚鉢の前でしゃがんだまま首だけ動かしてコウヘイの方を見る。「マリエさんって、やっぱりゼプテンバ様ですよね?」
「まだ言ってるの?」コウヘイの横顔は笑った。視線はパソコンの画面に向いている。いつの間にか濃いブラウン色の眼鏡を掛けていて、それがとてもよく似合っていてユウリはキュンとなる。
「だって」
「よく見れば全然違うよ、それに彼女はギターを弾かない、バイオリンが得意みたいよ」
「……もぉ、いいです、」ユウリは片方の頬を膨らませて席に戻った。そしてコウヘイが見つめるパソコンの画面を見る。「先生、そろそろ教えて頂けませんか? 骨董屋さんのマリエさんにあって、何を調査しようというんですか?」
「あれ? 知りたかったの?」
「ええ、とても気になっています」
「黙っているから詩をずっと考えているんだと思って、僕は何も言わなかったんだけど、なんだ、知りたかったんだ、國丸君」
「ちょっと、こんな風景の場所に来てしまったら、それは知りたくなってしまいます、そういう気分になりますって、本能的に」
ユウリは席に戻りパソコンの画面を覗く。白紙のワードが展開されていていつでも文字を記録出来る状態になっている。彼のパソコンには色とりどりのステッカが貼られていてその中心のステッカはターゲットマークだった。
「マリエさんは以前ここであった爆発事故の当事者なんだ」
「え?」
「あの事故は錦景市史を編纂する上で不可欠な断層なんだ、それ以前とそれ以後と二分を要求されるほどの断層だったんだな、天体史すら揺るがすような、それほどのものだった、君も、それからこの世界に暮らすほとんどの人々はそのことを知らないし気付かなかったことだろうけどね、彼女は天体史の証人であるわけだ、唯一無二の天体史の断層を見つめていた、今でも見つめている人なんだ、僕はこの世界の天体史的唯物論者として彼女の言葉を記録しておく使命がある、僕の仕事なんだ、十年後にG大の天体史研究室はT大の先生たちと連名で錦景市史を出版することになっているんだけど、ぜひともその最後は彼女についての試論で飾りたいと思うんだ、もちろん同時代についての記述になってしまうから、いくら実務的にそれを行ったとしてもね、それゆえの盲目的偏向は免れないと思う、けれど僕はそれも未来に産まれる天体史的唯物論者の材料になることに期待しているんだ、信じているんだな、引き寄せて糸を編んでくれることを」
言い終えてそして、コウヘイはにっと笑う。
その笑顔は可愛いけれど、ユウリはちょっと戸惑った。彼が何の話をしているのか、全く意味不明だから。なんとなく、高尚な話をしているような気がするんだけど。断層とか、試論とか、実務的とか、天体史的唯物論者なんて言われても中学生三年生のユウリにはさっぱりなんだ。「……えっと、何の話をしているんですか?」
「お待たせ」
ユウリが首を水平に近い角度で傾けたタイミングでマリエが戻ってきて、珈琲カップを二人の前に置いた。マリエはカップにミルクとシュガーシロップを適量注ぎ入れ細いスプーンで掻き混ぜて黒を茶色に変えてくれた。彼女は自分の珈琲カップにはミルクもシュガーシロップも入れなかった。マリエは黒いままの純粋な珈琲を上品な感じで一口飲み、そのブルーな瞳をコウヘイに向ける。「さて、今日は何のお話をしましょうか?」
二人の対談によってこの場所の時間は流れて行った。予備知識のないユウリにはやっぱり理解不能意味不明の内容が繰り広げられていた。コウヘイはその内容のほとんどを打ち込んでいるようだった。彼のタイピングは物凄い速度で、機械みたいだった。彼はほとんど画面を見ていない。プロのギタリストみたいにたまにチラリと指の位置を確認する程度だ。高速でタイピングしながらもコウヘイは表情豊かにマリエと会話を交わし続けている。時折冗談を交え、時折口調に苛立ちにも似た熱を含みながら、そしてコウヘイは時折マリエに抱く強い愛情をユウリに感じさせながら、言葉を交換していた。
「やっぱり僕にはあなたが天使に見えます、僕はこの時代世界の風をあなたと見続けていたい」
ユウリはそんな風にマリエに言うコウヘイを、嫌だと思った。横にいるのに会話に一切入り込めない自分の無知が苦しかった。マリエに嫉妬している自分にユウリは気付いた。その気持ちは、どうやら本当にマリエはゼプテンバではないようだ、という風にユウリが思い始めてからどんどんと膨らんでいった。ゼプテンバはこんな風に話すだろうか。コウヘイが言うようによく見れば、顔付きも微細に違うように思えた。ユウリはゼプテンバ以外の摩訶不思議な外人とコウヘイが何かを話しているということが堪らなく不愉快だった。コウヘイのマリエに向けられた一方通行の愛は切ないと思った。ユウリ見る限り、それは一方通行だった。マリエはコウヘイの愛をさらりと躱しているようだった。流しているようだった。天使のように羽ばたいてするりと逃げているようだった。マリエの妖艶な眼差しには捉えどころがなく、コウヘイの強い視線は彼女を一度も射抜いていない。二人の関係はとても微妙だ、とユウリは思う。微妙であればこそ、切ないって思うし、コウヘイの愛をいじらしく思う。それは抱いて無駄な気持ちだって教えてあげたいと思う。その強い眼差しをこっちに向けてと思う。風を天使と見たいなら、自分のことを天使にすればいいとユウリは思う。ユウリはコウヘイの天使になってもいいと思っているんだから。
「あなたはどう思う?」
突然だった。マリエの視線がユウリの方に向けられた。
「え?」話の内容なんて頭に入ってなかったのでユウリは困った。「あ、えっと、その、すいません、よく分からなくて、私」
「そうよね、よく分からないわよね、」マリエは息を吐き微笑んだ。「その瞬間がいつかなんて分からないわよ、それまで私は自由に遊び歩いているつもりよ、いつでも引き出しを開けられるように準備してね」
そのマリエの台詞を最後に、コウヘイはノートパソコンを畳んだ。どうやらこれで、お開きみたい。緊張が緩み、和やかなムードが漂った。ユウリはほっと息を吐き、マリエの質問によく分からないなんて答えた自分が恥ずかしくなって少し落ち込んだ。
「マリエさん、今日もありがとうございました、」コウヘイはユウリの気持ちなんて知ることなく上機嫌そうに笑い、マリエに握手を求めている。「やっぱり刺激になる、ここのところ色々と停滞気味だったので」
「錦景市史の編纂は進んでいて?」マリエはコウヘイの手を軽く触り、微笑して頬杖付いて言う。
「中々、体系が掴めなくて苦戦中ですよ」
「断片的でいいんじゃないの? 体系的に、なんて、ある時代の流行だわ」
「しかし通史ですからね、一応それらしく仕立てないと認可が降りないでしょう? 役所も関わっているし、僕の独断で決められないことって多いんですよ、ほとんどの仕事は僕がやっているのにも関わらず、……まあ、いいんですけれどね、これだけの仕事を出来るチャンスなんて滅多にないことですから、ただ、ええ、不自由って不自由だな、と思う毎日ですよ、」コウヘイは不満を述べながら苦笑して、そして思い出したように言う。「ああ、そうだ、マリエさん、スクリュウのマケットのことなんですけど、僕、買いますよ」
「え、買うの?」マリエは僅かに驚いた目をする。「冗談じゃなかったんだ」
「お金が用意出来そうなので、まだありますよね?」
「ええ、もちろん、武村先生にしかスクリュウのマケットの話はしてないわよ」
「ああ、よかった、」コウヘイは大げさに胸を撫で下ろし子供っぽく笑った。「お金を工面してくれた友人に感謝しなくっちゃ」
「スクリュウ趣味もそこまでいくと病気だわね、」マリエはクスクスと笑う。「第一、どこに置くの? あんな大きいもの」
「研究室にギリギリ入るかな、認可が降りれば大学のどこかに展示したいと思っているんですけどね」
「まあ、ある種の芸術だけど」
「ええ、スクリュウは芸術作品ですよ」
「でもそれって少し、」マリエはそこで笑顔を消した。「狂気だわ」
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