ブリッジン・フォ・ニュウ/十一

 回転扉の向こうの光源は低い天井に吊るされた、傘を被った小さなオレンジ色の電球だけだった。白蓮が咲き乱れていた外とは雰囲気がまるで違う。匂いに甘さが消えて図書室に似ている匂いが鼻に付く。電球の下が骨董屋のカウンタのようだが、今はそこに誰の姿もなかった。目を凝らせば奥に座敷のようなスペースが見える。コウヘイはそのスペースに向かって「マリエさん」と、おそらくこの骨董屋の店主であろう人物の名前を呼んでいた。しかし、マリエという人は姿を見せない。しんと奥の方は静まり返っていて物音一つしなかった。コウヘイは「マリエさん、こんにちは、いませんか?」とカウンタに手を付き、身を乗り出すようにして奥のスペースを覗き込みながら呼んでいた。「あれぇ、約束は今日だったはずだよなぁ」

 そんな風に困っているコウヘイを尻目に、ユウリは骨董屋の左右の四段の棚に並べられた骨董を観察していた。蜂蜜の瓶に、反りがほとんどない刀剣に、錆びついた指輪に、アンテナが捻じ曲がったCDラジカセに、イエロー・サブマリンのブリキのミニチュアに、使用用途不明の四角い機械などなどの、ガラクタが並んでいた。それらのガラクタには何らかの価値があるのかもしれないが、少なくともユウリが欲しい、と思うようなものはなかった。小さなイエロー・サブマリンのおもちゃはちょっと可愛いと思ったけれど。

「何か気に入ったものはあって?」

「わっ、」とユウリは急に耳元でした声に驚き、回転扉の方に目を向けるとそこには女性の姿があった。そしてその女性の姿に、ユウリはさらに驚嘆の声を上げた。「わっ! えっ!? 嘘!? どうして!?」

 ユウリはひっくり返ってしまいそうな程に驚いていた。

 だって。

 だって!

「なんでゼプテンバ様がここに!?」

 そうなのだ。

 回転扉を背にしてユウリの眼前に立つ女性は紛れもなく、コレクチブ・ロウテイションのギタリストのアプリコット・ゼプテンバだったからだ。英国淑女の微笑みを浮かべる、その綺麗な顔をユウリが見間違えるわけがない。腰までまっすぐに伸びて毛先がわずかに内側にウェーブしている金色の髪、自ら光を放つように強く煌めくブルーの双眸、その麗らかで透き通った声は大天使ゼプテンバ様以外の誰も保有することの許されていないスペシャルな持ち物だ。そして彼女をゼプテンバだとさらに証明するものとして、その頭に乗ったカバの帽子があった。そのニットの帽子はカバの頭部が人の頭にかぶりつくような具合にデザインされているもので、そのユニークな帽子を被るゼプテンバの横顔というのはコレクチブ・ロウテイションのブリッジン・フォ・ニュウの裏ジャケットになっている。だからつまり、目の前に凛と佇む女性は紛れもなくゼプテンバであり、天使なのだ。

 ユウリは口元を手で抑えたまま、その場で固まってしまった。

 まさかこんなところで会えるなんて。

 コレクチブ・ロウテイションのライブには何度も行っているけれど、こんなに近くでゼプテンバ様のご尊顔を拝見出来たことってない。

 ユウリは感動で震えて声も出ない。

 そして嬉しさに泣きそうになった。

 泣きそうになったのだけれどでも。

「違うわよ、」彼女の口元は非情にもそう言った。「私はマリエ、でもよく間違われるのよ、あの娘にね」

「え、え!?」ユウリは信じられない。ゼプテンバは憧れの人。だから間違えるわけがないんだ。ユウリは彼女にぐっと顔を近づけて主張する。彼女からは白蓮の、あの甘い匂いがした。「そんなわけないですっ! あなたはゼプテンバ様ですっ! 嘘付かないで下さいっ! ゼプテンバ様ですよね!? えっと、サイン! サイン下さい! あ、それから握手して下さい! あの、私、ゼプテンバ様のことが凄く好きで! ファンで! 大ファンで!」

「ちょっと、ねぇ、お願いだから落ち着いてよ、」彼女は優しく微笑んでユウリとは対照的に悠長な声で言った。「まあ、分からないでもないわ、あなたがそう言うのも、だってそっくりだものね、あの娘と私」

「ご、誤魔化さないで下さい!」ユウリは声を張り上げる。「あなたはゼプテンバ様です!」

「だから違うのよ、残念だけど、ごめんね」

「いいえ、あなたはゼプテンバ様ですっ!」ユウリはなかなか彼女がそうと認めないから腹が立ってきて地団太、というものを踏んでしまった。おそらく人生初の地団太だ。「そ、その証拠に、そのカバの帽子!」

「帽子?」彼女は首を傾けてカバの帽子を触った。「この帽子がなんなの?」

「だから惚けないで下さいよ、ブリッジン・フォ・ニュウの裏ジャケットはその帽子を被ったゼプテンバ様じゃありませんか!」

「ああ、だから、」とユウリが言ったことに対して彼女は何かに納得した風に頷いている。「だからマルガリータは、何か企む目をしていたのね、なるほど」

「え、なんですか?」

「このカバの帽子は友達のプレゼントなのよ、きっとあの娘が被っているのを見て、私にも被らせようとしたのね、なんだ、結構気に入っていたのに、柔らかくてフィットするから、でもそうと知ったらもう被れないわね、あの娘と同じ帽子なんて被れないわ、恥ずかしくって」

「またそんなことを言って!」ユウリは「むきーっ」となっていた。「いい加減認めて下さい! お願いです! ゼプテンバ様、私の前で隠し事はなさらないで!」

「まあ、あなたがそう思いたいなら、」彼女はクスクスと口元に指を当てて優雅に笑う。「どうぞご自由に私のことをあの娘と思ってもらって結構、なんなら、私はあなたの前ではあの娘を演じてあげてもよろしくってよ、ああ、それも楽しいことかもしれないわね、んふふっ」

「せ、先生!」ユウリは振り返り、コウヘイをまっすぐに見た。「この方はゼプテンバ様ですよね!? そうですよね!?」

「いや、國丸君、その方はマリエさんだよ、」コウヘイは興奮真っ只中のユウリと打って変わってさらりと、ロウテンション気味で言った。「骨董屋のマリエさんだ」

「嘘だっ!」ユウリはコウヘイを睨んで金切り声を出した。「先生まで私を騙そうとして! 酷いっ!」

「いや、嘘付くことでもないでしょうに、その人はマリエさんで、その、マリエさんなんだから」コウヘイは諭すようにユウリ言った。その口調にユウリを騙すような不穏なリズムはなかった。でもコウヘイはユウリよりも一回り大人だから、ユウリに嘘を付くくらい簡単なことなのかもしれない。だからユウリの疑いは、消えない。

「そうよ、私はマリエさんなんだから」彼女は笑顔で言う。その笑顔も自然で、ユウリを騙すような気配は微塵も感じられないが、しかしだって、自分のことをマリエだと言い張る人はゼプテンバ以外の人に見えないから、ユウリの疑いは、消えないんだ。

「絶対嘘です」ユウリは口を尖らせる。どうしたってゼプテンバなんだから。

「ああ、それじゃあ、この話はどうしたら終わるの?」彼女は眉を軽く潜め少し困った風に声を上げた。

「本当のことを言ってくれれば」

「本当のことはすでに言っているんだけど、じゃあ、そうね、」彼女は人差し指を立てて口元を滑らかに動かし言った。「ええ、私はあの娘よ、私はアプリコット・ゼプテンバ、あなたの言う通りのロックンローラ、でもここでは私は骨董屋のマリエよ、マリエ・クレイルと言います、よろしければあなた、私のことはマリエと呼んで、お願いね」

「そ、そういうんじゃなくって」

「何よ、認めたわよ、」彼女は優しく、そして魅力的に睨んでくる。その眼差しはライブで何度か目撃したことがあった。「認めたのだから、この話はもうお終い、お終いにしてくれなかったらあなたの大好きなゼプテンバはあなたのことを嫌いになります、それでもいいの?」

「それは、」ユウリはもちろん、絶対にゼプテンバには嫌われたくない。だからもう、黙るしかないじゃないか。「嫌です、嫌、嫌なので、ごめんなさい、終わりにします、もう、そういうことは言いません、ゼプテンバ様が嫌がること」

「うん、それでいい、マリエよ、」とゼプテンバに凄く似ているマリエは手を差し出してきた。「よろしくね、あなたは?」

「ユウリです、國丸ユウリ、」ユウリは少し不服だったが、マリエと握手が出来たので幸せな気分になって、笑うことが出来た。この手を離したくはないと思った。自然と握る力が強くなった。「あの、よろしくお願いします」

「ちょっと痛い」マリエは苦笑して言った。

「あ、ごめんなさい」ユウリは慌てて手を離す。

「んふふっ、」マリエはユウリの、おそらくピンク色の顔をじっと見て笑ってカバの帽子を取ってユウリの頭に乗せた。「これ記念にあげるわ」

「え、」ユウリは目を丸くする。「本当に? いいんですか?」

「いらない?」

「ううん、」ユウリは頭に乗ったカバの帽子を両手で押さえて勢いよく首を横に振った。「いります、欲しい、欲しくないわけがありません、だ、だって、ブリッジン・フォ・ニュウの裏ジャケットの帽子ですものっ!」

「いや、まあ、厳密に言えば違うんだけど、んふふっ、」マリエは笑ってカバの帽子の上からユウリの頭を優しく撫でてくれた。「まあ、いいか」

 ユウリは幸せ過ぎて倒れそうだった。

 憧れの天使が傍に立っていて。

 その天使が頭を撫でてくれてるんだぜ。

 倒れそうにならなかったら憧れなんて嘘だと思う。

 すなわちユウリの憧れって、疑い得ない本物なのです。

 そんな風に幸せなユウリの横にコウヘイは並び彼女に会釈した。「マリエさん、どうも、ご無沙汰しています」

「お久しぶりですね、武村先生、」マリエは顎だけ軽く引いてコウヘイに視線をやる。「前お会いした時は冬でしたかしら?」

「ええ、二月でした」

「雪が降っていたわね」

「ええ、とても寒い日でした」

「このユウリという娘は武村先生の、その、何です?」

「いや、國丸君とは朝会ったばかりで、まあ、色々とありまして一緒にここに来させてもらったんですが、別に僕の何でもないんですけれど、國丸君は詩人ですよ」

「へぇ、あなた、詩人なの?」

「あ、はい、そうなんです、いや、正しくは詩人というか、曲の詞を書いているだけなんですけど、えへへっ、」ユウリは笑顔を作って頷き、マリエから視線を逸らし言う。「わ、私も久納さんみたいに、」久納、というのはコレクチブ・ロウテイションのベースの久納ユリカのことで彼女がほとんどの曲の歌詞を書いている。「素敵な詞を書けるようになりたいって思ってるんです」

「そう、」マリエはニッコリと笑い、そしてカバの帽子からこぼれるユウリの髪の毛に指を入れて小さく言った。「てっきり魔女かと思ったけれど、詩人なのね」

「魔女?」

「ううん、別に、」マリエは首を横に振って金色の髪を揺らす。「なんでもないわよ」

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