ブリッジン・フォ・ニュウ/十

 錦景山駅の一つしかない改札を抜けるとすぐにケーブルカー乗り場があって、錦景山の登山コースの始まりに行くためにはそれに乗らなくては行けないようだった。錦景山駅で下車した乗客は皆、連なるようにして紫色が素敵なケーブルカーに乗り込んでいく。登山客と思われる中高年の人たちがほとんどで、その中にバズーカみたいな望遠レンズを備えたカメラをぶら下げたフォトグラファの姿や女子大生のグループが混じっていた。ユウリとコウヘイの二人はケーブルカーの後方の席に座った。係員が外で乗り遅れた人がいないか「次は三十分後ですよぉ、もう乗られる方いませんねぇ、出発しますよぉ」ってな具合に悠長に確認している。しばらくしてアナウンスがあり、扉がガタンと閉まりケーブルカーは急斜面を登り始めた。

 ちょっとしたアトラクションだと思った。スローなジェットコースターという感じ。ユウリは「わっ、結構早いんだねぇ」とはしゃいでしまった。コウヘイはユウリに哀憐の眼差しを向けてから、窓の方に視線を移した。窓の外には森羅万象とも言うべき錦景山の風景が広がっていた。遠くに錦景市の風景も眺望出来る。自然って綺麗なものなんだと初めて気付いたユウリは、ちょっと感動していた。

 ケーブルカーで登った先にはバスのロータリィがあった。ロータリィというか、駐車場、と呼んだ方が的確だろう。錦景市駅前のものと比べれば、当然だが、バスの数が全然違う。どこかのんびりしているな、と思った。ここに集う人々も、それから太陽も向日葵も。ここから四つのルートに分かれてバスが出ているようで時刻表を確認すれば意外とバスの往来は頻繁にあることが分かる。錦景山はユウリが思っていたよりも観光地として栄えているみたい。ユウリはコウヘイと一緒にちょうど三分後に出る四番のバスに乗り込んだ。

「せっかくだし國丸君が、」どうやらコウヘイはユウリのことを國丸君と呼ぶことで決定したようだ。國丸君と君付けで呼ばれるのは初めてだ。なんだか、特別だわ、と思う。「行きたいところに行ってもいいけど、詞を書くに相応しい場所に」

「先生についていきます、錦景山のこと全然知らないし、」ユウリはコウヘイのことを先生と呼ぶことで決定していた。G大の天体史の講師をしている人だから先生で呼ぶのはおかしくないし、ここに来るまでの会話で彼がかなりの博学だということが分かったから、ユウリは敬意を込めてコウヘイのことをいつの間にか先生と呼んでいたんだ。先生、と呼んでいれば、それが一番コウヘイを呼ぶのに相応しいものだと思えた。「先生に付いていきますよ」

 四番のバスの終点がコウヘイが目指す場所だ。終点までおよそ二十分、バスはその車体には少し窮屈に思える細い山道を大きく蛇行しながら器用に走った。ガードレールの向こう側は崖で、その下には翡翠色を蓄えた湖が見えた。恐竜が湖面から顔を出してもきっと不思議だって思わない、そんな雰囲気の湖が山の隙間に溜まっている。

 終点は「塔の遊園前」。

 塔の遊園、という場所がコウヘイの目的地だった。ここで下車したのは三人。先ほどケーブルカーでも姿を見たフォトグラファと、ユウリとコウヘイの三人。バスが来た道を引き返してしまえば、あらゆる工学的な音色は消えた。

 視界、緑色がほとんどの景色の先、その上空を見上げれば、ストレート・ブルーの空を貫くようにそびえ立つ塔の姿をユウリは確認することが出来る。

 塔の高さは七十メートル。かつては綺麗な白だったであろう外壁はくすみ、灰色へと近くなっていた。その灰色の外壁には亀裂が走り血管が浮き出ているように見える。その亀裂には植物の緑色と茶色が寄生していた。あれが錦景山の自然の中心なんじゃないか。圧倒的に巨大で自然界の中にあって異物な塔を見上げながらユウリは思った。その塔が錦景山の源泉なのではないかと。しかし塔の頂き、その先端にある、今は動きをピタリと止めている四枚のプロペラを見れば、否応なくあの塔が人工物であると気付かせる。自然界にはない、回転を想起させるものだからだ。

 塔の名前はスクリュウと言う。

 G県に生まれた人間ならスクリュウの存在を知らないものはいないだろう。正確にはあの塔は塔ではない。スクリュウはただのモニュメントではなくて、その存在理由はかつて、発電所だった。四枚のプロペラは地球史を前進させる、というコンセプトによって取り付けられた醜悪なデザインに過ぎない。今ではその醜悪なデザインを含めスクリュウはただの錦景山のモニュメントとなってしまった。過去にスクリュウでは大規模な爆発事故があった。その事故以来、次世代発電所と銘打って推進されていたスクリュウ・プロジェクトは完全に凍結されてしまった。そしていつしかスクリュウ周辺、開発の手が入った場所には「塔の遊園」という名前が与えられ四番のバスの終点になった。

 二人よりも先に下車したフォトグラファは淀みない足取りでバス停の裏手にある小さな鳥居を潜り森の中に入っていった。フォトグラファの姿はすぐに森の暗さに消えた。その小さな鳥居が遊園の入り口で、その先には舗装された道が細く伸びていてスクリュウまで続いているみたいだ。簡単な案内地図が描かれた掲示板が鳥居の斜め手前に設置されていた。

 ユウリとコウヘイもその小さな鳥居を潜った。鳥居は鮮やかな朱色。それを潜ってしまえば聖域に足を踏み入れた、という気分になる。森の中は鳥の声でうるさい。

 森の中を二人は奥へ進んだ。

 二人は黙って進んだ。天を覆い隠すほど茂った圧倒的な緑色に呑み込まれて、まさにその体内にいるような感じで、無用の声を発することはどことなく躊躇われた。

 コウヘイは目指す方に向かって、と言っても道は一本しかないが、迷いなく力強く歩いている。

 一方、ユウリはコウヘイの手に引かれるまま、森を見回しながら、どこかこの空間が世界から隔絶、あるいは疎外されているような寂しさを感じながらとぼとぼと歩いていた。

 十分ほど歩いた頃だろうか。先にぼんやりと白く光っている点が見えた。それは近づくうちに徐々に大きくなり、そこがこの道の出口だと分かった。

 その地点に立てば、急に視界が開けて眩しくて、ユウリは目を細めた。

 ここが塔の遊園の中心。スクリュウがそびえ立つ場所だ。

 首をぐっと後ろに傾けてスクリュウを間近で見上げれば「でっかっ!」とそのスケールに圧倒されて自然と口が動いた。「……それに、眩しい」

 この場所がとてつもなく明るく感じたのは高く生い茂った緑がなく直接太陽の光が急な角度で射し込んでいるから、という理由だけではなかった。七十メートルのスクリュウの周囲には白い花々が咲き乱れていた。白さが沸いて溢れてしまいそう、という風に、豊穣に咲き乱れているんだ。こういう景色がおそらく、繚乱というものなのだろう。

「白い蓮華、白蓮だよ、」ユウリの隣に並び立つコウヘイは教えてくれた。「白蓮だけど少し違う」

「少し違う?」

「匂いが違う、かなり濃いんだ、」コウヘイは言って白蓮が咲き乱れる方に向かって歩き出した。コウヘイは躊躇いもなく白蓮を踏み、ざくざく、という具合にスクリュウに向かって進む。白蓮は地面を見せないほどの密度で咲いていて足の踏み場がないんだ。スクリュウに近づくために整備された道は周囲を見回す限りなさそうだ。「この匂いに酔わないように」

「酔うんですか?」

「酔うんだよ」

「あ、待って、先生」ユウリも白蓮を踏み、コウヘイの後に続いた。花を踏むのには抵抗があったが、でも踏まなくっちゃどうしようもないから心で白蓮に謝りながらユウリは歩いた。

 確かに白蓮の匂いは濃かった。

 むせてしまいそうなくらい濃い。

 ユウリは一度咳き込んだ。

 アルコールのように刺激的な匂いじゃない。ラベンダやバラのように気品漂う香りではない。甘い。ただただ甘いんだ。甘いから警戒はしなかった。甘いから危険さなんて微塵も感じない。気付けばユウリは全てを委ねるように、その甘さを吸い込んでいる。甘さに包まれて溶けてしまいそうだと思う。足はしっかりと歩いている。手はちゃんとコウヘイの手を掴んでいる。しかし脳ミソはなんだか、ぼんやりしている。

 ああ、酔っぱらっているんだわ。

 いけない。

 コウヘイの抑揚のない冗談だと思ったのに酔うというのは事実だったみたい。花の匂いに酔うなんてないと思っていたから、こんな風に簡単に酔っぱらってしまったんだ。

 いけないな。

 ユウリは首を振って酔いを飛ばそうとした。瞼が重いので、ぎゅっと力を入れて目を瞑った。

 そのタイミングでコウヘイは立ち止まった。

 ユウリはコウヘイの背中にぶつかって目を開けた。

 二人の前には回転扉があった。

 磨り硝子の回転扉だ。

「骨董屋だ」コウヘイは回転扉を見つめながら言う。

「骨董屋?」

 回転扉を持つ、そのほのかに臙脂色の、小さな建物はスクリュウの根元の傍にあった。一階建ての高さのない煉瓦建築で屋根の三角形の角度に鋭さはなかった。骨董屋を示すような看板は見当たらないが、硝子の回転扉の右隣にはショーウインドがあって、紫色の髪を持った古びた西洋人形と、それからひび割れ時間を止めた、さながら学校の教室の黒板横にあるようなシンプルなアナログ時計がディスプレイされていた。しかし売り物にはどうしたって見えない。遺品、というワードがユウリの脳ミソに浮かんだ。それにしたって、こんなところに骨董屋があるなんて意味が分からない。ましてこんなところに来て一体、コウヘイは何を調査しようというのだろうか。

 コウヘイは回転扉を押して中に吸い込まれるように入って姿を消した。回転扉の向こう側は暗く、磨りガラス越しなので余計、何も見えなかった。

 ユウリは少し躊躇った。回転扉の向こうに行くのが怖いと思った。自分でもどうしてそう思ったのか、分からない。けれど、白蓮の中に一人、というのも何やら怖く、「國丸君、来ないの?」というコウヘイの声にユウリは意を決し、回転扉を押して中に入った。

 回転扉ってちょっと怖いものなのね。

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