ブリッジン・フォ・ニュウ/九

 ユウリの心と体の分離、そこからの跳躍を、まさに寸前で失敗させた男は武村コウヘイという名前だった。歳は二十七。ユウリとはちょうど一回り離れていることになる。だから干支は兎。G大で天体史学の講師をしていて、今日は始発で調査に行く予定だった。

 と、そこまでユウリはコウヘイから、錦景市駅の次の駅に電車が着くまでに聞き出していた。始発の次の電車にユウリとコウヘイは乗っていた。二人は座席に微妙な隙間を開けて座っている。

 ユウリはコウヘイに先ほどは貧血が急に来て倒れてしまったのだと嘘を付いた。自殺をしようと思っていた、とはもちろん言わなかった。事実を言えば駅員室に即連行されて強制的に帰宅させられるだろうし、運が悪ければ警察のお世話になるかもしれない。それに、コウヘイに自分のことを自殺をしようとしていた少女だと認識されたくはなかった。ユウリの心は、幸いにして抜け殻になったという感覚は今のところない、コウヘイという男を好意的に認識しているらしい。コウヘイに好かれたいと思っている。だからユウリはコナツみたいに、意味もなくニコニコしていた。心配されたくなくて自分は高校生だと嘘を付いた。コウヘイとしばらく一緒にいたいから、彼が調査に向かうという場所に「あ、偶然ですね、私もそこに行こうと思ってたんですよぉ」と高い声を出し手の平を合わせて嘘を付いた。

「へぇ、何しに錦景山に?」コウヘイの目的地は錦景山だった。「その格好で登山でもするの?」

「いえ、その、あの、なんていうか、」ユウリは必死で嘘を絞り出す。「あ、詩、詩です、詩を、書こうと思って、錦景山の雄大な自然に、インスパイアされよっかなって、えへへっ」

「へぇ、詩人なの?」コウヘイのユウリを見る目が変わった。その目にはどことなく、羨望が混じっていて嘘を付いている身としては、ちょっと辛い。

「いえ、その、詩と言っても、歌詞のことで、その、私バンド組んでて、その歌詞が、うーんと、なかなか部屋で考えていても思いつかなくってぇ」

「へぇ、バンド組んでるんだ、」コウヘイは爽やかに微笑んだ。「ボーカル?」

「はい、」ユウリは頷いた。もちろんユウリはバンドなんて組んでないしボーカルでもない。でも錦景女子に合格したらユウリはコレクチブ・ロウテイションがかつて在籍していた軽音楽部に入ってロックンローラになるつもりだから未来に予告すれば本当の話、といえなくなくもないわけでもなくもない。まあ、嘘ってことには変わりないんだけれど。「ボーカルとリードギター」

「なんていう名前?」

「え? あ、ユウリ、です、國丸ユウリ」

「バンドの名前は?」

「ああ、バンドの名前はね」と、これもバンドを組むなら、と以前から考えていたものをユウリは答えた。

「格好いいじゃない」

 ユウリは格好いいと自分のセンスを褒められたような気がして嬉しかった。男性に褒められて嬉しかった思い出なんてないのだけれど今は素直に嬉しいと感じた。虚構のバンドの名前なのだけれど、それでも嬉しい。レズビアンなのに嬉しいんだ。

 自分のことが不思議だった。

 どうして男性にこうも惹かれているのか、不思議でしょうがなかった。が、コウヘイと当たり障りのない会話をしながら冷静に分析すると、彼はユウリが今までの生涯で出会ったどの男性のタイプにも当てはまらない人間だ、ということが分かってきた。父親とも違う。親戚の男連中とも違う。学校の先生、クラスの男子にもコウヘイのようなタイプの男はいない。

 コウヘイは特別、格好いい、というわけじゃない。髪型も若干長めだが普通な感じだし、背も高くない。ファッションも普通でユニクロのスヌウピTシャツにジーパンという簡単なものだった。一見して、凄く普通の男なんだけど、どことなく女性的というか、中性的というのだろうか、なよなよしている、ということはないのだけれど、彼の笑顔には可愛い気があって、愛らしいってユウリは思った。それからコウヘイは白人みたいに肌の色が白い。ユウリも白い方だって思ってたんだけど、それよりも白くて、肌は二十七歳の男とは思えないほど綺麗だった。

 そうなんだ。コウヘイは綺麗なんだ。清潔感があって傍にいても嫌な匂い、男臭さみたいなものは一切しない。むしろ彼の首筋からはシャンプの香りが漂っていて、もっと傍に寄り添って座ってもいいとさえ思えるほどだった。

 コウヘイの綺麗さ加減がきっと、ユウリが彼に惹かれている要因なのだろう。

 ああ、こんな綺麗な男がこの世にはいたんだな。

 この男となら、一緒になってもいいな。

 そしてユウリは、もしかしたら自分はレズビアンではないのかもしれない、と思った。

 ただ今まで綺麗な男と会ったことがなかったから、恋の対象を少女と定めてしまっただけで、全ては自分の早合点だったのかもしれない。確かにユウリには多少なりともせっかちな部分があって、決断は早い方だ、だから男のことを愛せない自分のことを早々にレズビアンだと決めつけてしまった。それが間違いだったのだろう。好きなタイプの男との出会いがなかっただけでユウリはきちんと男を愛するという女の基本的な能力を確かに持っていたのだ。その理由に事実、ユウリはコウヘイに惹かれている。嘘を付いてまで彼と長い時間、一緒にいようと思っている。あわよくば、今日だけではなく、明日も、明後日も、その先も一緒にいたいと思うんだ。この気持ちは恋以外の何ものでもないでしょう?

 その気持ちは、恋心と言うべき感情は、コウヘイとたわいない言葉を交わすごとにどんどん膨張していった。聞けば、コウヘイもロックンロールに詳しいみたいでユウリが大好きなコレクチブ・ロウテイションのことも知っていた。

「ああ、よかったよね、新曲」

 という彼の言葉を聞いて、ユウリは自分の気持ちを分かってくれる男の存在に嬉しくなった。

 男の人に共感してもらえるのって、こんなに嬉しいものなの?

 そしてユウリは、コウヘイの前では普通の少女を演じていることに気付く。問題児じゃない、不良じゃない、レズビアンじゃない、歪んでいなくて精錬潔癖なピュアガールを演じている。ユウリの念頭には、ユウリの理想の少女であるコナツがいて、コナツだったらどんな風に笑うだろうって考えながら、普通の少女になってコウヘイと笑い合っていたんだ。

 自分じゃないみたい。

 しかしそれも自分だった。

 今に何かが変わったわけじゃないと思う。ただそういう自分もいた、というだけの話。

 そう思った。

 一度の乗り換えを経て、午前十時を少し回った頃に二人は終点の錦景山駅に着いた。

 標高高いこの駅は周りを濃い緑に囲まれている。錦景市よりもずっと涼しく空気は澄み、そして風景の色は濃い。極彩色の世界があった。

 自然に浸食されてしまっている駅のホームを改札に向かってユウリはコウヘイと並んで歩いた。

 優しい風が吹いてユウリの黒髪が揺れてフワリと広がった。

 ユウリは立ち止まり振り返って優しい風が吹いて来た方を見上げた。

 空の青の濃度は高い。

 そのストレート、とも形容すべきブルーにユウリは強烈に新しいものを感じた。

 ああ、これがきっと。

 ブリッジン・フォ・ニュウ。

「どうしたの?」コウヘイも少し行った先で立ち止まり振り返ってユウリの方を見た。

「ううん、」ユウリはすぐに返事をして、早足で再びコウヘイの横に並んだ。「何でもない、行こ」

 そしてユウリは自然に、コウヘイの腕に自分の腕を絡めた。その自然さはレイカに教わったものだ。コウヘイは拒絶しない。

 だから。

 ユウリは徹頭徹尾徹底的に、この男に甘えてやろうって思ったのです。

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