ブリッジン・フォ・ニュウ/八

 ユウリがはっと目を醒ましたのは午前四時ちょうどだった。枕元には備え付けのデジタル時計があって、それが起きて一つ大きな欠伸をしてぼんやりと周りを見回していたユウリの目に入ったのだ。三時間程度眠っていたことになる。熟睡したので、頭はすぐに冴えてくる。冴えた頭はすぐにレイカの姿を探した。彼女の体はホテルの巨大なベッドの上にはなかった。ユウリの傍にレイカはいなかった。ユウリはベッドの上に一人だった。

「……レイカさん?」

 不安になってユウリはベッドから出る。裸のままで浴室とトイレにレイカがいないか探した。いない。ベッドの上に戻る。大きな枕をどけてみた。そこに女の体が隠れられるわけがないのだけれど。

 まさか、レイカとセックスしたことは夢の出来事だったの?

 とは、ユウリは露ほども思わなかった。レイカの体の感触、重いキス、切なくなるほどの気持ちよさの余韻にユウリは確かに包まれているし、それは確かな記憶として脳ミソに滞留しているからだ。

 レイカは帰ってしまったのだろうか?

 だとしたら、酷い。あんまりだ。起こしてくれればよかったのに。朝にも、キスして欲しかった。朝にも、気持ちいいことをしたかった。それにまだ、ユウリはレイカから連絡先を聞いていなかった。ユウリはレイカとの人間関係を続けたかった。切実にそう思った。一晩だけの関係、というのはあまりにも残酷だ。女の体を知ってしまったら、少女は女の体に対する欲求を我慢出来なくなった。知らない前より、欲は激しく少女の理性を困らせる。

 置き手紙か何かレイカは残してくれていないだろうか、とユウリは枕元周辺を探したがそれらの類は何も見当たらない。残酷だ、と思った。しかし何人もの女性を相手にしているレイカにすれば、ユウリはその何人もの女性の一人でしかない。そのことを客観的に考えてみればセックス中に眠りこけてしまった未成年の不良少女に優しい置き手紙を書く義理などレイカにはないのだ。

 もしかすれば一人眠ってしまったユウリに対してレイカは怒ってしまったのかもしれない。折角相手にしてあげたのに眠るなんて最低、とそんな風にレイカは怒って、だから黙って帰ってしまったのかもしれない。そう思ってしまったらユウリは数時間前の自分を叱りつけてやりたい気分になった。「……ユウリのお莫迦、ああ、なんてもったいないことをぉ」

 とにかくユウリは顔を洗い服を着た。フレッドペリーのシャツとロングスカートを纏って仄かにユキコになる。もしかしたらレイカはロウソンに買い物に行っていて戻ってくるかもしれない、などと一抹の希望を抱きながらユウリは風圧の弱いドライアで髪をセットした。

 レイカは戻らない。

 ユウリはベッドの上でしばらくスマートフォンをいじった。ピンク・ベル・キャブズのレイカのページにアクセスして、彼女に思いを馳せながら戻ってきてくれることを願った。クリスチャンではないのだけれどユウリは目を瞑り胸の前で五指を組みレイカの帰還を祈った。

 錦景市は午前五時、レイカは戻らなかった。

 ユウリはクリスチャンのポーズを解き、天井の黄金色のシャンデリアを一瞥、いつまでもここにいても仕方がないと思って部屋を出る。二人で部屋を出たかったと心底思った。寂しいがしかし、レイカとの経験は一度きりだけのものになるかもしれないけれど、いいものだったな、とユウリは思うことにしてエレベータに乗り一階まで降りた。

 フロントにルームキィを返す際、延長料金を支払うことになった。延長料金は入った額と一緒の二千円だと受付に立つ大学生くらいの笑顔が気色悪い男は言った。ユウリは言われるままにルイ・ヴィトンの財布を開き「え?」と驚きながらもそれは顔に出さず一刻も早く気持ち悪い男の前から去りたかったユウリは一万円札を取り出し支払った。

 お釣りの八千円を受け取りユウリは男から逃げるようにホテルを出る。遠くに夜が僅かに残るものの外はすでに明るく、粘り着くように暑い。喉が渇いていた。ホテルの前の自販機でコーラを買い、炭酸の痛みに耐えながら、ユウリは一気に飲み干した。空き缶はホテルの壁に向かって叩きつけるように投げた。渇いた音が空しく響いた。

 ブーツの底でアスファルトを蹴ってユウリは歩き出す。自転車を停めている錦景市駅に向かう。夏の朝の錦景市の街を歩くのは初めてだ。

 二人で歩ければよかった。

 幸せな気持ちで。

 しかし今はそうじゃない。

 幸せじゃないんだ。

 ユウリはなかなか幸せじゃない、という事実を受け入れられない。

 が、幸せじゃないことははっきりしている。

 気分は最低最悪。

 レイカがいないから、じゃない。

 レイカがいなくて一人きりだから、というだけの理由じゃこんな風に最低最悪にはならないんだ。

 ユウリのルイ・ヴィトンの財布からレイカが一枚の一万円札を残してそれ以外の紙幣を盗んでいったからだ。

 レイカはお金を盗んだんだ。

 財布に一万円札しかない理由は、それ以外には考えられない。

 レイカはお金を抜き取りホテルから逃げた。

 ホテルに戻らない。ユウリの前にいないのは当然だ。

 レイカはユウリから金を盗んだんだから!

 残った一万円札はせめてもの憐れみか。

 延長料金を支払うことになるだろうからお金が綺麗さっぱりなかったら少女は困るだろう、というレイカのせめてもの配慮か。

 そんな配慮なんていらない。いや、確かに財布の中に一万円札があって、気持ちの悪いホテルの受付の男の前からすぐに消えることは出来たけれど。

 なんでしょう?

 この中途半端な未来って何?

 ユウリはレイカとキスしました。セックスしました。そして少し成長したような気になりました。レイカはずっと優しかったのです。だから眠る前のユウリの過去は凄く素敵な経験。

 しかしレイカの優しさが全てユウリから金を盗むためだとしたら、史上最低最悪だ……、いや、そこにレイカの憐憫の情が見えるから……、そう、ユウリにはレイカの全てを否定出来ない。嫌いになれない。もう二度と会いたいとは思わない。優しくキスしてくれたから。そうじゃなかったら、ユウリは単純に、簡単に、レイカを殺したいほど憎むことが出来るんだ。忘れられるんだ。嫌なことをするのなら徹底的に嫌なことをしてくれなくっちゃ、困るんだ。

 盗まれた一万円札が何枚あったか、ということはどうだっていい。

 お金なんてどうだっていいんだ。言ってくれれば、ユウリはレイカにいくらでも捧げたと思う。父親を脅してでもお金は用意したと思う。言ってくれれば今に、レイカがユウリのお金を盗んだという過去は消えたのに。その事実が、辛い。

 裏切られたんだ、という気持ちが強くユウリを襲う。と同時にユウリがレイカのことをいかに信じていたか、気に入っていたか、惚れてしまっていたのかが分かった。

 もう一度会いたい。

 会って話をして、お金のことを笑い話にして、もう一度一緒にベッドの上に横になっていちゃいちゃしたいってユウリは思う。

 でも。

 もう二度と会えないだろうな。

 ピンク・ベル・キャブズには二度と行けない。あんな風に怒鳴ってしまったから、恐くて行けない。そんな度胸はユウリにはない。

 レイカの連絡先も分からないし。

 自分の心と体に渦巻くレイカの余韻だけでは、彼女のことを探し出すことは土台、無理な話だろう。

 会いたいな。本当に会いたい。

 錦景市駅前のロータリィに着く頃にはレイカに会いたい、という気持ちだけがあって、裏切られた、ということに関する怒りは、ヒステリックは終わっていた。もう降参、白旗を振ります、ああ、こういうことってあるんだな、もう観念します、という塩梅だった。とにかく心は複雑にこんがらがってしまっていて、徐々に明るさを増す夏の錦景市は、ユウリの目には奇妙に歪んで捩じれて見えた。太陽は容赦なくユウリの露出した腕を焼く。

 ユウリは手を目元に翳し太陽がある方の夏空を見上げた。太陽は眩しく燃えてこの少女の体さえ燃やそうとしている。ギラギラした太陽は嫌い。しかしなんと極大な、エネルギアなのか、とユウリは圧倒される。

 あの天体がおそらく、多分きっと。

 全てなのだろう。

 私の全て。

 ユウリは自転車を停めている立体駐輪場には向かわずに駅構内に入り一駅分の切符を買った。北改札を通ってエスカレータに乗りホームに出てベンチにちょこんと腰掛けた。時刻表を眺めれば始発は十分後だった。ホームには数えるほどの人の姿しかない。

 遠くに行こうと思ったんだ。

 どこでもいい。

 どこでもいいから遠くに。

 どこに行こう?

 どこに行ったらこの心はどうにかなるだろう?

 心をどうにかしなくてはいけないと思った。

 自然に触れたり、スピリチュアルな場所に行ったり、美術館に行ったり、クリスチャンの振りをして教会に忍び込むのもいいかしら。宗教に染められたい気分にもなった。

 ユウリはスマートフォンで色々調べた。色々調べているうちに不思議と心は、ウキウキとはいかないまでも楽しくなってきた。ブリッジン・フォ・ニュウが聞きたくなって、いや聞くべきだ、聞きながら電車に乗って旅をするべきだ今日は、と反射的に思ってユウリはポケットの中からイヤホンが巻き付いたウォークマンを取り出した。イヤホンを両耳に指し、側面の再生ボタンを押す。

 けれど。

 ブリッジン・フォ・ニュウが聞こえない。

 音がしない。

 ウォークマンを確認すると画面は暗い。電池切れみたいだ。どうやら停止するのを忘れてしまっていて再生しっぱなしでいたみたい。だから電池切れ。従ってブリッジン・フォ・ニュウが聞こえない。ゼプテンバの声が聞こえない。天使の歌声が、聞こえないんだ。

 ユウリは天使と一緒に旅が出来なくなった。

 たったそれだけのことで、それが叶わなくなったから、ユウリは自分でも信じられないくらい、絶望的な気分になった。どうしてそれだけのことを許してくれないのか、と哀しく、手が震えた。

 音楽と旅、それらにユウリは心の解放と救済を期待したんだ。その期待は最初から裏切られた。始まる前に。そうだ、ユウリは電車にすら乗っていないのに。何も始まっていないのに。

 涙腺が開いた気配がした。

 しかしユウリは泣いてない。涙は出なかった。ユウリの心は今になってもう何にも期待しないようだ。裏切られるのなら期待しない方が懸命だと心が覚えてしまったようだ。

 だからユウリの体は涙を流さずに震えている。

 もう電車に乗って旅に出る気もなくなった。

 だからといって帰る気にもなれない。

 ユウリは目を瞑った。

 このまま消えてしまいたいと思った。

 消えてしまえばそれは、心の解放であり救済であり、心が本来的に志向する自由への跳躍なのではないのでしょうか?

 そんな風なことを一度、一瞬のうちに思えば、思ってしまったら。

 心は徐々に消滅へと向かって動き出した。

 消滅しなければ、それは堕落だ、とでも言うように脅迫的に。

 心は体との分離を始める。

 心は体から血を抜き、それをエネルギアに変換し、跳ぶ準備を始めたんだ。推し進める。もの凄い速度で、きちんと理性を介し、非常に合理的な正当性を持って、血があるうちに体を動かした。

 心を空に跳ばすために動かしたんだ。

 始発の電車が到着するというアナウンスが聞こえた。

 ユウリはベンチから立ち上がりゆっくりとつま先をホームの白線に合わせた。

 左から駅員さんが歩いてきてユウリの前を通過して右に行く。

 今日は、いや正しくは昨日だけど、終業式だったな。

 ちょうどいいじゃないか。終業式の後、これ以上のタイミングってないじゃないか。

 電車の音が遠くから聞こえてくる。

 さて心と体を切り離そう。

 まるでロケッタみたいね。

 体は使い捨てのブースタ。

 ブースタを切り離して心は宇宙を目指して跳ぶよ。

 電車の音が近くなる。

 そう言えば。

 叔母のユキコも自殺したことがあるらしい。それは本人から聞いた話。ユキコ以外からは聞いてない話だ。

 彼女が十五歳、高校生の頃、國丸本家の金魚が泳ぐ庭でユキコは手首を包丁で切って自殺したんだって。すぐに病院に運ばれたからユキコは死ななかったけど、でもそれから半年くらい精神病院に入院してたんだって。

 抜け殻になったんだって。

 その話を聞いたときは理解不能意味不明だったんだけれど。

 今なら分かる。

 心から切り離された体は、抜け殻に違いない。

 抜け殻になんてならないよ。

 きちんとエネルギアを燃やして跳んでやる。

 紅蓮の業火で。

 そうだ、業火だ。

 國丸家は業を背負っている。四民平等の時代が来るまで國丸家は武士の身分だった。古くは新田義貞、江戸時代は上州松平家に仕えた武士の一族だったようでそれゆえ、多くの人々を殺して来たのだと言う。その業は子孫であるユウリも背負わされている。背負わなければいけない道理なのだろう。

 業が深いんだ。

 生まれたときからそれは決まっていたことだ。宿命なのだ。

 だから。

 燃えろ。

 紅蓮の業火。

 電車の音が近い。

 もう来る。

 ユウリはホームの白線を踏んだ。

 体を少し前に傾ければ死ねると思う。

 後はタイミングだけだ。

 巧く跳ぼう。

 抜け殻にはなりたくないんだ。

 電車の顔が迫る。

 今!

 ユウリは体重を前に掛けた。

 跳べ!

 そのときだ。

 右腕が思い切り後ろに引っ張られた。

 右腕と体はどうしたって繋がっているのでユウリは尻餅を着く。

 お尻に走った鈍痛に顔が歪んだ。

 電車はユウリの目の前を横切りそして所定の位置で停まった。扉は何事もなかったかのようにユウリの目の前で開いた。

「大丈夫? 怪我はない?」

 後ろから声がして振り返ると男がいて、彼の右手はユウリの右手を強く握っていた。痛いくらいに強く握っているんだ。

「貧血? ふらふらしてたけど、ねぇ、本当に大丈夫?」

 大丈夫?

 本当に大丈夫かって?

 分からない。

 分かるわけがないじゃないか。

 死ねなかった。

 失敗だ。

 失敗して抜け殻だ。

 高校生のユキコと一緒。

 抜け殻になったんだ。

 抜け殻になった、……のかな?

 今が、抜け殻?

 心は消えた?

 今、心はどこに?

 どこにあるの?

 心臓はうるさいのだけれど。

 ああ、とにかく。

 理解不能意味不明!

 意味が分からない。

 分からないんだ。

 ユウリの瞳に涙が溢れている理由が!

 ああ!

 ああ!

 ああ!

 どうして泣いているのよ!?

 涙が溢れて止まらない。

 止まらないの!

 ユウリの自殺を失敗させた最低最悪の男の姿は涙が滲んでよく見えない。

 見えなかったのだけれど。

 繋がった右手だけは。

 熱いと分かる。

 熱い。

 熱過ぎる。

 燃えてるみたいに熱いんだ。

 空気のそよぎをちょうだい。

 だけどなぜか、冷ましたくはない熱だったの。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る