ブリッジン・フォ・ニュウ/六
「あなた、ユキちゃんじゃないでしょ?」
その台詞がミチルの口から突然飛び出したのはピンク・ベル・キャブズの店舗からホテルまで向かう途中にある横断歩道を渡った後だった。多分ミチルと出会って五分も経ってない。「お仕事の方はどうですかぁ?」とか、「あ、前言ってた化粧品のぉ」とか、「あの本読みましたよ、面白かった出すぅ」とか、ミチルとユキコの間にだけしか成立しないコミュニケーションをユキコを装って自然に行うのはやはり、気が動転してほとんど思考停止状態のユウリには到底不可能なことだった。ミチルにバレないようにユキコを貫くなんて土台無理な話だったのだ。というか、頭が一切回転しなかったために咄嗟にユキコの振りをしようと思った時点でユウリの敗北は決定していた。というか、ミチルを選んだ時点でもう最低最悪は未来に予告されていたんだ。
くそったれ、とユウリは心の中で毒付く。どうしてこんなに運が悪いんだって。
「ご、ごめんなさい、」歩道のガードレール脇でユウリはミチルに頭を下げて謝った。正直に事情を説明して謝ればなんとかなるってユウリは思って頭を下げた。きちんと謝ればユウリはミチルとエッチ出来るって思ったから、お辞儀の角度は凄く急だった。やはりここでもユウリの持ち前の楽観主義は発動されていて最低最悪絶望的な気分に襲われながらも、ユウリは自分の未来を暗く隠してる暗幕を揺らせば隙間が出来てそこから微かな光を見ることが出来るとどこかで思っていた。「ごめんなさい、じ、実はその、色々と事情があって、」
と、ユウリが事情を説明しようとしたその折り、ミチルは形のいい唇を動かし言った。「もしかして、あなたユキちゃんの姪の、ユウリちゃんじゃない?」
「え、」自分の名前を呼ばれユウリは頭の中がぐるぐるとなった。「な、な、な、なんで私のこと!?」
「そりゃあ、ユキちゃんから聞いているもの、色々とね、私に似た姪がいるってね、っていうか、ユキちゃんって自分のこととユウリちゃんの話しかしないし」
そんなことをあっけらかんと言うミチルの口調は横断歩道を渡りきるまでのそれとすっかり変貌していた。ユウリがユキコでないと分かった途端にそれまでの舌足らずなしゃべり方はどこへやら、しっかり者のお姉さんという風な具合にいやにはきはきとした口調に変化してしまった。ユウリは、ミチルは猫を被っていたんだ、とげんなりとして酷く飽き足りない気持ちになった。ミチルは作り物の天使なんだ。正直興醒めだ。でもおそらくユキコの前ではミチルはずっと猫を被って天使を演じているんだろうな。そんなことを思うと、自分が今この瞬間にまだ子供である、というどうしたって変えられっこない状況が憎くて仕方がなくなった。
どうしてこの今に私は十五歳なんだろうって。
「中学生なんだよね、今三年生だっけ?」
ユウリは無言で頷く。どうやらミチルにはユキコからユウリのかなりの情報が行き渡っているようだ。ユウリはユキコを恨んだ。認可もなしに勝手に人のことべらべらしゃべってんじゃねぇよ、蹴ってやる、次会ったとき絶対蹴ってやる、という風にユウリは心の中で怒鳴っていたんだけれど、ミチルの前なのでそれは隠してユウリはしおらしく頷いた。「はい、中三なんです」
「そっかぁ、」ミチルはふと物憂げな顔を作って息を漏らしにっと笑う。「いいね、若いね」
「いいでしょうか?」
「いいでしょうかって、」ミチルは自分の前髪を指で掬って額を見せた。ミチルの髪は綺麗に染められた金髪で彼女を艶やかに仕上げている。「若さって無条件に価値だと思うよ、えと、つまりね、残された時間が長いっていうかね」
「はあ」
「私ももう、二十二だしねぇ」
「え!?」ユウリはびっくりして声を上げた。「ミチルさん、二十二歳なんですか!?」
「うん、そうだよ、今年二十二、その反応はもっと若く見えるって意味にとってもいいのかな? 嬉しいよ、ありがとね」
「ち、違います、」ユウリは大きく首を振った。「そ、そうじゃなくて、ミチルさんのプロフィールには十八って、だからミチルさん、十八、じゃ、ないんですか?」
「え、まさか、ユウリちゃん、それを、信じてたの?」
「はい、だって、だって、だって、だってぇ」
「客寄せのために歳サバ読むに決まってるじゃないの、いや、別に私は実年齢のままでもいいんだけどね、でも店長がそういう方針だから、若い女が多い方が何かと都合がいい訳よ」
「でも四歳も、四歳もサバ読んでたら、お客さんに、怒られないんですか?」
「ユウリちゃんみたいな反応する人はほとんどいないよ、だってそういうものだもん、だいたいの娘は年齢三つ四つサバ読んでるし、普通のことなのよぉ」
「ああ、」十八歳のお姉さんとエッチ出来ると思っていたユウリは落胆した。と、同時に四つもサバを読むのはやっぱり詐欺だと思った。でもそれが普通だと言われれば、業界のことを知らない子供の自分の方が悪い気がしてただ納得して、心はもちろん納得していないんだけど、頷くことしか出来なかった。「ああ、そうなんです、かぁ」
「ユウリちゃんは十八歳のミチルが抱きたかったの?」
ミチルはガードレールに腰を乗せて首を傾げて言った。その仕草にユウリは大人の色香を感じた。十八歳には出せない雰囲気みたいなものが、それなのだろうか。まだ十五歳のユウリにはよく分からないことけれど。
「あ、いや、そんなことは、その、二十二歳のミチルさんでも、わ、私は、か、構いません、むしろ二十二歳のミチルさんを、わ、私は抱きたい、です」
「んふふっ、別に無理しなくていいって、」ミチルの笑顔は上品で素敵だった。「十五歳だもんね、そりゃあ、二十二歳よりは十八歳を抱きたいと思うでしょうね、私が十五歳でもそう思うって、っていうかさ、ユウリちゃんってホントにレズビアンだったんだね、ユキちゃんの冗談かと思ってたんだけど、お店に来たってことは本当なんだね、ああ、びっくりだぁ」
ユウリはなんて返したらいいか分からなくて、とりあえず笑顔を作ってミチルの胸に光る十字架のネックレスを見つめていた。
「中学生が真夜中に一人で出歩いてちゃ危ないよ」ミチルは自分の足下を見ながら言った。
「は、はい、ごめんなさい」
「ユウリちゃんみたいに可愛い娘が夜道を一人で歩いてたら、それこそ悪いレズビアンのお姉さんに襲われちゃうよ」
「か、可愛いだなんて」ユウリは少し照れる。
「だから早く帰りなさい、」ミチルはポケットから煙草を取り出しライタに火を灯して言う。「お店に払ったお金はちゃんと返してあげる、それにユキちゃんにも黙っといて上げるから、だからユウリちゃん、今日は帰りなさい」
「え、そんな、そんな、せっかく、」ユウリは悪く予想していた方に未来が進みそうで慌てる。「せっかく、ミチルさんに会いに来たのに、何もしないで帰るだなんて」
「受付でいくら払ったの?」そう聞くミチルの目は少し迫力があってなんだか恐かった。
だからユウリは素直に金額を答えてしまった。「一万六千円」
ミチルは煙草の煙を吐き、そして黄色の分厚い財布を開いて一万円札を二枚出してユウリの方に差し出した。ユウリがそれを手にしないからミチルはユウリの手を掴んでそれを握らせた。そして強い目をしてユウリをまっすぐに見て言う。「差額は気にしなくていいから、ユキちゃんに何度ご馳走になったか分からないし、じゃあ、これでさよならしましょ」
「い、嫌ですっ、」ユウリは語気強く言った。「嫌、このまま帰るなんて嫌です、ミチルさん、お願い、お願いですから、私と、」
「性欲が有り余った十五歳女子、しかしレズビアンゆえ抱ける相手ってなかなか見つからない、初恋の相手は普通の人、普通に男の人と付き合ってる、ああ悲しい、ああ寂しい、辛い、辛過ぎる、どうして神様は私をこんな体に産んだのか、それを呪った、とにかくこのやるせない気持ちをどうにかしたい、お金を払ってでも誰かに慰めてもらいたい、」ミチルは早口で一気に言って、そして煙草の煙を大きく吐いて小さな雲をユウリの眼前に作って笑う。「私はそれで後悔したよ、初めての人がいい人じゃなかった、っていうことじゃなくってね、最初がそうだったから、私は恋の仕方が分からないまま今まで来ちゃったの、ユウリちゃんにはちょっと分かりづらいことかもしれないけど、とにかくね、ユウリちゃんにはもっとよく冷静に考えて欲しいわけだ、冷静になれる時間はいくらでもあるでしょ? 十八歳になるまで考えて、色々と考えるのよ、考えなくっちゃ考えないんだから、それで出た答えによっては、お店に来てもいいんじゃないかしら」
ユウリはミチルが何の話をしているのか分からなかった。おそらくミチルの伝えたいことはきっと、ユウリには十分の一も伝わってない。なんとなく感じるものはあるけれど、でも理解不能意味不明ってやつである。が、しかしミチルからずんと迫ってくる圧力みたいなものをユウリは感じて、なす術もなく、というのが一番適当だと思う、ユウリはミチルに手を引っ張られる形でホテルには向かわずに一度渡った横断歩道の上を反対側から再び歩き、ピンク・ベル・キャブズの店舗が二階にある中古レコード・ショップのシャッタの前に戻って来た。
「それじゃあ、バイバイ」
ミチルはユウリの頭をポンと撫でただけで、ユウリがせがむ素振りを見せたのに「駄目よ」とキスもしてくれなかった、本当にあっけなく階段を昇って行ってしまったのだ。
ユウリは何も言わず、ミチルが階段の奥へ消えるのをじっと見ていた。
すると目元がじんと熱くなった。
どうしてうまくいかないの?
どうして駄目なの?
ただエッチがしたいだけなのになんでこんなに苦しい思いをしなくちゃいけないの?
訳の分からない論理を理由にして拒絶して。
ああ、本当にもう、全っ然、分からない!
分からないよ!
エッチがしたいんだ!
ただエッチがしたいだけなんだって!
それ以外のことなんてどうだっていいんだから!
今は一番、エッチがしたいのに!
なんでだよ!
なんでエッチをさせてくれないんだよ!
ずっと待ちこがれていたものに近づいたようですぐに遠ざかった。
もうやり直せないと思えるほどに遠くに。
なんだか悔しくて惨めでこみ上げてくるものがあって。
そして。
錦景市は深夜一時。
「くそったれ!」
ユウリは夜の錦景の街、粘性高い極彩色のネオンが水性絵の具が水面を泳ぐように滲んだ景色に囲まれて、夜空に煌めき星座を形成する星々に届くほどの叫び声を上げた。
感情は爆発して、痛いんだ。
「くそったれ! 死ね! 莫迦女! クソババア! 子供だからって莫迦にしやがって! 売春婦の分際で! 年齢詐称の詐欺師め! つべこべ言わずに抱かれればいいんだ! ああもぉ! くそったれ! 死ねぇ!」
叫びの余韻は夜の街にしばらく残った。
幸いにしてユウリの前後左右に人はおらず、ユウリの空しい叫びに反応したのは犬の遠吠えだけだった。ミチルにもユウリの声は聞こえていただろう。聞こえていないはずがない。ピンク・ベル・キャブズの綺麗な店員さんにもおそらく届いてしまったことだろう。でも構わない。ここには二度と来ないんだから。
彼女たちは今頃ユウリのことを鼻で笑っているはずだ。莫迦な子よね、と笑っているはずだ。ミチルはユウリに優しかったけれど、その優しさを信じられなかった。ユウリの醜態を知ってミチルは黙ってはいられないだろう。さっきの娘ね、実は十五歳でね、ユキちゃんの振りをして私を抱きに来たんだよ、信じられないよね、十五歳よ、十五歳、もちろんお金を返して帰ってもらったわよ、子供のおふざけに付き合う義理はないものね。
最高の笑い話じゃないか。ユウリだったら黙ってなんていられない。最高に滑稽な莫迦女に出会ったことを黙っていられるはずがないのだ。
ミチルはなんだかよく分からない台詞を長々と言った後、十八歳になるまでによく考えてそれでも来たかったら来ればいい、というようなことを言っていたけれど、それだって彼女の本心かどうかは分からない。はぐらかそうとしたんだろう。
ユウリはもう何もかも信じられなくなった。
ユウリには今、誰も信じられる人間がいない。
シャッタの降りた中古レコードショップの脇の階段の先をまっすぐに見上げ、二枚の一万円札をくしゃくしゃに握り締めながらユウリここに来て思うのは、コナツのことだった。
やっぱりコナツじゃないと駄目だ。
ユウリにはコナツが必要なんだ。
コナツに会いたい。
会いたくってしょうがなかった。
会って。
謝って。
謝って。
謝って。
謝り続ければ許してくれる?
もう二度と、あんなことしないから。
ああ、本当に。
あんなことしなかったら。
あんなことさえしなければ、こんな想いに打ちひしがれる熱帯夜を迎えることはなかったんだ。
ユウリは後悔と寂寞の念に震えて泣いた。
声が漏れる。
ここが外だってこと、ここは自宅じゃなくって街であるということを忘れて声を上げて泣いてしまった。泣きじゃくってるって、多分、今のことを言うんだと思う。
涙ってなかなか涸れないな。
どれだけ泣くんだって、自分でも思う。
ユウリの顔は柄杓で掬った水をぱしゃりと受け止めた状態だった。
ハンカチが必要ね。
と、ユウリがずずーっと鼻水を啜ったときだった。
階段からカツカツと誰かが降りてくる足音が聞こえた。
はっ、となってユウリは涙を止めた。
もしかしたらミチルが降りてきたのかもしれない、と思ってユウリは慌てる。先ほどのユウリの叫びを聞いていてそれで怒って殴りにきたのかも知れないと思ったのだ。
どうしよう、とユウリは短い逡巡を経て、そして、ひとまずここから逃げようと思った。しかしその場から逃げ出そうと足に力を入れたその瞬間に「ねぇ、あんた」と声を掛けられた。「あんただよね、さっきの叫び声って」
階段から降りてきたその人はミチルじゃなかった。別の人。別のお嬢さんだ。見覚えがある、とふと思えば、そう言えばパネルで顔を見た人だと思う。確か名前はえっと、……なんだったかな。
「あ、え、えっと、その、」気付けば彼女はユウリの目の前にいた。香水の甘い匂いでぼうっとなった。背丈は同じくらい。体つきは華奢で胸も小さい。青緑色の薄手のワンピースを身に纏っていて、紺色のピンヒールを履いている。髪の色は明るい茶色で、肌もうっすら日に焼けている。ミチルに比べると大人の女性、という感じだが、くりっとした大きな瞳が印象的な顔立ちには幼さもかいま見え、ユウリはミチルほどではないが可愛い人だという評価を彼女に与えた。と、悠長に評価をしている場合ではなかった。ユウリは一刻も早くここから立ち去らねばなるまい。ミチルの代わりに、このお嬢さんが殴りに来たのかも知れないのだ。「ご、ごめんなさいっ!」
ユウリは声を上げてその場から離れようと走った。
しかし。
「あ、待ってよ!」
ユウリの手は彼女に掴まれた。両手でぐっと右手を掴まれて引き寄せられる。
「は、離してっ!」ユウリは悲鳴に近い声を上げる。
「そんな声出さないでってば」
「は、離して、は、離せ!」
ユウリは声を上げながら必死で彼女の手を振り払おうとした。が、なかなか彼女は離してくれない。ユウリの脳ミソは嫌なことを考え始める。もしかしたらこのまま暗い部屋に連れて行かれて恐いことをされるんじゃないかって考えちゃう。考えちゃったらもう、ユウリは恐くなって仕方がなくなっててなんとかしてこの場から逃げなくっちゃと思ったが、彼女はユウリの体にぎゅっと抱きついて来て離れない。さらに彼女から香る甘い匂いがユウリをなんとも堪らない気分にさせて、
「ねぇ、ちょっと話を聞いてってば、私でよかったら相手してあげてもいいよ、事情はなんとなくさっきの叫び声聞いて分かったからさ、内緒でやったげてもいいよ」
などと言うのでユウリは騙されているかもしれない、と思いながらも逃げることを止めて彼女の言葉に耳を傾けることにした。もし彼女が言うことが本当なら、絶望的な気分に心も体も染め上げられていたユウリにとっては願ってもないことだ。
「そ、それって一体、どういうことですか?」
「どういうことって、」彼女は微笑み、そしてユウリの肩を抱き顔を寄せて言った。「分かってるんでしょ?」
「分かりません、」ユウリは分かってはいたが、彼女に顔を近付けられてなんだか照れてしまって首を振った。「あの、何を言っているのか」
「こっち、」彼女はユウリの肩を抱いたまま歩き始めた。ユウリも彼女に合わせて歩かなくちゃいけない状況になる。「ホテルはどこでもいいよね?」
「……本当に?」ユウリは彼女の顔を下から覗き込むようにして見て聞く。「本当に、いいんですか?」
「やりたいんでしょ? 私は別に気にしないよ、君の年齢なんて、でもせっかく来たのに追い返されちゃって可哀想にね」
「わ、私を、な、殴りに来たんじゃなくて?」
「はあ?」彼女は眉を潜めて首を捻った。「殴るって、なんでよ?」
「あ、いえ、その、はい、」ユウリは彼女に向かって真顔で頷く。「お願いします」
「うん、」そして彼女はユウリの頭を撫でて、周囲に誰もいないのを見計らってからキスしてくれた。上手なキスをしてくれた。キスだけなのに凄くドキドキしてこの人とエッチするんだとふと思ったところで体中が燃えたように熱くなった。「レイカよ、名前は?」
「ゆ、ユウリです」
「じゃあ、ユウちゃんだね」レイカは優しく微笑み言って、そしてユウリの手に自分の手を絡め、慣れた足取りでホテルに向かって歩き出した。
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