ブリッジン・フォ・ニュウ/三

 ユウリは自宅のマンションの駐輪場に自転車を停め鞄の外ポケットを開けて鍵を手にしエントランスに向かった。その途中、駐車場に見慣れたオレンジ色のランドクルーザが停まっているのが視界に入りユウリは「マジかよ」と呟いた。そして思い出したように舌打ちする。最近ユウリは舌打ちの練習をしている。ヒステリックになったときに口が自然と舌打ちするように訓練しているのだ。ただなんとなく、そんな風だったら格好いいと思って。

 自宅の扉の鍵は開いてはいなかったけれど扉を開けて中に入れば底の分厚い叔母の黒いブーツがあった。レコードが回転しているようでロックンロールが騒がしく響いていた。フーのリアル・ミー。それに夕方のテレビ番組がノイズになって混じっている。フライパンがコンロと擦れる音が高く響いている。叔母の下手くそな歌声も響いている。

 本日も連絡もなく勝手にユウリの認可なくユウリのマンションに上がり込んでキッチンで料理をしながら下手くそに歌っている叔母の名前は國丸ユキコ。

 ユウリはキッチンの入り口に立ち盛大に舌打ちをした。が、それはリアル・ミーにかき消されてしまった。ユキコはユウリの帰宅に気付かないようで、こちらに背中を向けてフライパンを揺らしながらリアル・ミーを歌い続けている。本当に、下手くそで耳障りったらありゃしない。

 ユウリはキッチンを通りリビングに入る。その奥の液晶テレビの横にはユキコが勝手に運び込んだレコードを収納する棚があり、その隣の腰ほどの高さのタンスの上にはこれまたユキコが勝手に運び込んだレコードプレイヤがあってユウリはレコードの針を持ち上げた。

 瞬間スピーカは震えるのを止めてリビングは静かになって「ふぅ!」と奇声を上げたユキコは急な静寂に気付きリビングの方に振り向き、やっとユウリが帰宅したことを確認したようだ。「あら、ユウリ、お帰りなさい」

「うるせぇから、」ユウリはユキコを睨み付けて言った。「ボリューム絞れよ、近所迷惑だって」

「ここ防音はしっかりしてるのよ、」ユキコはコンロの火を止めてにっと笑う。「お隣の赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたことってないでしょう?」

 ユウリは盛大に舌打ちして自分が不機嫌でしょうがない、ということをアピールした。「どうしているのよ、今日に限って、どうしているのよ」

「今日終業式でしょう、」ユキコは手を洗い、紺色のエプロンで手を拭いた。エプロンの下は白いブラウスに灰色のロングスカート。そして冷蔵庫を開けてコーラのペットボトルを取り出しながら言う。「通知表を見せてもらおうと思って、一応私が今のところユウリの保護者なのでね、それくらい確認しておかないと」

 ユウリのことは叔母のユキコが全面的に面倒を見る、ユキコをユウリの保護者にする、ということは親戚の間で話し合われて決まったことらしい。ユウリに何かあった場合には彼らはユキコを言い訳にして責任から逃れられることが出来る。だからそうなったのだろう。

「保護者面すんじゃねぇって」ユウリは口を尖らせながら言ってすでに料理が並んでいるテーブルに向かって腰を降ろした。大好きなカラーゲがあったのでそれを口に運んだ。ユキコのカラーゲはおいしい。

「保護者面っていうか、保護者なんだけど」

 ユキコは紅色の唇をきゅっと閉じて苦笑した。ユキコの肌は化粧もしていないのに真っ白だ。だから濃い口紅が際立ち不気味で、長い黒髪のせいでまるで幽霊。そんな幽霊にユウリは似ているとよく言われる。ユキコも「昔の私とそっくり」とよく言う。勘弁して欲しいと思う。幽霊よりは自分の方が少なくとも健康的だ。顔色もユキコみたいに悪くないし、髪だって長いけどきちんと手入れして綺麗にして幽霊みたいにならないような工夫はしているのだ。

 ユウリはユキコがコップに注いでくれたコーラを飲む。そして黙ってカラーゲを食べ続けた。テーブルに本日の料理を全て並べ終えたユキコはユウリの対面に座り、ビールを飲みながら煙草を吸っている。

 カラーゲで口の中が油っぽくなり空腹が満たされるに連れて、どことなく先ほどのカラオケボックスでの出来事によって付けられた傷が和らいでくるような気がした。おそらく食べている間だけ、きっとシャワーを浴びれば傷は沁みて痛いんだろうけれど、心の痛みは麻痺している。終業式の夜だから今日のユキコの料理は豪勢だった。カラーゲの他にステーキもあったり生ハムがたっぷり乗ったサラダもあったしお刺身の盛り合わせもあった。ユキコがストックしているビールをユウリは飲んで酔った。煙草もふかした。

 ユウリは一人で悲哀に泣くつもりだったからユキコがいることにヒステリックになったんだけれど、食事を用意してくれていたことは素直にユキコに感謝した。暴飲暴食して泡沫の幸せに溺れている。

「はい、」ユウリはユキコに通知表を渡した。一応、食事のお礼のつもりだ。「そんなによくないけど」

「ありがとう」ユキコは煙草を吸いながらユウリの通知表を開き眺め始めた。

 いやにじっくりと見る。内容なんて何もないのにな。ユキコはそして、おもむろに席を立ち、冷蔵庫にマグネットでくっついている熊の人形が付属しているボールペンを手にして通知表に書き始めた。そう言えば、通知表の最後のページには保護者が記載しなければならない欄があったことを思い出した。教師の当たり障りのない品評の下に保護者が返事を書くようなスペースがあった。ユウリは教師の自分に対する品評を読んでいなかった。教師の評価を読んでも意味なんてない。

「優秀じゃないの、」ユキコは小さく言って通知表を畳んで返した。「ただ、体育が悪いのが気になるけど」

「集団行動は嫌いなんだって、ユキコも嫌いだったでしょ?」

「そうね、軍隊みたいで嫌だった、でも我慢したわ」

「私は我慢出来ないんだって」

「羨ましいわ」ユキコはうっとりとユウリを見る。

「何が?」

「ユウリのそういう反抗的なところ、強いところ」

「強くなんてない、」ユウリは煙草をくわえて火を付けた。深く吸って咳込んだ。「強いってなんだよ、勝手に人のことを強いなんて言ってどういうつもりだよ」

「進路は錦景女子に決めたの?」

「うん」ユウリは頷く。

「この成績なら間違いないね」

「うん」

 ユウリは錦景女子高校に行くことを決めていた。そこは県内では二番目に偏差値が高く、名門という風に呼ばれる女子高だった。錦景女子に通う生徒は世間から一目置かれていて、古い時代から変わらない錦景女子のセーラ服に袖を通すことはG県に住む女子の憧れでもあった。ユウリもずっと憧れていた。錦景女子になって、いろんなことがしたいと思っていた。錦景女子になればなんでも出来るとユウリは無条件に思っていた。春日中学校から錦景女子高校へと環境が変われば、私を苦悩させるさまざまなものは瞬く間に消え去って、周りには私を充足させるものだけが満ち溢れるに違いないなのだとほとんど確信的に期待していた。ユウリは早く中学を卒業して、脱出して、錦景女子になりたかった。

 と、錦景女子に想いを馳せているとコナツの顔が酔っぱらって回転の鈍い脳ミソにぼんやりと浮かんだ。ぼんやりとしたものは徐々にハッキリと像を結んでそれから消え去ろうとはしなかった。そしてユウリはこの夏は一緒に勉強して一緒に錦景女子に合格しようね、という約束をコナツとしていたことを思い出した。

 今日のことがあったから。

 あってしまったからもしかしたらコナツは志望校を変えてしまうかもしれない。

 一緒に錦景女子に行けないかもしれない。

 仲直りしなくちゃ。

 いやでも、あんなことをしてしまったんだ。

 絶望的だろう。

 許してもらえるわけがない。

 いやでも、コナツは優しいからきちんと謝ったら許してくれるかもしれない……。

 でも脳ミソに浮かんでくるコナツの表情は優しくない。

 これ以上ないっていう憤怒の顔。

 ユウリが知らない顔。

 恐いわ。

 恐いじゃないの。

 そんな顔のコナツに近付けるほどの勇気はユウリにはない。

 そんな顔しないで、ともユウリは叫ぶことは出来ないだろう。

 ああ、もう、終わってしまったのかな。

 寂しくて、寂し過ぎて、気持ちが悪くなる。

 頭が痛くなる。

 アルコールと煙草とカラーゲのせい?

 違う。

 それらが麻痺させてくれていたユウリを痛め付けるものたちが一斉に目覚めたんだ。

 目覚めてしまったらやつらはどこまでも激しく踊り始める。

 暗闇の中でユウリのことを取り囲み複雑なステップを踏み鳴らしながらユウリのことを攻め立てる。

 高い所から非難してくる。

 貴様は貴様が思っているように完璧な少女などではない。

 まして洗練されてなどいない。

 風雨に曝され錆びて朽ち果てたナイフのように脆く、薄汚く、先天的に持ち合わせていた意味があるようなものさえも失った、なんらこの世界にあって価値のない少女なのだ。

 うるさい!

 私は完璧で洗練されているんだ!

 ユウリは自分の周りで踊り続けるやつらを振り払おうとする。

 けれど消えない。

 消える余地がない。

 やつらはユウリの周りで複雑なステップを踏み鳴らし続けている。

 貴様は貴様が思っているような完璧な少女などではない。

 まして洗練されてなどいない。

 貴様は不完全なのだ。それはもうどうしようもないくらいに不完全なのだ。

 ユウリの目からは涙が溢れ出てきて止まらなくなった。

 嗚咽が漏れる。

 ユキコはそんな風に急に泣き出したユウリのことをじっと見つめ続けている。

 黙り込んだまま、ユキコは表情を変えることもなく、ユウリのことを心配するでもなく、叱りつけることもなく、ただじっと、ストレートに見つめ続けていた。

 そしてユウリから視線をはずし目を伏せユキコは席を立つ。「もう帰るね」

 ユウリは泣きながら小さく頷く。

 ユキコは急にユウリが泣き出す子供だということを理解しているから慌てる素振りは一切見せずに、そして帰るときに必ずするキスを今日もして、そのキスは凄く強引なんだけどとにかく「またね」と砕けた笑みで言ってマンションを後にする。

 マンションに一人になったユウリは泣きながらビールを飲みアルコールを接種して完全に意識を飛ばそうと思った。しかし完全に意識が飛ぶ前に猛烈な吐き気に襲われてシンクに向かってユキコの料理を全部吐き出してしまった。吐き気は三度、大きくユウリのことを襲った。意識も失わせてくれないのか、と神様に向かってヒステリックになった。四度目はなくて、漂う臭気の中、何も考えずに呼吸だけを繰り返していたら、心はなんとか落ち着いて来た。胃の中が空っぽになり、すっきりとした感じもあり、まだなんとかなりそうな気がした。

 目を開けてまずセーラ服が汚れてしまっていることに気付き、朦朧とする頭を抑えながら脱衣所まで歩きセーラ服を脱ぎ裸になり、ドラム式の洗濯機を回転させた。そのままユウリは浴室に入った。ユキコが操作してくれていたのか、浴槽にはお湯が張ってあり暖かかった。ユウリはシャワーで汚れた口元を流し、歯磨きをして、お湯で口を濯ぎ、うがいをした。お湯の温度を熱くして頭を洗う。乱暴にごしごし洗った。体も乱暴にごしごし洗った。顔もごしごし洗った。そして清潔になって潜水艦みたいにお湯に頭までを沈めた。

 目をぎゅっと瞑って。

 息を止めて。

 このまま息を止めていたら死ねると思った。

 いっそ死んでしまおうか。

 息を止めていれば五分後の未来に自分は死んでいてきっとこの苦悩から解放されているのだ。

 放たれて。

 天使にでもなれるかな?

「ぷはっ」

 苦しいことに簡単に我慢出来なくなってユウリはクジラが吹いた潮みたいにお湯から勢いよく顔を出した。

「……死んでどうするんだって、」と思って呟く。「……エッチしたいな、」とふと思い付いてユウリは自分の柔らかい部分をいじり始めた。コナツとのキスを思い出しながらどこまでも激しくいじってやった。罪悪感というか、自分を傷付け続けている良心の呵責のようなものは、この夢中になっている間だけは忘れられた。「あっ……、」絶頂に達するのは今日はとても早かった。「……気持ちよかった」

 自慰行為とはよく言ったものだとユウリは思う。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る