ブリッジン・フォ・ニュウ/二

 カラオケボックスに一人取り残されたユウリはしばらくソファの上で膝を抱えて後悔の念に震えていた。どうして衝動的になってしまったのか。もっと慎重になれなかったのか。コナツにもっと優しく出来なかったのか。コナツのかな切り声が訴えた「最低っ!」というユウリに対しての評価は、ぎゅうっと胃を締め付けて吐き気になった。ユウリは鳩尾の辺りと口元を抑えながら自分の最低さ加減を反省して、そしてコナツとの友情、つまりユウリにとっての唯一の友情が消失してしまったという事態は,最初は寂しさになってユウリを震わせた。そして感情の高ぶりが収まってくるにつれて、徐々にユウリが客観的にこの状況を分析出来る冷静さを取り戻すと、ユウリは自分は断固完全なる天涯孤独となってしまったということを理解して、その境遇に入り込んでしまったことを恐怖した。

 ユウリにはもう友達と呼べる人間がいない。

 家族もいない。だからユウリは完全に世界に孤立してしまっているのだ。

 ユウリは父の名義で借りているマンションで一人暮らしをしていた。両親はユウリが中学生になった春に離婚した。理由は色々あった。ユウリが理解出来る理由は少なかった。その色々な理由のなかにユウリが原因なものもいくらかあった。まあ、そうだろうな、と思うものもあれば無理矢理離婚の責任を負わされるなって思うようなものもあった。とにかく理由が色々様々ハイブリットにあって両親は離婚したんだ。親権は父に託された。しかしユウリは父親のことが嫌いだったからマンションに一人暮らしをすることに決めた。父親も生意気でヒステリックで言うことを全くきかないユウリのことが大嫌いだったと思うから、あっさりユウリの一人暮らしに認可をくれマンションを借りてくれた。ユウリはマンションを借りてくれたことは父親に感謝している。父親だって月々数万円の家賃でユウリと離れることが出来てよかったと思っているに違いない。母親はユウリのマンションから車で十分ほどしか離れていない実家に帰った。母親は最後に「あんたとはもう二度と会いたくない」とユウリに向かってヒステリックに叫んだ。もう二度と会いたくないのならもっと遠くに行ってしまえばいいのに、と思いながらユウリは同じ台詞を母に向かって怒鳴りつけてこう付け加えた。「私のヒステリックはあんた譲りだよ、ああ、嫌いだ、私のあんたに似た部分は嫌いだっ! 大嫌いだっ!」

 そんな風にユウリは周りから見れば寂しい暮らしを強いられている可哀想な女の子になった。しかし可哀想だとは自分では一度も思わなかった。むしろ小さな頃から大嫌いだった両親から離れることが出来てせいせいして気が晴れたし、まるで収容施設から脱出して青い空を見上げたように未来が開けたような気がしたものだった。やっと自分に運が向いてきたなとユウリは思ったものだ。

 しかし親戚一同はユウリが寂しがっていると判断したようで、ユウリのマンションに用もないのに勝手にやってきたりした。当時中学一年生、十三歳になったばかりの女の子が一人暮らしをしているのはやはり普通ではないし、心配だったのだろう。ユウリはそういうことはなんとなく理解していたが、年に数回会ったことがあったくらい、ほとんど挨拶程度の会話しか交わしたことがなかった、血縁関係があるというだけの他人に優しくされるのは嫌だった。美味しいお菓子を持ってきてくれたり、お小遣いといって現金を渡してくれたりしてくれたことは素直に嬉しかったけれどやはりそういう人たちに馴れ馴れしく接せられ心配されるのはユウリにとっては酷いストレスだった。

 その人たちとユウリとは、確かに血縁関係がある。血縁関係によって親戚というグループは成立するし、生まれた瞬間からそのグループの一員にならざるを得ないという理屈はユウリには分かる。親戚同士助け合うべきだ、というのがまず常識としてあるし、そういうものを材料にしたドラマも沢山あるし、そういうドラマで大衆は感動して涙を流す。だから自分たちも助け合わなくちゃいけないと思わされている。ドラマの虚構に騙されているんだ。彼らの本心に果たしてどれだけ、ユウリのことを助けてあげたいという気持ちがあるのだろう。ないことはないと思うが、決して大きくはないだろう。小さい優しさだ。それは偽善だと思う。ユウリは偽善が嫌いだ。

 そもそも血縁関係、というものをユウリは全く信用していない。その理由は単純明快だ。一番血縁関係の濃い両親のことがユウリは一番嫌いだったんだから。血の繋がりなんて尊いものじゃない。嫌なもの。その論理から導き出されるのは、両親と血の繋がりのある彼らは嫌なもの。生理的に無理なもの、なのだ。

 だったら大嫌いな両親から生まれた自分の体って何……?

 なんなの?

 嫌だ、気持ち悪い。

 そんな風に考えてしまうけれど。

 そんな風に思ってしまったからだから、ユウリはある時から親戚一同の来訪を拒絶した。心配だ、という風に電話を掛けてきた母親の兄に、ユウリは「もう二度と私に干渉するな」という意志を様々な汚い言葉と一緒に投げつけてやった。それから親戚の来訪はほとんどなくなった。

 ほとんど、ということはつまり、まだユウリのところにやってくる親戚はいた。一人だけいる。父の妹。つまり叔母さんだ。叔母だけはユウリがいくら拒んでもユウリのマンションに勝手に来る。彼女はいつの間にかマンションの合い鍵を持っていて、たまにユウリの様子を見に姿を見せる。合い鍵を持っているからユウリが居留守を使っても勝手に入ってくる。ユウリがいなくても部屋に来ていたりする。そんな風だからいつしかユウリは彼女の来訪に文句を言わなくなった。叔母を拒絶することは諦めたのだ。根負けしたという部分もあるし、何より叔母が持つ雰囲気がユウリを許させたのだ。マンションの鍵を変更する、という選択もあったけれど、面倒なのですぐにその選択は捨てた。

 とにかくユウリは叔母のことだけは嫌いではなかった。叔母はユウリのことをただ可哀想とだけ口ずさんでいた他の親戚とは明確に違う部分がある。

 しかし叔母だってユウリにとっては赤の他人だ。ユウリは彼女に甘えようとも思わないし、何かを助けてもらおうと思ったこともない。ユウリのマンションの合い鍵を持っている、アラサーの、少し変わったお姉さんというだけだ。結局他人なのだ。

 そう、だから。

 コナツがユウリの人間関係の全てだったのだ。

 全てで、唯一がなくなってしまえば、当然ながらユウリには何もなくなる。

 なくなってしまったんだ。

 孤独が寂しくて、孤独が怖くて。

 本当の孤独って、辛い……。

 ユウリの目からは涙が溢れて止まらなかった。

 震えもずっと止まらない。

 もうこのままいっそ死んでしまいたいと思う。

 この世から消えてしまえば楽になれるのにな、と考える。

 そして。

 そして。

 そして。

 自分のことを死のうと思わせる元凶であるコナツのことを酷い奴だって思った。

 私にこんな想いをさせて……、と許せなくなる。

 許せない気持ちは途端に憎悪となる。

 そう、全部、コナツが悪いんだってユウリは思った。

 思ってしまったら止まらない。

 コナツのことが憎くて憎くて溜まらなくなった。

 拳をぎゅっと握りしめソファを叩いた。

 何度も叩く。

 どんどん力が入ってくる。

 コナツの顔を殴りたい。

 殴りたい。

 殴り殺してやりたい。

 殺してやる。

 殺してやる。

 殺してやる!

「あの、大丈夫ですか?」

 男性の声に気付き、顔を上げると扉が手前に少し開いていてその隙間からカラオケボックスの店員さんが顔を覗かせていた。茶髪で、おそらく大学生のアルバイト。背が高くて美形に分類される顔立ちだがおしゃれを気取った刈り上げが気持ち悪く日焼けサロンで焼いたように不自然に黒い肌が絶望的にマイナス。それにもっさりとした顎髭と丸い眼鏡は抜群に似合っていなかった。カラオケの白と黒のツートンカラーの制服も全く似合っていない。「あの、ソファ、凄く叩いてましたけど」

 彼の声はその風貌に似合わず高めだった。そのハイトーンな声に、ユウリはぷっと吹き出してしまった。どうしてこんな風にちぐはぐした人間ばかりが世間には溢れているのだろう? 街を見回して欲しい。本当に似合う服を着て、本当に似合う髪型をして、本当に似合うメイクをして、本当に似合う鞄を持ち、本当に似合う靴を履いている人間がどれくらいいるだろうか。

 このカラオケ店員みたいにちぐはぐした人間でいて恥ずかしくはないのだろうか。

 私だったら耐えられない、とユウリは思う。

 完璧で洗練されていないと駄目だ、とユウリは思う。

 そう。

 私は……。

「私は完璧で洗練されているのに……」

 どうして?

 ねぇ、どうしてなの!?

「は?」カラオケ店員は首を傾げる。「えっと、本当に大丈夫ですか?」

 カラオケ店員の視線は薬をやっている人間に対して向けられるものと一緒だった。

 ユウリは口をつぐみ、無言で店員に向かって曖昧に頷いた。その動作の流れで鞄と伝票を手にし立ち上がり扉を強く押し部屋から出た。店員は廊下を大股で歩くユウリの背中に向かって小さく「ありがとうございました」と言ってユウリとコナツが散らかしたものを片付けるために部屋に入っていった。

 ユウリは会計が済むまで考えていた。

 私は完璧で洗練されているのにどうしてコナツは私のものにならないのかをユウリは小銭を数えながら考えていた。ユウリは二円足りなくて結局、一万円札を崩すことになった。それによってルイ・ヴィトンの財布の中に無用の小銭が増えて重くなった。コナツがいれば二円借りれたのに。一万円札が崩れてしまったのはコナツのせいだ。コナツが憎くて堪らない。全部全部コナツのせいだって思う。

 でも自転車をマンションに向かって一人で漕いでいる途中に無性に堪らない気持ちにユウリは襲われた。

 何もしなかったら今日も一緒に並んで帰れたのになって。


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