第4話 自動車に関する思索

 私は自動車が好きです。それは両親からの、贈り物でもあります。母は、アイルトンセナを敬愛していました。セナの亡くなったのは、私が母の用水の中で揺蕩っていたときのことです。両親は、私に絵本と共に車の雑誌を買い与えました。ある意味で、それは英才教育の一つともいえるでしょう。…

 かくして、セナが没してから二十四年の月日を経て、私は順当に自動車好きな人間と相成りました。セナの後を追う、という無邪気な幼少期の夢はとうの昔に潰えましたが、一般人として私は自動車愛好家を謳歌しています。

 さて、これ以上自らの嗜好の生い立ちを語るのは、退屈というものです。

 ここで考えたいのは、自動車好きという私の心理についてです。まあ、そうは言っても、ただの思索にすぎません。専門的な知識など、大して持っていませんから。

 私にとって自動車は、最も気の許せる存在です。それは過言ではありません。人間のたどり着けぬ、真の意味で全てを許せる存在なのです。これを思うとき、私は度々、自動車と自然という一見して対極に位置する二つの事柄を、似通ったように感じます。

 そう考える理由は、単純なものです。彼らは、我々に対して、須らく完全な、純粋な、素直さを持っています。それは優しさであると同時に、不条理で理不尽な、容赦のない厳しさでもあります。私はこの両者の持つ特性が、何よりも尊いものに感じてなりません。

 人は嘘をつきます。当り前のことです。それが悪いとは言いません。ただ、ある真実として、我々は、虚飾を行います。そして我々は、それを前提として人と関わることを半ば強制された中で生きています。無論、それは無意識のうちでさえもです。

 人の言葉は、容易に思いもしないことを吐き出します。自動車の発する様々な音は、自らの好不調を隠しません。人間の視線は、恣意的に、他者に印象を与えることもできます。自動車のヘッドライトは、単純に暗闇を照らすのみです。…

 私の行動に、自動車は素直な反応を示します。その反応に個体差があることは、この際問題になりません。そのどれもが、ただただ機械的な、無機質な、それ故にどこまでも純粋で時に残酷な回答です。この当たり前の『運転』というやり取りの、なんと尊いことでしょう。虚飾がないことは、それだけで私の心を軽やかにします。人との間では、良くも悪くもどう足掻こうとたどり着けない、純白のやり取りです。

 自動車の持つ極限の素直さは、世間に疲労した私の心を癒します。何も考えずとも良いのです。ただ、素直な声に耳を傾け、それに応える。それをひたすら繰り返していく。この『運転』というコミュニケーションの一種は、私の心を浄化していくように感じるのです。

 最後にもう一つ、最近よく考えていることがあります。それはある置き換えです。すなわち、『運転者と自動車』をそれぞれ『理性と欲動』に対応させて考えると、どうやら面白いことになるのではないか、という考察です。これについては、私が今よりも知識を身につけたのち、何らかの考察が書けたらと思っています。

 さてさて、随分とつまらなくも長ったらしい文章を書き綴ってしまいました。この作品は、えてしてこういったものです。

 どうかその退屈さにも、目をつむっていただけたらと切に願います。

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