習作4【藤の掛軸】
煙雨の潸々と降り頻る下、ドアベルの音が曇天の空を鈍く揺らした。
老いた画家は玄関の引き戸を開き、カメラを提げた私の姿を見ると、皺が幾つも刻まれた顔を朗らかに綻ばせ、「いらっしゃい。待っていました。」と深々お辞儀をした。私が「こちらこそ取材を受けて下さって、本当にありがとうございます。」と右手を差し出すと、画家はところどころ絵の具で汚れた手で柔らかく握る。
誘われるまま畳敷きの客間に入ると、小さなちゃぶ台が一つと、今淹れたばかりなのだろう、白い湯気を立てている湯飲みが両端に一対、中央には小皿に乗せられた数種類の和菓子――銘柄は分からないが見るからに高級そうであった――が置かれていた。私が口を開くのより先に「余りものでね。食べるのを手伝ってくれませんか。」と画家が優しく微笑みを浮かべるので、折角の好意を無下にするのもまた礼を欠くように思え、私は申し訳なさを押し殺して言葉を呑み込んだ。
急な訪問であったにも拘らず、老画家の親切な計らいによって取材は滞りなく進んだ。私の知識に至らないところがあれば、画家は自分の画集を持ち出してその場で蘊蓄を傾けた。
やがて湯飲みの茶も尽きかけた頃、記事を書くのに必要なことは粗方訊ね終わり、改めて画家の画集を眺めていた時、ふと一つ疑問が沸き起こった。画家は世間では風景画の権威として有名であり、事実画集を眺めていると一つとして人間を描いたものは無いのだが、この部屋の床の間に飾られている掛け軸だけは趣が違っていた。則ち、幾房の藤の花を背景に、一人の若い女性が和傘を差して天を仰いでいる様子を描いたものだったのだ。
私がそれを問うと、画家の微笑みに少々の苦みが加わった。
「ええ。まさしく。私が描いたものです。」
画家は細く溜息を吐き、湯飲みに残った最後の滴を呷いで、空の器を暫し見詰めた。雨が強くなってきたようで、トタンを叩く、遠くに沢の流れるような雨音が、不意の静寂の内に、やけに耳の奥に張り付いて聞こえた。気に障る質問だったのだろうかと「無理に答える必要はありません。」と言うと、画家は「いや、大したことでは無いんです。」と顔を上げた。
「ただ、これは実に不思議な話でして。貴女に信じてもらえるかどうか分からないんです。いや、きっと信じることなどできないでしょう。貴女は貴重な時間を奪われたと怒るかもしれない。それでもいいなら、話をしようと思います。」
私は迷わず首肯を返した。画家はうら寂しい微笑みに安堵の表情を浮かべ、一つ咳払いをしてからこう切り出した。
「あれは私がまだ幼かったある日のことです――
私の家は当時典型的だった三世帯家族で、私は、若くして銀行の取締役に就いていた父と、戦後の貿易業で儲けた大企業の令嬢であった母、そしてその会社を立ち上げた祖父の婚約相手である祖母と一緒に暮らしていました――父方の祖父母は戦争中に亡くなっていて、母方の祖父の方も私が産まれて間も無く亡くなり、社長は父が継ぎました。両親の間に生まれたただ一人の子供であった私は、会社の後継ぎとして、大事に、大事に育てられました。
しかし、私が高校の二年生に上がった頃でしょうか、会長として会社で敏腕を揮っていた祖母が、病に倒れてしまったのです。後で聞いた話では、どんな顧客相手にも毅然とした態度で臨み、一歩の妥協もせずに契約を取り付け、業界から日本刀と呼ばれ恐れられていた祖母は、実は生まれつきの虚弱体質で、死もそこに起因していたようです。
葬儀の一切が終わると、私を取り巻く環境は一変しました。強力な切り札であった祖母の死によって会社の将来に危機感を覚えたのでしょう。当時既に私は絵に興味を持っていましたが、筆を持つことは許されず、代わりに帝王学を学ばされるようになりました。連日、朝は日の出前に起こされて作法の勉強、日中いっぱいは学校で教養を学び、帰宅したら経済学の基礎を叩き込まれるのです。それは低俗な現実よりも高尚な芸術を好む少年にとっては非常に退屈なもので、そんな日々がしばらく続いたある日、私は遂に、使用人の目を掻い潜って家から逃げ出しました。
考えなしの子供が起こした突発的な行動です。もちろん本気で家出をしようと考えていた訳ではなかったのですが、逃げ出してきた手前早々に家に戻る気も起きなかったので、町中をそぞろ歩いて時間を潰すことにしました。とはいえ騒がしい商店街を回る気分ではなかったので、足は自然と郊外の方へ向きました。
ところで私の故郷には岩倉山と呼ばれる手付かずの山がありまして、私の町では、子供は物心がついた頃から、あの山だけには入っていけないと耳にタコができるほど聞かせられるのです。なんでも古くから神隠しがしばしば起こる地として畏れられてきたようで、年明けの時期になると麓の神社で鎮魂の式が行われていたのをよく覚えています。
その時、何の因果か、当て所なく彷徨い歩いていた私は、まさにその岩倉山の麓に迷い込んでいたのです。ちょっとした好奇心から――大人に反抗したい気持ちもあったかもしれません――山の中を散策することにして、遮二無二しばらく藪を掻き分けて進みましたところ、残暑もすっかり引いた北風のうそ寒い季節ではありましたが、運動不足の身体に山登りは思いの外応えまして、小一時間ほどで汗がじんわりと肌に滲み、どこか休憩できる場所を探すことになりました。
そうして木立の少し開けた、一面小石がごろごろ転がっている場所を見つけ、一つだけ頭を出した、苔生した小岩に腰かけ、揺蕩う心を寂寞とした景色に埋めつつ、はらはらと落ちる赤い紅葉を一枚二枚と徒に数えていた昼下がり――私はあのご婦人と出会ったのでした。
――――秋の木漏れ日が実に心地よかったものですから、きっと気付かぬうちに微睡んでいたのでしょう。はたと目を覚ますと既に半ば陽が傾いているような時分でした。家を抜け出した時の興奮などは夢に消え、神隠しの噂などを思い出すと急に状況が心細く思えてきました。いい加減家に帰ろうにも帰り道が覚束ないものですから、途方に暮れて立ち上がることもしませんでした。そんな内に耳の端に僅か衣擦れがそよ風に乗って聞こえてきたので、犬でも猫でも縋りたい思いでその出所の方を見遣り、目にした光景に私は思わず息が止まりました。
藤の刺繍が施された着物を纏い、朱塗りの和傘を携えた彼女は、切れ長の眼を優し気に細めながら狐の子と戯れている様子で、私はそれを木の陰から垣間見ていました。私はその姿を一目見た時から彼女が何か精霊の類のように思えてなりませんでした。こんな山奥にうら若い御婦人が一人でいるというのも怪しい以上に、その御姿のなんと麗しいことか。まだ齢二十かそこらのあどけなさの残る容貌にありながら、醸す気配は老熟した巫の如く妖しくありました故。
しかし、まぁ、今思えばその非現実的な美しさに私は惹かれてしまったのでしょう。
初恋でした。紛れも無く。
どれ程の時が経ったかは分かりません――時間を忘れるほど深く彼女に見惚れていたのです。気付けば彼女と目が合っていて、頬がカッと熱くなるのを感じました。彼女は太陽のように微笑んで手招きをしました。刹那の間に、私の中で逃げ出したい思いと傍に寄りたい思いとが鬩ぎ合いましたが、最後にはその微笑みの魔力に負けて、ふらふらと匂引かされてしまいました。
「こんにちは。こんなところに子供が一人なんて珍しいこと。道に迷ったのかしら?」
彼女の傍に寄ると、夏風を彷彿させる、爽やかで、ほんのりと甘い香りが鼻を掠めました。ぼんやりと熱を帯びた頭では返す言葉も覚束ず、三度口を開いては閉じて、結局縦か横か分からない方向へ、首を少しく動かすのみになりました。
「――そう。それじゃ、どうしてこんなところに来たのか――なんて野暮な質問はよしておきましょう。」
御婦人は藤乃と名乗り、ついで私に名を尋ねました。私はやっとのことで「カ――、一貴といいます。」とだけ申し上げました。
藤乃は蓬莱の山に積もる新雪のように白い手で私の頭を撫でながら「これも一つの運命でしょう。ゆっくりしていきなさい。」と囁きました。意識が朦朧とするような甘い香りが私の理性を絡めとろうとするのを、雨に濡れた子犬さながら首をブルブルと振ってやっとの思いで断ち切り、私は一歩引きました。
「ヤ――、やめてください。子供じゃないんですから。」
私は一層熱くなる顔を見られまいと顔を逸らしました。すると、そこに先ほど藤乃が戯れていた子狐がちょこなんと伏せて、縞尻尾を揺らしながら見上げていました。藤乃が手を鳴らすと、子狐はゴロゴロと喉を鳴らしながら足下に寄って来て、尻尾を足首に絡ませてから、ゴロンと腹を仰向けにして転がりました。藤乃は慣れている様子でその腹を撫でてやりました。
「君も撫でてみようか?」
「大丈夫ですか?」
「最初に頭は触らないように。ゆっくり、背中を撫でなさい。」
私は愛くるしい子狐の所作を眺める内にいつの間にかその虜になっていて、そろそろと手を伸ばして、ひとまず背の方に触れてみました。丁度生え揃ったばかりの冬毛に手を埋めると雲に包まれたように柔らかく、子狐の体温でポカポカと暖かかったのを覚えています。
子狐は非常に人懐こく、初対面の私でも、ザラザラした舌でちろちろと私の指先を舐めると、すぐに慣れた様子で、フスッと鼻を鳴らして、藤乃にしたのと同じようにごろりと腹を見せて寝転がりました。野生の狐といえば人前に姿を曝すことを嫌う、もっと狡猾な生物だと思っていたのですが。そんな違和感が過ったのは束の間の事で、それから私は嬉々として脚から顎の下まで擽ってやりました。
傍で様子を伺っていた藤乃が、子狐を挟んで向かい側で膝を折り、愛おし気に鼻の頭を掻いてやりながら言いました。
「この子は今年の春に生まれたばかりの子でね。母親が早死にしてしまって飢え死んだのかと思ったけれど、動物ってのは強いものですね。一人で今日まで生き残っているのだから。」
私は驚きのあまり子狐を撫でる手が止まりました。
「だからこんなに藤乃さんに懐いているんですか。」
「さぁ、どうかしら。私とこの子が似たもの同士だから、通じ合う所があるのかもしれませんねぇ。」
その言った藤乃の表情が、私は今でも忘れられません。
深い慈愛を湛えた眦は、かの聖母を彷彿させるほど柔和で、まさに私が赤ん坊だった頃、子守唄を歌う母の眼に見たものと同じでありました。しかし、普く広がる大海原の如き瞳の中に、一滴注がれた水銀がじわじわと滲むように――或いは黒南風が水面を騒つかせるように、一抹の寂しさが浮かんでいるのも、確と見つけました。それは儚さとも言い換えられるでしょう。
柳のゆらゆら揺れる内に朧々佇む亡霊の、甚だ凍みる吐息が首筋を撫でるような痺れが、一瞬のうちに心頭から末端へと伝わってゆきました。私はその時ほどに時間を止められないことを苛立たしく思ったことはありませんでした。
潤んだ瞳に微か宿る煌めきから、北風に曝された頬に差す薄紅色、果ては中空に流れる濡烏の髪の毛一本に至るまで、そのまま切り取って額に入れてしまえば、これまでどんな画家が描いた絵画も凌ぐ最高の絵画になるだろうと確信していました。
「この森では、君が産まれる遥か昔から色々な生き物がいて、人間の預かり知らぬところで命を繋いできたのよ。新しい命が産まれることもあれば、道半ばで死んだ命もある。人は何時しか毎日昇る太陽を拝むことを止めてしまったけれど、それは果たして英知の代償に見合うものなのでしょうかね。」
藤乃はそう言って立ち上がり、私に手を差し伸べました。
「いい場所があるの。来てみない?」
見上げた顔は逆光で隠れていました。私はほとんど無意識のうちにその手を取っていました。
藤乃の後に付いて、競り上がるススキやらヨモギやらの蒼く萎えて頭を垂れているのが生い茂る藪の中に、踏み固められた獣道を進むこと数分にして、忽然と森の景色が晴れました。そこは山の頂上付近の崖で、今までに見てきたどんな高い建物よりも、ずっと高い位置から町を見下ろすことができました。
「ここはいつ来てもいい風が吹いていますね。生きている内に浮かんでくる、ごちゃごちゃした感情が洗い流されていくみたい。君もそう思わないこと?」
「――ええ。これが、この美しい景色が僕の町なんですね。」
「今の時期は紅葉が綺麗だけど、晩春には藤が一面に咲き誇って圧巻なんです。いつかまた機会があったら見にいらっしゃい。」
「それは是非見てみたいです。」
色付いた木々は落ちかけた斜陽
逢魔の時に、街には薄墨のような暗闇が吹き溜まり、オレンジ色のガス灯が、道路に沿って珠のように丸く輝いているものが、にわかに活気の凪いだ住宅街を彩っていました。耳を澄ませば、コオロギやらヒグラシやらが鳴くのに混じって、SLの鋭い汽笛が耳朶を打ちました。
藤乃は、はらはらと落ちて来た黄金の葉を白い両手で掬い、合掌するように挟んで、目を閉じ、鼻先に押し当てました。地平線の彼方に浮かぶ斜陽が、藤乃のあだめいた長い睫毛を金色に濡らしていました。
「畢竟にして、形あるものは泡沫のように消えてしまう。常しえに巡る歴史の中で、今日の出会いなんて一刹那に過ぎないのかもしれないけれど、それでも、私はこのとりとめない日々がいつまでも続けばいいと希うの。」
藤乃は訥々と語り抜き、やおら目を開くと、掌を開き、甘やかな唇をすぼめて紅葉をふき飛ばしました。紅葉は旋風にさらわれて天高く舞い上がり、二人で行く先を見遣っていましたが、いよいよ濃くなる夜の闇に溶けて掻き消されてしまいました。
――それから、私は藤乃に教えてもらった道を通って無事に家に帰りつきました。こんな時間まで何をしていたのかと、両親からは大目玉を食らいましたが、朝よりもずっと気分は晴れやかでした。
それからしばらくは藤乃とは疎遠な日々が続きました。もう二度と私が逃げ出すことができないように両親の監視の目が厳しくなったからです。両親は何としても私を東京の名門校に入学させようと躍起になっていました。しかし、私は美大に入りたいと思っていたので、幾度も口論を重ねた結果、遂に家を勘当されました。
大学にはさほど難なく入れましたものの、勘当されたおかげで、昼夜を問わず家庭教師やら新聞配達やらをして、何とか糊口をしのぐような毎日となりました。故郷から遠く離れた東京の地には知り合いなどおらず、剰え土地勘も無かったため、在学中の居は、実家の大屋敷とは打って変わって、たった五畳半の下宿になりました。
一方当初傾倒しておりました、絵画の勉強についても些か翳りが見えてまいりました。赤貧洗うが如し生活の中で――青年には往々にしてありがちなことではありますが――将来に対する不安が濛々と思考を覆い尽くすようになり、筆を持てども手が動かない日々が続きました。しまいには筆を持つことすら億劫になり、自室で薄い毛布に包まって一日憂鬱に寝過ごすようなこともままありました。まぁ、いわゆるスランプというやつですよ。
それでも正月や盆の折には、無い袖を振って小洒落た衣服を誂えて故郷まで赴き、藤乃に会いに行きました。朝方早くに下宿を出て、到着はおおよそ巳の刻になり、駅で購入した弁当――藤乃には私のより桁一つ高い物を買っていきました――を二人で食べながら、時々の四方山話をするのです。互いに世俗には疎く、専ら美しい季節の花について語り合ったり、歌を詠ったり、二人だけの小さな世界を楽しみました。藤乃は何においても私よりもずっと聡明で、芸術にも造詣が深く、季節の趣に鋭く――いつでも藤の着物を取り入れることだけは拘りのようでしたが――慕情は日々ますます募るばかりでありました。
しかし、直接会う事ができるのは年に二、三回しかなく、顔を合わせる約束もその時の口約束でしかできなかったので、ある時に思い切って文通をしたいと、憚りながら申し出たのですが、家の者にバレてしまってはいけませんと断られてしまったので、それも叶いませんでした。よく考えれば、藤乃がいつも召している着物は明らかに高級なもので、教養の高さをとっても、蓋しどこか名家の生まれだったに相違ありません。令嬢の面倒な事情は母の姿を見れば容易に察せたので、私の方からはそれ以上何も言う事はありませんでした。
大学も三年生になった五月の頃でしょうか、バイト先のトラブルで思いがけない休日が発生し、何をして過ごそうか考えていた時、ふと藤乃と初めて会った日、彼女が晩春に山に来て欲しいと誘っていたのを思い出しました。約束はしていませんでしたが、もし藤乃が居なかったとしたら、その時は街の風景でも眺めながら昼食をとれば、それもまたいい気分転換になるだろうと、深く考えずに家を出ました。折しも天は五月晴れで、たまの行楽には丁度いい日だったため、いつものように様々買い出しをして早速電車に乗り込みました。
藤乃が居ることを祈りつつ、落ち着かない足取りで山道を登って行き、あの獣道に差し掛かりますと、しな垂れかかる青草を穿った丁度先に、春霞に隠れた彼女と思しき影を見つけました。大方私がここを訪れる時には、藤乃は栗の切り株に腰かけて町を遠望していたのですが、その日は立ったま、まんじりとどこか遠い空を打ち見遣っていて、いつになく悄然としている様子が、背後からでも伺えました。
私は歩を早めて青草のトンネルを潜り抜け、藤乃に声を掛けようとしましたが、それより先に、眼前にした光景に思わず目を見開いて、閉口してしまいました。
梅雨入り前の、肌に吸い付くような瑞々しい風が、眼下一面を覆う、絨毯のような薄紫の花弁を、さざ波のようにそよがせていました。藤の爽やかな香りといい、肌を撫でる麗らかな風といい、そこは確かな現実であるはずなのに、その景色が余りにも美しいので、私は何か童話の世界にでも迷い込んだのではないかと錯覚してしまいました。風は花弁を巻き上げながら崖を駆け抜け、そのまま私のうなじの毛を逆立てて、嘘のように青い空の向こうへ飛び去ってゆきました。
「なんて美しいのでしょう……」
思わず私が漏らした声に、藤乃は矢庭に振り返り、私の姿を認めると、目を見開いたように思えましたが、すぐに目を伏せて、再び顔を上げた時にはいつもの微笑みを取り戻していました。
「あら。こんな時期に珍しい事。アルバイトはどうしたのかしら。」
「諸事情ありまして休みになりました。そこで以前晩春に藤の花を見る約束をしていたことを思い出しまして、丁度良い機会なので訪れてみようと思ったわけなのですが……浮かない顔ですね、どうかなさいました?」
藤乃は変わらず微笑んでいましたが――多少邪推だったかもしれませんが――やはり、視線はどこか虚ろで、頬も普段より紅潮しているように見えました。
「体調が悪いのですか? 熱があるのでは?」
藤乃は胸の前で、指を組んだり解いたりを繰り返しながら「あぁ――いいえ。大丈夫です。心配しないでください。」と、一つ溜息を吐き、小さい声で「これも一つの運命かしら。」と独りごちたようでした。
藤乃は私から目を背けて、また崖の方を向きました。
静かな時間でした。
普段から藤乃の周りではとてもゆっくりと時間が過ぎるものでしたが、その時は時間が止まってしまったように、格別ゆったりとした流れに包まれていました。ところがその静けさは、うず高く積まれた積み木のような緊張感もまた孕んでいました。あと一押し何か力が加わればガラガラと崩れてしまいそうな、甚く脆い静けさなのです。そんな悪い予感を前に、藤乃に会えた喜びは差し置かれ、私は人形のように黙ったまま立ち続けました。
「私はよく同じ夢を見るんです。世界には誰も居なくて、私一人だけがこの崖に腰かけている――音のない世界に、永遠に。」
藤乃は唐突に口を開いたかと思うと、不思議な話を始めました。私は魔法が解けたように、卒然口を開いて、それは恐ろしい夢ですね、と調子の外れた言葉を返しました。
「ええ。実に。でも、それは私の望みでもあります。いつか話したでしょう。変わり映えの無い日々。いつまでも穏やかな日々。分かっているの。それがどれほど下らない事か。諸行無常。一炊之夢。砂上の楼閣を建てるようなものです。」
その時の私は――ええ、少々気が動転していたのでしょう。普段とあまりに違った、触れれば壊れてしまいそうな藤乃の姿を前に、何か取り繕ってその場に留めておかなければならないと思っていたのです。だからこんなことを言ったのでしょう。
「私はそうは思いません。いつか消えると分かっていながら、足掻いて、形の無いものに容を見出すのが人間ではありませんか。それを恐れて怠惰に耽ることこそが本当の罪というものでしょう。」
私は自分の口から堰を切って飛び出た言葉に、言いながら赤面してしまいました。
何故なら、私こそがまさに変わる事を恐れて立ち止まっている張本人だったからです。だから、今しがた口をついたその言葉が甚だ無責任なものに思え自分で恥ずかしく思えたのです。もしくは不甲斐ない自分への劣等感の裏返しだったのかもしれません。
ですがそんな事を知らない藤乃は、真摯に私の言葉を受け止めたのでしょう、「そう……成程。」と度々頷くのでした。
それからまた静かな時間が過ぎた後、だんまりを決め込んでいた藤乃は、顔を改めて、私の方へ向き直りました。心なしかその瞳は光を帯びているように見えました。
「私は貴方に言わなければならない事があります。」
私はまた、何も言えませんでした。藤乃は深く息を吸って、半ば睨むように、死地に赴く戦士のような、天啓を得た礼拝者のような微妙な表情で口を開きました。
「どうしてもこの地を離れなければなりました。だから、もうお別れです。」
藤乃の声はいつになく震えていて、それでいて芯が通っていました。私は――私は、自分でも驚くほど冷静に藤乃の言葉を受け止めていました。きっと藤乃の感情の機微から無意識にそれを予測していたからでしょう、私の胸を張り裂いてもおかしくない程衝撃的なその言葉は、何の蟠りも無く胸の内にストンと落ちたのです。
予測できたとして何故そこまで冷静でいられたのかと問われれば、それはきっと私が若かったからでしょう。若かったから、受け止めきれる容量を極端に超えた事実に、泣くことも、優しい声を出すことも、声を荒げることもせず、路傍の石のように固く縮こまる事しかできなかったのです。
「ずっと前から分かっていたのです。いずれはこうなる事を。しかし、言い出す事ができなくて、貴方にも何も言わず去るつもりでいたのですが、どうやら神様は私に最後の機会を与えてくれたようです。」
そもそもが夢のような話でした。
貴女もそう思ったでしょう。偶然に踏み入った深山にて、この世のものとは思えない美女と出会い、二人は親睦を深めて最後には……なんて、青春文学の世界でも今やクリシェですよ。そんな手垢のついた夢を、〝お別れ〟という藤乃のあの声が、弾指の内に一蹴したのです。
――しかし、夢から覚めた私は、もう恐れることはしませんでした。幻想と共に憂鬱の手も同時に振り切られたようで、私の目にはいつか見失っていた可能性の海が再び映り始めました。どうせ乗りかかった船です。微睡の醒めぬうちは漕ぐ手を止めるようなことはしたくありませんでした。
もはや人形でも石でも無くなった私は、臍に力を籠め、透徹した声で問いかけました。
「何時、何時発つのですか。」
「もう一週間もする内には必ず。」
「それなら、明日この場所に来ることは可能でしょうか。」
「ええ。大丈夫だと思います。どうするのですか?」
「形見が欲しいのです。貴女を忘れぬように。」
私は藤乃の仄かに汗ばんだ手を握り、熱を帯びた身体を、初めて確かなものに感じました。
――翌日、私は画材道具を持って岩倉山を登りました。そうして描いたのがこの掛軸なのです。絵を描くことに喜びを覚えたのは本当に久しぶりのことでありました。そして、藤乃への変わらぬ愛慕の証として、私は人物画を封印したのです。
あの日、全てが終わった刹那の夕焼けを、夕焼けに燃えた泡紫の花弁を、花弁に映える藤乃の姿を、私は今でも忘れていません。
「――それっきり藤乃と会うことは無いまま、今日に至ってしまいました。」
話が終わる頃には雨は止み、空は暮れなずんで、障子を透かすか弱い夕日が部屋を照らしていた。すっかり冷え切った湯飲みが紅色の光を受けて鈍く輝いているのだった。
「藤乃さんは、何故そんなに突然発つことになったのでしょう。」
「さぁ……実際聞きはしませんでしたから詳しい事は分かりませんが、まぁ、心当たりがないと言えば嘘になります。しかし、彼女はあえて私にその事実を言わないことにしたのですから、勝手に私が話すのも野暮というものでしょう。」
画家は席を立ち、私に背を向けて掛軸の前まで行き、誰に向かってでも無く語り始めた。
「歳を重ねる程に思うのですよ。私は狐にでも化かされていたのではないかと。全て私の妄想だったのではないだろうかと。大切な記憶だと思っていたのに、今では擦り切れてしまって、細かい事が思い出せないのですよ。あたかもキャンバスに積もった埃のように、ほろりほろりと零れてしまうのです。」
画家はこの記憶を毎日毎日繰り返しなぞっててきたに違いない。そうでなければ幾十年も前の思い出をここまですらすらと述べることができるはずが無い。それなのに、彼が今その大事な思い出を疑わざるを得ない理由は何なのであろうか。
歳だろうか。齢を取るということはそんな悲しい事なのだろうか。
私はその時、立派な和室が酷く伽藍洞なことを始めて意識した。
「今では、唯一の形見であるこの掛軸でさえ、老いた瞳には酷く濁って見えてしまいます。私の中には、ただ青春時代に燃え盛った愛の消し炭のみが、グズグズと燻っているのです。」
愁いを帯びた画家の声からは、彼の表情を推測することはできなかった。ただ固く握り締められた拳の皺だけが、彼の内心を伺わせた。
「――でも、今日貴女に初めて人にこの話をして分かりました。戻らない過去をいつまでも引きずるのは余りにも見苦しいでしょう。冒涜的とすら言えます。真実であろうが、妄想であろうが、私が彼女を愛する気持ちに偽りはないのですから、それでいいのです。どうせ老い先も短いのですから。」
力なく笑う哀れな老画家の背中を、私は無言で見ることしかできなかった。
習作 斑鳩彩/:p @pied_piper
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