習作2【葉桜】

 私が目を覚ましたのは、丁度車内アナウンスが終点の駅名を告げた時だった。

 未だ冴え切らない頭で乱れた装いを正しつつ、大きく口を空けて欠伸などをする。仕事の疲れが抜けきらないせいか、どうにも目覚めが悪い。しかし、ふと目を向けた車窓に、懐かしい町並みが広がっているのを見つけると、そんな重たい気持ちはどこかへ吹き飛んでしまった。

 近年はどうにも仕事の都合が悪く、この町の空気を吸うのは本当に久しぶりのこととなってしまった。今回のゴールデンウイークも本来は帰郷する時間なんて無かったところを、何とか予定を切り詰めて一日の休みを獲得していたのだ。母と約束した、なるべく早く帰ってくるという約束をなかなか果たせず心苦しい思いをしていたが、これでようやく顔向けができるというものだ。

 浮き立つ心で鞄を背負い、早々に電車のドアを潜ると、一番に大きく深呼吸をする。胸はにわかに、爽快な緑の香りと少々の切なさを含んだ空気で満たされる。そうして私は初めて、懐かしいこの場所に返ってこれたのだなという実感を知るのだった。あまり長く帰郷していなかったおかげで、いつもよりも感慨が深いように思わないわけでもない。

 気持ちも整えたところでホームの時計を見ると、まだ昼には程遠い時間だった。日帰りになることを考えてわざわざ始発電車を取ったのは正解だったらしい。昼飯は家で食べる予定だったが、この分だったら十分に間に合いそうだ。

 しかし、別に急がなくても良さそうだとなると、すぐに家へ向かうことが惜しいことのように思えてくる。

 何といっても、今日はこれ以上ないほど良い散歩日和だ。見上げた快晴には雲一つなく、空のお天道様は少し眩しすぎるほどである。ホームへと吹き込む風は私の頬をこそばゆく撫ぜて、まるで私を誘っているかのようだ。

 一瞬、折角帰郷したのに、両親と過ごす時間を捨ててまでだらだらと街を歩くのはいかがなものかとも思ったが、風と共に吹き込んできた街の気配の中に、これまで感じたことも無い、胸をキュッと締め付けるような〝青い〟寂寞感を見つけると、忽ち逡巡は何処かへすっ飛んでしまった。

 ……両親には申し訳ないが、久しぶりの再会はほんの少しだけ見送ってもらおう。

 そう決めると、私はすぐに改札を出て、駅前の通りへと繰り出した。



 ――――大方分かっていたことだが、町の様子は、私が知るそれとは大きく変わってしまっていた。

 数年前は賑やかで活気のあったはずの駅前の商店街は、今ではほとんど人影が見えず、固く閉ざされた冷たいシャッターがかなり目立つようになってしまった。期待していたものが大きかっただけに、あまりにも寂しい商店街の様子を見ているとなんだか心が痛んでくる。そんななかでも、学生の頃足繁く通った古本屋を通りかかった時に、私のセピア色がかかった記憶の中にあるのと全く同じようにして、店主のお爺さん――――私の記憶の中に住む彼よりかは、少しだけ額の皺が増えていたように思う――――がカウンターの椅子で本のページを捲っているのを見ると、少しだけ救われたような気がした。余程店の中に入って見ようかと思ったが、今それをしてしまうと、それだけで全ての時間を使い果たしてしまうような気がしたのでやめた。

 時間が経つのはあっというまで、気付けば、私は既に商店街を抜けてしまっていた。

 そこから真っすぐ道なりに行けば実家につくのだが、あの痛々しい商店街の様子をみてしまった後ではどうしてもそんな気分になれず、まだ少しだけ遠回りをしようと靴の先を左に向けた。

 当て所ない足は漫ろに町の奥へ奥へと進んでゆく。

 不思議なことに、この足は私が何も思わずとも、私が求めている行先を知っているかのようだった。私がそのことを明確に認識したのは、とある細い裏道を前にした時だった。

 本当に奇妙で、表現しづらいのだが、敢えて何一つ脚色せずに叙述するならば、〝私は自分の亡霊〟を見た。もう少し分かりやすく噛み砕いていうと、それは私の記憶の中にある、幼き日の自分がその道を駆けてゆく様子を、少し後ろから眺めていたのだ。

 でも、私にはやはりそれが〝亡霊〟であるようにしか思えなかった。

 私の中では、既に〝彼〟はセピア色のフィルムの中でのみ生きる存在となっていたからだ。私にはあれほど無垢な笑顔を浮かべることはできないし、あれほど軽やかに道を駆けることなんてできない。

 まるで影法師のような真っ黒いスーツに身を包み、大して中身が入っているわけでもない通勤鞄の重さに押し潰されそうになりながら、常にどんよりとした心模様で道を歩く日々。こんな惨めな私の何処に、あの無垢な彼の存在があるのだろうか。そもそも、過去を顧みて、「あの頃は良かった。」なんて冷笑するところに、あの頃なによりも忌諱したダサい大人の風采が曝け出ているというものだ。

 それでも、私が実体のない彼の背中を追い始めたのは凡愚の性というものだろうか。それはまるで誘蛾灯に引き寄せられる惨めな蛾のようで――――、朝露が浮かぶと共に消えていった彗星の欠片のようで、嘗ての轍を辿るのはいけないことだとは分かっているのに、進み始めた足は止めることができなかった。

 私は一心不乱に走った。この草臥れた体の一体どこにそんな力があったのかと、後から思えば不思議なことであったが、その時の私にはそんなことを考える余裕すら無かった。

 追いかけっこの終わりは、始まりと同じように唐突だった。

 私は何時の間にか公園の入り口に立っていた。

 息を切らしていたわけでもなく、鼓動もいつも通り、平常だった。本当に、夢の中からぽつんと取り残されしまったかのように、ただそこに立っていた。そして私はそのことに大した疑問を持たず、当然のように公園の中へと入っていった。

 そして一歩遅れて気付く。そこは、忘れもしない、私が子供の頃によく遊んだ公園だった。友達皆で沢山の思い出を作った場所であり、私の子供時代のかなり多くの割合を彩った場所と言っても過言ではない。

 そんな大事な場所のことをすぐに思い出せなかったのは、あまりにもその場所が様変わりしてしまっていたからだ。

 シーソーや回転ジャングルジムなど、昔よく遊んだ遊具は軒並み撤去されていて、残っているのはブランコと小さな滑り台が一つだけだった。なにより、私の記憶の中ではいつも沢山の子供がいた公園から、全く人の気配が消えていた。こんな休日の昼間だというのに、子供が、一人もいないのだ。

 私はあまりの衝撃に、危うく膝をつくところだった。幼き日への希望が、憧憬が、軒並み崩れてゆく音を聞いた。本当に、私が知るこの街は何処かへ消えてしまったようだ。

 そんな中、私の心を最後まで引き止めたのは、公園の中心に立つ一本の桜だった。

 花弁はもう一枚も残さずに散ってしまっていて、色味の無い葉桜となっていた。子供の頃は、ほんの僅かな間に花が散ってしまった葉桜に対して面白くないと腹を立てはしたが、今はあの日とまったく同じようにして咲いているそれに安心感すら覚えてしまう。

 そういえば、高校の授業で、何処かの僧が、〝桜は満開の時だけを見るものではない〟なんてことを言っていたなあ……と思い出す。そしてその言葉が、意図せず今の自分を正確に咎めているような気がして、不思議と、どうしようもなく笑えてきた。

 どれほど愚鈍であるか理解していながら、また高望みばかりをしていた自分を笑った。公園に誰も居ないことを良いことに、とにかく声を上げて笑った。途中で虚しさが込み上げてきたが、それすらも飲み下して笑いに変えてしまった。

 一頻り笑うと、ふさぎ込んでいた気持ちは何処かへ消えてしまったようだ。

 私は遂にその葉桜に背を向けると、両親が待つ実家への道を辿り始めた。

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