8

 目の前が真っ白になる程、身体全身を燃やし尽くさんばかりに滾る怒りから、ケラティオンが正気に戻った頃には、すでに取り返しのつかないことになっていた——否、引き返そうと思えば出来ないことはない。実際にこの闇蟲ごきぶりたちの中に足を浸からせて、傷一つつかなかったことは確認済みだ。だが相手は小さな闇蟲だけではない。彼の斜め前上空を不格好な翅でゆっくりと飛んでいる闇蟲怪人がいるのだ、仲間と合流するために背を見せた瞬間、チームメイトであったあの二人を傷つけたと言われる、破壊的なタックルを仕掛けられかねない。


 彼は守りに関しては一家言あるが、未知数の相手へ不遜に挑み予想外の出来事が起こることなど往々にしてありうると知っている。彼はヒーローとして活動してきた経験上、否が応にも大胆な行動はとれなかった。事実、怒りに我を忘れ、仲間との統率を乱したからこそ、こうして追い詰められているのだ。これ以上の慢心は身を滅ぼすだろう。


「クソがっ。こいつどこまで行くつもりだ……」


 全身を七色に輝かせ、非常に硬質的な外見と化したケラティオンは、先程から右へ左へ、あっちへこっちへ、漫ろに飛び続ける触角の長い怪人の後を追うばかりでうんざりしていた——彼が冷静になった理由の一つでもある。


 その怪人がようやく止まり、片方は大きく、片方は破られたかのような歪な形をした翅をしまい着地した頃には、臨時であれ仲間のアヴァンチュルズとかなりの距離が開いてしまっていた。


「ようやく俺と殺し合う気になったか、闇蟲が」


 全身から溢れ出る怒りは、しかし声には表れない。その奇妙さが何とも不気味だった。


 ただ不気味なのは相手もそうだ。着地したこの場は特に何があるというわけでもない、普通の道だった。特別大きな闇蟲がいたりだとか奇襲を仕掛けられそうな立地だとかではない。何を目的にケラティオンをここまで連れ出したのかは、皆目見当もつかなかった。

 怪人はケラティオンの言葉を無視して、一時停止標識の柱を握ると力任せに引き千切った。


「おぉ良いねぇ。武器にするってか? 何でも良いぜ、かかって来いよ。お前は一生俺を傷つけることは出来ねえ——まぁ、その一生も後数分だけどな」


 手に取った標識をしげしげと見つめる怪人へ、ケラティオンは闊歩して近づく。その堂々たる歩みの中に張り巡らされた意識は、流石のヒーローと言えるだろう。油断によって怪人に敗北してしまったら、病院にいる仲間に何と報告したら良いか。ケラティオンは二人の顔を思い浮かべ、より一層気を引き締める。


 怪人はそれを武器とすることに納得したのか、振りかぶりながら突進してくる。致命傷になりうる速度で振り下ろされた標識はけたたましい音を発しながら、大きく拉げて地面へと落ちた。


「イテェじゃねえか。硬いからって痛みを感じないわけじゃねえんだぜ? こんな時はナーサディがフォローしてくれんだけどよ……」


 頭を擦るケラティオン。脳裏に浮かぶのはことあるごとに茨の付いた鞭で頭を叩いてくる仲間のことだ。


 そして次はケラティオンの攻撃だ。両手をがっちりと組み天高く掲げる。すると、その手は混ざり合い一つの鎚のような形となった。そして全体重をかけて振り下ろすと、そこに怪人はおらず、大きく地面を割った。


「こんな大振りじゃ当たらねえよなぁ……。つくづくトースターに頼ってたってことが浮き彫りになるぜ……」


 彼が敵の注意を引き付けてくれれば、どんな大振りの攻撃だって容易く当てられた。ケラティオンは自嘲気味に鼻で笑うと、怪人を強く睨む。


 闇蟲怪人は難なくケラティオンの攻撃を躱している。続けて、素早い怪人は一方的にケラティオンへ攻撃を繰り出す。

 痛みは多少あれどダメージとしては微々たるものすらないケラティオン、されど彼の攻撃は一つとして怪人には当たらない。


 両者ともに致命的な攻撃のないまま、虚しい応酬が続いた。


「クソがよ。キリがねえなこれじゃあ」


 己の弱点に直面した彼は、一旦攻撃の手を止める。

 ケラティオンのパワーであれば一度当てることが出来れば優勢に傾く程の影響を与えることが出来るだろう。しかし速度が緩慢であるが故、掠ることすらままならない。


 対して闇蟲怪人は、スピードもありパワーも申し分ない。だが、ケラティオンの鉄壁の守り故、致命傷を与えることがままならなかった。


 これでは埒が明かない——ケラティオンは一度撤退するかと画策し始める。アヴァンチュルズと合流することが叶えば、この程度の怪人、問題なく倒せるだろう。一人で勝てない相手でも仲間がいれば勝てる、それは彼自身が身をもって体感した事実である。


 ケラティオンは湧き上がる激憤を不甲斐なさで包み込む。そうして、踵を返し敵に背を見せた。

 それは勝つための最も利口な判断だ。決して逃げているわけではないのは、一部始終を見ていたものであれば致し方ないと理解出来る。しかし、そうであったとしても、敵前逃亡と捉えられてしまうこともまた、致し方ないと言わざるを得ない。


「おいおい、ンだよ逃げんのか? テメェそれでもヒーローかよ!」


 そんな声が聞こえても仕方がなかった。


「誰だ?」


 ケラティオンは歩みを止め、声のした方向を睨む。闇蟲怪人も——その音の正体を確かめるためというより、音が鳴ったから反射的に向いてしまったというような動きではあるが——ケラティオンと同様に顔を向けた。


 建物と建物の間から姿を見せたのは、闇夜に溶け込む黒いガウンコートに身を包んだ人物だった。顔は嘴を思わせる円錐に近い形状の突起がつき、その根元は円形に膨らんでいる。目の周りは透明度の低いガラスに覆われているのか、光を反射するばかりで相手の眼は一切見えない。


 まるでガスマスクだ——ケラティオンはそう思うと同時に、奴の正体——彼女の名前を思い出した。


「貴様は、ヘルモントか」

「ンだよ、もしかして俺は有名人か?」


 もう一歩二歩と前進すると、彼女の姿がはっきりと見えた。


 間違いない——出動許可がない限り決して表舞台どころか裏舞台にも立たない、異例のヒーロー、ヘルモントだ。ふざけたくらい奇抜なピンク色の髪の毛と、怪しい格好が証左である。

 闇蟲怪人は突然の来客に何を思ったのか、ケラティオンを無視してヘルモントへ駆け出す。立てられた爪を見るに、握手を求めているわけではなさそうだった。


「来んなよ、このクソ間抜けが!」


 彼女はガウンをはためかせその後ろに隠れるようにして姿を消す。

 怪人は構わずガウンコートを貫いた。だが怪人の手には血肉は見当たらない。代わりに濃い煙を掴んでいた。

 当のヘルモントはというと、斜め上方向に跳んで怪人背後へと回っていた。背の低い怪人だからこそ、容易に頭上を飛び越せてしまうのだ。

 ガウンコートを脱ぎ捨てたヘルモントは、ケラティオンの下へと向かう。目くらましのためのアイテムが無くなった以上、避けるのは困難、ましてや気休め程度の薄い装甲を剥がした今では、防御を主とするヒーローの後ろに陣取るのが賢明な選択だろう。


「おっ、お前! なんだその格好!」


 溜まりに溜まった怒りが爆発した時と同じくらいの声量で、ケラティオンは驚いて見せる。彼の眼はヘルモントの身体に縛り付けられていた。


「あぁ? 格好なんかどうでも良いだろうがよ。つか、俺なんてまだまともな方じゃねえか、テメェの身体の方が十分おかしいぜ?」


 ヘルモントはその姿を惜しみなく晒し、自分のことを棚に上げてケラティオンの姿を嘲笑する。確かに全身が宝石のように輝き硬質化しているヒーローはまずいない。変わった風貌だと揶揄されるのは仕方のないことだろう。彼もそのことについては理解しているし、また、言われ続けているので、今更どうこうするつもりはない——そもそもどうすることも出来ないのだが。


 しかし、彼女の格好も大概だった。というより、ヒーローとしてどころか、人間としてモラルに欠ける大胆な格好だった。


「良くねえだろ、下着姿じゃよ。見られて嫌じゃないのかよ……」


 彼女の格好は紛うことなき下着姿だった。黒色の下着だ。少しだけ刺繍の入った下着だ。面積が少ない下着だ。流石に隠すポイントだけを覆っているような際ど過ぎるものではないが、それでも非常に扇情的な下着だ。

 上下ともに下着しか着用していない彼女に、ケラティオンは精神的にも身体的にも、一歩退かざるを得なかった。


「まぁ見てほしいわけじゃねえけどよ、見られて減るもんでもねぇし。だからと言ってジロジロ見んのはイラつくから止めとけ。間違えてテメェまで殺しちまったら、どやされんのは俺なんだからよ」


 ヘルモントは右手を広げて見せる。その手からは良い色とは思えない煙が湧いて出ていた。ケラティオンはその煙を見てたじろぎ、さらに一歩退く。


「ほら、さっさとお家に帰んな。お前のお仕事は終了だぜ?」

「は? お前何言ってんだ」


 軽い口調で言ったヘルモントは手をひらひらと力なく振って、怪人の下へ散歩でもするように向かった。ケラティオンは当然、これからが正念場だと思っていたのだ、そのようなことを言われて、はいそうですか、と帰れるわけもない。


 連続して怪人の攻撃を喰らっていたケラティオンだから分かる。ヘルモントのような華奢な体では、あの闇蟲怪人の攻撃が掠っただけでも致命的だろう。そんな彼女が無防備に悠々と伸し歩く様は、自殺行為にしか見止められなかった。


 ヘルモントを止めるため、ケラティオンは声を掛けようとする。いつ怪人が起き上がり攻撃に転じてくるか分からないのだ。いつまでも地面に寝そべっているわけがないのだから——そこで遅まきながらようやく異変に気が付く。


 怪人は身体を痙攣させ、必死に立ち上がろうと身体を動かしているが、上手く力が入らないのか、肘や膝を伸ばすことすら叶わない。その様子は、何かの神経毒に蝕まれているようだった。


「ヘルモント、お前既に何かしていたのか」


 ケラティオンは感心したように、前を歩く彼女へ言葉を投げかける。


「まさかあれだけでここまで弱るとは思ってなかったけどよ——つっても、人間だったら触っただけで腐り落ちちまうような猛毒なんだけどな」


 再び手から煙を出すヘルモント、その煙をグラスへ注ぐように、怪人の頭へと流し込む。


「こっちのガスはもっとヤベぇぜ? どんくらい持つか見物だ」


 そう言うヘルモントの声色は、喜色に満ちていた。表情は全く見えないが、間違いなく笑っているに違いない。子どものような——悪魔のような笑みを浮かべているに違いない。


「折角視認出来るよう色付けしてんだ、ちょっとくらい避けてみやがれよ」


 しゃがみ込んで怪人との距離をより一層近づける。ガスマスクと怪人の顎との距離は拳一つ分もない。

 それから十秒程経った時、不意にヘルモントが立ち上がる。彼女の手からは不気味なガスの放出は止まっていた。


「あん? まだいたのか金ピカ男。見ての通りもう死にやがったよ。テメェはさっさと帰れっつーの」

「……お、お前は、ヘルモント。お前は帰還しないのか?」

「周りを見てみろって、大男。この闇蟲たちを始末してくれるってなら俺だって喜んで帰宅するぜ? そこの建物の裏に晩飯だって置いてあんだ——おにぎり一つと飲みもんは道中で食べ終わっちまったけどよ——でもどうだ? テメェらにこいつらを殺すだけの力はあるか? ねぇな、からっきしにねえよ。だから俺がやるっつーことだ。適材適所ってやつだよ。そして、俺は敵味方見境なく屠る。だから帰れってつってんだよ」


 ヘルモントは簡潔に捲し立てると、黒いガウンコートを手に取り砂埃を叩いてから再び身に纏わせる。

 彼女の言う通り、これ程の夥しい闇蟲の量をどうにか出来るヒーローは現在出動していない。ケラティオンは一対一であれば防御や多少攻撃も貢献出来るが、これだけの相手では多勢に無勢だ。

 範囲攻撃を主とするヘルモントが後処理をするのが最も効率的だろう。


「……まさにその通りだな。ヘルモント、協力感謝する」


 適材適所——常日頃から背広を纏い、お洒落目的なのか可愛らしい蝶ネクタイをつけた、七三分けの髪型をした男——日傘ひがさつかさ、またの名をトーストマスター、彼がよく口にする四字熟語を聞いて、ケラティオンはハッとした。


 自分が成さなければならないことは何なのかを思い出させてくれたのだ。


 それは復讐に捉われ、無為に独走して周囲を危険にさらすことではない。全くの逆だ。守りの薄い仲間の下について、あらゆる被害からその仲間たちを庇うこと、危険から守り抜くことが、ケラティオンが胸中に秘めている使命だった。

 それを自分の弱さで見失っていた。だが、彼女、ヘルモントの一声で見つけ出すことが出来た。


 喋り口調や態度からガサツな人間で、責任感などないように思えたが、考えることはしっかりと考えており、自分の使命というものを理解している。人は見た目に寄らないという言葉を、改めて認識したケラティオンは、自分が何も出来ない分、労いで報いようと礼を言った。その礼には、当然自分の道を照らしてくれたことに対しての意味も含まれていた。


 その言葉にヘルモントは目も合わさず——ガスマスクに覆われて合うわけもないのだが——ガウンをマントのように翻して後姿を向ける。


「ヒーローが当然のことをしただけだろ? いちいち感謝すんなよ鬱陶しい」


 ヘルモントは登場してきた建物と建物の間へと戻っていく。光の届かないそこは闇で満たされており、もう一体闇蟲怪人が現れそうな気がした。

 当然、目の前で生命活動を停止してしまった闇蟲怪人がいるのだから、もう一体などありえないが——ケラティオンは何故だか拭えない不安を抱えていた。


 まもなくして、ヘルモントがコンビニ袋を手に提げて戻ってくる。


「テメェまだいんのかよ……。何? 俺のストーカーか何か?」

「ふざけたことを言うな。お前に訊きたいことがあったんでな」


 ケラティオンはヘルモントに近づきながらわけを話す。


「ンだよ。つか近寄んな気持ちわりぃな!」

「明日の予定は空いてるか?」


「……は?」


 突然の質問に、ヘルモントは素っ頓狂な声で聞き返す。

 ケラティオンが更に言葉を紡ごうとした瞬間、どうやら通信が入ったようだった。耳元に手を当てて一言一句漏らさないよう耳を欹てている。


かむろ指揮官……?」


 特に意識していなかったのだろう、不意に洩れたケラティオンのつぶやきに、ヘルモントが大きく反応する。

 全人類で最も忌み嫌う人物、その名を聞くだけでも非常に不愉快になる。そんな彼女は、ケラティオンの質問の意図を聞く前に、有無を言わさずその場を去ってしまった。


 残されたケラティオンは、ヘルモントを止めようとするが、彼女の確固たる信念を覚えさせる背中と、耳元で聞こえる衝撃的な事実の板挟みにあい固まってしまう。そして、通信を最後まで聞き終わり、彼は逡巡する。


 果たして彼は、ヘルモントとは逆方向へと走り出したのだった。

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