4-2

 レイナは苛立たし気に携帯電話を取り出した。


 彼女の携帯電話に掛けてくる人間はそういない。連絡先を知らないからというのが最たる理由だが、知っている人間でもわざわざ怒鳴られに電話をする人間がいるはずもない。

 レイナに連絡を取ろうとするのはHSCOの指揮官か、その取り巻きであり、母親代わりを自称する鬱陶しい女だけだろう。その予想はディスプレイに映し出された発信者の名前を見て確信へと変わった。


 出ようか出まいか、レイナは遅疑逡巡する。長い思案の果てに出てみることにした。


「ンだよ……」


 レイナは電話に出てしまったことを後悔した。何せ今電話越しにいるのはあの腹立たしい男ではなく、要らぬ世話焼きの厚かましい女だ。つまり、あの男は自分自身で彼女へ連絡することを拒んだわけである。


 ——そんな腰抜けの組織に従う必要ねえじゃねえか……。

 しかし考えたところで後の祭り。


「あっ、もしもし? 若葉わかばです、久しぶりですね」

 市熊いちぐま若葉は珍しく距離を感じさせる敬語を用いて対話に応じた。


「で? 何の用だっつってんだよ」

「あの、電話代わっていいですか?」


 若葉は用件を詳しく言わずに、感情を殺して機械のように淡々とレイナに許諾を求めた。

 レイナは少し疑問に思う。恐らくこの連絡はつい先程なった警報と関係があるものだろう。つまりお遊びの電話ではなく仕事の話ということだ。であれば事務的な喋り方も距離感を覚えさせる口調も納得するものである。ただし、業務的な関係しか持っていない間柄の場合に限る。


 レイナと若葉——というより、若葉は女性ヒーロー全員と非常に親しくしている——は仕事の要請であっても、砕けた話し言葉であるのが今までのやり取りだった。だが、今回に限っては違う——趣きと覚悟が全く違う。


 レイナは今回の怪害について、何かよくないことが起きているのでは、と一抹の不安が過ぎった。

 だからと言って、あの禿頭にサングラスというガラの悪い指揮官と話をするだなんてことは、否が応にも避けたいことだ。折角幸せな気持ちでいるのだから、この気持ちのまま寝かせてほしい。


 若葉の言葉にレイナは嘲りを含め鼻で笑った。


「やなこった。てめえの話を聞く義理はねえよ」


 それだけを言ってさっさと電話を切ろうと、耳から携帯電話を話し掛けた瞬間。


「私もそう思います。じゃあ代わりますね」


 そんな声が小さく聞こえてきた。周りは人もいなく閑散としている。小さな音でも残念なことに拾えてしまった。

「はぁ? 何言って、ふざけんな殺すぞ!」


 レイナは周章狼狽した。若葉の予想外の反撃に何と返事をすればいいのか分からず、いつものようにただ粗暴に悪口雑言をぶちまける。

 そうして慌てているからというのもあるだろうが——問答無用で電話を切らないのがレイナらしいともいえる。


 諦める他ないだろう。彼女は徐々に膨らんでいく憤怒を薄い膜で包む。

 しばらく電話から沈黙が漏れた。まさか怖気づいて電話から逃げまどっているのではないか? レイナはそう考え、だとしたらどれ程愉快な情景か、とゲームセンターの女店員曰く、悪だくみをしているような笑みを浮かべていた。


「あ——私だ」


 しかし、滑稽な想像はあくまで空想で妄想だ。当然あの指揮官がそんな無様な行いをするわけがない。彼は蛇のように狡猾で獰猛だ。弱点を見せるようなことはほとんど無い——彼の妻が死んだときでさえ悲しむ素振りを一時も見せなかったのだから。


「——チッ。あぁ」


 彼の声を聞くだけでも腹立たしかったが、かと言って一度つながった会話——と呼べるものでなくとも——を断ち切るのは気が引けた。何しろ、若葉のあの調子だ。もしかすると本格的にまずいことが起きているのかもしれない。


 レイナは反骨精神の塊みたいなものだ。指揮官の命令があれど、あらゆる罵詈讒謗を吐露しながら断固とした拒否を示す。だが曲がりなりにもヒーローなのだ。人類の危機とあらばレイナに戦う以外の選択肢はない。もし今回の怪害が未曽有の事態にまで拡大しているのであれば、出向くことだって吝かではない——程でなくとも、二つ返事で許諾の意を示しても良いと思っている。


 であれば、彼の話を聞くのも悪くはないのだろう。何しろ彼女は、指揮官からの出動要請がない限り異能力を使うことを許されていない——自由意志だが、もし許可無しに異能力を使った場合、怪人として討伐対象になると通告されている。


 故にレイナは、ここで指揮官から情報を聞き出し、危機的状況に陥っているようならば出動の許可を貰えれば、と考えていた。

 しかし、彼からの返答は一つも来ない。電話越しにいる気はするが、喋る気配がない。もしや、このまま黙っているつもりなのだろうか?

 異常事態なら彼と彼女の関係を度外視してでも、指揮官として、一人のヒーローとして命令を下すべきだ。


「ンだよ! イタ電か? ぶち殺すぞ」


 まるで言いたいことをもじもじと臆して言えない子どものようだと、レイナはもどかしさを爆発させた。薄い膜は泡沫の如く弾けて消える。

 ここまでふざけた児戯に時間を使う余裕はない——否、概念的時間は暇なレイナだ、余りある。しかし精神的な余裕がない。


 感情的に怒鳴り散らして、それでも何も語らないようなら電話を切ってやろうかと考える。

 何か反応はあるかと受話口に集中する。そこからは何かが漏れ出ていた。それが電話を切られるかもしれないと慌てた息遣いだということは誰もが分かるが、レイナ同様、内に秘めていた怒りが爆発的に膨れ上がり許容量を圧倒的に凌駕して漏れ出ていることが、レイナには分かった。


「口を慎め! お前は今上司と話しているのだぞ! それが目上の人間に対する——」

かむろさん! そんなこと言ってる暇があるんですか!?」


 結局は何も変わらず、いつもの通り口喧嘩をして終わりだ、どこか俯瞰的にそう思っていたレイナは、猛々しく叫ぶ若葉の声に驚く。それと同時に、あの堅物で強面な男が、年下のひ弱で簡単に流されてしまいそうなあの女に諭されているところを想像すると、嫌でも笑いたくなる。


「怒られてやんの、だっせ」


 侮蔑を述べて相手を貶す。憤怒の感情より、それを用いた後に訪れる愉悦の感情の方が生き心地が良いものだ。

 相手の男も自身の軽率な行動を恥て悔いているようだ。非を認めるような嘆息が聞こえる。


「……実は、頼みがある」


 指揮官は珍しく声の調子を落とし、そしてこれまた珍しく『頼み』という言葉を使った。

 レイナは心が徐々に希薄になるのを感じた。熱く滾るような怒りや、畏怖すら覚える諦観ではなく、虚脱だった。


「……誰にだよ」


 そんなこと聞かなくても分かる。話半分で聞いていても、誰に頼みごとをしているかなど明白だ。

 しかしレイナは訊ねる。その頼みを『誰』にしているのかを。


「お前に決まっているだろう」


 冠は端的に答えた。齟齬はなかったし分かりやすく確定的な答えだった。


 だが——レイナにとっては間違いだ。


「そうかい——嫌だね」


 それだけ伝えると、間髪入れずに電話を切った。


「ふざけんな、クソが……」


 その小さな声は閑散とした街には響かない。


「何が頼みだ。何がお前だ!」


 レイナは吠えるように感情を吐き出すと、手に持っていた袋を中の食べ物ごと地面へ叩きつけた。ペットボトルが音を立てる。レジ袋がカサカサと高い音を出して、その形を自由自在に変えていた。

 怒鳴り声がある記憶を呼び起こす。あの憎たらしい男が怒鳴った時に、諫めるように叫んだ若葉のことだ。


 視線を感じたレイナはハッとして周囲を見る。やはり人はいない。だが、ここはコンビニの前だ。

 コンビニは外から中が見えるよう大きな窓が設けられている。それは中から外も窺えるということである。そして、警報によってコンビニの中へ避難している人がいたのを思い出す。


 レイナは恐る恐るコンビニへと目を向ける。すると案の定、雑誌を立ち読みしていたであろう男性が、ぽかーんと口をあんぐりさせてこちらを凝視していた。

 レイナが般若のような形相を作り睨み返すと、その男性は慌てたように目を逸らし、雑誌へと目を下ろす。


 憎々し気に携帯電話をポシェットへとしまう。無様に転がっているレジ袋を手に取ると、大きなため息を吐いて自宅方面へと歩き出した。

 先程の記憶が繰り返し頭の中で再生される。未だに消えない怒火に、レイナは身を焦がされている思いだった。チリチリと内側から炙られている感覚に気が散り上手く頭が働かないためか、延々とその音声を聴くことになった。


 このままでは良くないと、レイナはペットボトルを取り出し、勢いよく水を飲んだ。「っぷはぁ」と口を離した時には、すでに半分程の容量になっている。

 身体の内から冷えていく感覚がする。少しばかり冷静に戻ったようだ。


 しかし、彼らの用件とは何だったのだろうか——それくらいは聞いてもよかったかも、とレイナは遅ればせながら考える。若葉があれ程焦燥している様子は初めてだった。それにあの男が頼みごとをするのも滅多にないことだ——それを望んじゃいないが。

 何か良くないことが起きていることはまず間違いがない。そもそもレイナを出動させる可能性が出ているだけで相当なことだ。


 ——でもまあ、あの化け物の二人がいれば大概どうにでもなるだろう。

 楽観的な思考で落ち着かざるを得なかった。それでもどこか不安を感じる。レイナは「クソっ!」と口癖を吐き捨ててポシェットから再び携帯電話を出した。


 手早く操作し、現在どんな怪害が発生しているのかを調べる。その情報はすぐさま出てきた。


「……蟲?」


 レイナは今回の事件の正体を知り、肩透かしを食らった気分だった。

 たかだか蟲の大量発生ではないことは勿論分かっている。怪人の仕業なのだろう。昔にもそういった生物の行動を操る怪人もいないことも無かった。恐らくそういった類だ。

 だが、蟲? それともこれとは関係のない別の怪人?


 レイナは未だに納得出来ない様子だった。

 確かに今関東を中心に活動しているヒーローに、広範囲に攻撃出来るヒーローは少ない。それこそ化け物の二人とレイナぐらいなものだ。だからこそ、そんなもの、その二人がいれば片が付く話である。


 では何故?


 紅い方なら、確かに蟲と聞いて拒否することは想像出来る。だが蒼い方は蟲ぐらい何とも思っていないだろう。ということは、蒼が怪人と戦い、その間レイナが街中に蔓延っている小さな害虫どもを殲滅させるとかそういう作戦なのだろうか。

 それなら頷くことも出来ようものだが、しかしやはりただの蟲だ。強力な殺虫剤でも撒いておけばそれだけでいい気がするが……。


 レイナはHSCOの対応の悪さに辟易としていた。より深く調べていると、現在の状況をリアルタイムで映し出しているページがあった。もはややる気もなく帰る気満々であったレイナは、敵情視察といった気持ではなく、単純な暇つぶしとしてそれを見ることにした。


「……何だ、これ」


 そこには一面が黒々とした映像が映し出されていた。しかし映像が読み込めていなく、黒画面を映しているだけではないことだけは分かる。その漆黒な闇は黄昏時の僅かな黄金色の光を反射している。確実に凄惨な映像は流れていた。


「これ全部が蟲だってのか……?」

 レイナは驚愕を顕わにする。そこに映っているのは想像も絶する驚天動地の出来事だからだ。

 光を貪り喰う漆黒の傀儡、それはまさに闇よりいでし蟲だった。


「——闇蟲ごきぶり……」


 レイナはそいつらの名前を呼ぶ。人類の敵と称される恐るべき昆虫の名前を。

 その冒涜的なまでの有様をみてレイナに悪寒が走る。これが今現在発生している怪害。ここまで大規模な怪害はレイナが生きている間には一度としてなかった。


 なるほど確かに、レイナへ出動を要請——今回は依頼だったが——するのも頷ける。怪人とヒーローと紙一重な位置に存在するレイナを頼る事態であることは間違いない。

 ギリリと歯を食いしばる。もっと冷静に指揮官の話を聞くべきだっただろうか——否、今更そんなことを考えたところで詮のないことだ。

 今はこの事態に対してどう出るか。


 ——レイナはヒーローだ。曲がりなりにもヒーローなのだ。


 レイナは走った。家がある方角を背にがむしゃらに走った。厚底のブーツは非常に走りにくかったが気にせず走った。スカートの裾が走る足に当たり鬱陶しいし転びそうになるが、それでも走った。


 それが彼女の——ヒーローのやらなきゃいけないことだから。

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