3-2

「本日正午過ぎ、市民より通報がありました。内容は『下水道に大量の害虫が発生しており、一人が襲われ安否不明』とのことでした」


 若葉わかばは簡潔に要点のみを説明していく。


「至急ヒーローを派遣しようかといたしましたが、すぐ駆けつけられるヒーローが、ナーサディとトーストマスターしかおりませんでした。しかし、害虫だけでは怪人か否かは判別出来なかったため、調査ということも踏まえ、先程名を挙げた両名に出動していただきました。ですが、その判断が早計だったようで、想定以上の戦力を有していた怪人が現れ、状況、立地、ともに不利な状態であったこともあり、両名ともに多大なダメージを受けたため撤退をしました」


 このあたりの話は、遥登はるとからの又聞きと同じ話だ。ともえはその先の話を聞き逃すまいと、耳をそばだてて注意力をより高めた。


「ナーサディから得た情報によりますと、怪人の見た目は——小学生低学年くらいの子どもの身長であり、全身が黒く覆われた怪人だそうです。攻撃方法は大雑把なものばかりだったそうですが、どの威力も速度も桁違いで、油断してはいけない相手、とのことでした」


 ヒーローたちは絶句を禁じ得なかった。長年ヒーローをやり続けている赤胴着の老人ですら、「ほぅ?」と顎髭を撫でながら、不思議そうな顔をしている。


「本当に小学生くらいの子どもだったんですか?」


 老人の隣に座る短髪の男性が、老人の意見を代弁したかのように訊ねる。


「はい、そうだと伺っています」

「見間違いとかではなく?」

「もちろん暗い中での戦闘でしたからはっきりとはしていないでしょうけれど、大まかな身長を間違うことはないと思います。それにナーサディは、怪人の体当たりを直接受けているとのことですので、まず間違いないかと」

「なるほど、分かりました……」


 これだけ断言されているにも拘わらず、未だ不承不承であるのは、何も彼だけではなかった。

 その場にいる——無表情を貫き通す紺碧あおいと陰々鬱々とした男性、その隣に座るポケ—っとした坊主頭の男とやる気の無い美波みなみを除く——八名が不可解だと感じている様子だった。


「子どもの怪人なんて見たことや聞いたことありますか? 義虎丸ぎこまるさん」


 芯の通った優しき声でそう言ったのは銀次郎ぎんじろうだった。


「子どもをどう定義するかにもよるがのぉ。中学生くらいのガキの怪人なら会ったことがあるぞ。じゃが、小童な怪人とは……俄には信じられんのぉ」


 義虎丸は銀次郎を見ずに、漠然と前方を見て、相も変わらず髭をなで続けている。


「確かに前例はないが、だからと言って我々の目的が変わるわけではない。怪人は殲滅、それが子どもであろうと老人であろうと、善良なる民に害為す存在というのであれば、容赦なく殺す。で、話はそれだけか?」


 覚悟を決め切ったかむろは、ヒーローたちが余計な思慮を生まないよう、強い口調で言いくるめる。もし子どもだという遠慮を持ったまま怪人に出くわし、ナーサディやトースターのように甚大なる被害を被っては、作戦会議を開いている意味がない。

 冠は指揮官として然るべき態度を心がけていた。


「今のが我々の知りえる情報だ。次に今後の作戦について簡潔に説明する。市熊いちぐま——この地図に見える赤い箇所、ここが今回の怪害予想ポイントだ」


 冠の声により若葉がリモコンを操作する。すると画面に半透明な赤い円が現れた。それは周囲の建物を覆いつくし、かなりの広さであることが分かる。


「怪人は自身の強さもさることながら、大量の害虫を傀儡としているらしい。この予想範囲はかなり大きめに見ているが、もしかするとこれ以上に範囲は拡大する可能性はある」

「はいはいはい! あのーさっきから害虫害虫と言ってますけど、具体的になんなんです? まさかGじゃないですよね?」


 話の途中であったが、どうしても聞かずにはいられなかったようで、義虎丸についてきた坊主頭の剽軽な男が、片手をまっすぐ綺麗に掲げて、中途半端でむしろ失礼な敬語を用いて訊ねた。


「おい二号! だから敬語がなっていないと言っているだろう! 師匠に恥をかかせるな」


 短髪で毅然とした態度の持ち主である彼は、二号と呼ばれる常にニヤリと笑った坊主頭の男へ喝を入れる。義虎丸は呆れた心持ちをわざとらしく表情に顕してて見せ、尚も正面を向き続けた。


「良いじゃないですかー。いつも師匠とか一号さんにはこんな感じじゃなですかー。今更直せは無理ってものですよー」

「うぉっふぉん! 内は内、外は外じゃ、弐ぃ。すまんの、礼儀知らずで。じゃが確かに害虫と一口で言っても種類は豊富じゃ。知ったとしても大して変わらんじゃろうが、しかし知らないことでワシらに被害が出ては、堪ったものではないからのぉ——転ばぬ先の杖じゃな」


 大きく咳払いをすると義虎丸が間に入る。そして二号の質問にもフォローを入れると、何処とも分からぬ宙を彷徨ってた視線を冠に向ける。その眼光たるや、見た目や態度からは想定しえない苛烈な輝きを秘めている。一息に爆発するように膨れ上がった圧迫感は、歴戦のヒーローだとしてもピリピリと肌に違和感を覚える程だ。


 そしてその気に中てられた冠だが、太くたくましい両腕を組み仁王立ちしてそれを全身で受け取る。冷厳な表情を一切崩すことなく口を開き義虎丸たちの質問に答えた。


「……一般市民やナーサディ曰く——漆黒の闇を思わせる蟲——闇蟲ごきぶりだ、と私は聞いている。悪夢のような暗黒を纏いし怪人だとな。そして闇蟲怪人は多数の闇蟲を使役している。怪人の見た目もそれを連想させる造形をしているらしい」


 冠は内心、こんなことを言いたくはなかった。それは女性陣を慮ってである。当然彼の心に、可哀想だ、などという慈愛に満ちた考えはない。先程と同様、任務に支障が出るのを避けるためだ。

 事前に通知した方が心の準備が出来て、そちらの方が支障は出ない、と刹那考えたが瞬時にその考えは消し去っていた。


 ヒーローたちは任務に対して拒否権を持っている。これは絶対的な権利だ。命を賭して民を守るために戦うのだ、拒否権を与えなければHSCOの体裁は保たれないだろう。それにヒーローには人権があるのだから当然のことである。


 つまり、もしこの場で害虫が、世の嫌われ者である闇蟲、と公言してしまった場合、あの不快な造形に憎悪し任務を放棄する者が出るのではないだろうかと危惧しているのだ。

 もしその正体を隠して現地に送り込んだ場合、その時初めて害虫の正体、怪人の正体を知るだろう。しかし、任務に赴いてしまった以上与えられた任務を遂行しなければならないし、そして是が非でも遂行してくれるのがヒーローだ。


 冠は非情な程打算的な考えを有していた。それがヒーローたちの命を握っている指揮官としての役割と感じているからだ。精神的に不安定な状態のヒーローがいるのと、ヒーローがそもそもいないのでは大きく違う。彼はヒーローの物量で今回の討伐作戦を成功に導こうとしていた。


「マジっすかー! Gはきついですよぉ。俺今回辞退していいですか?」

「否じゃ」


 二号は驚愕と難色を示し、義虎丸と冠に辞退の旨を申し付ける。が義虎丸は食い気味に否定した。

 冠も男性陣に関しては心配はしていない。義虎丸のチームは——二号が良い例だが——義虎丸の指示により動いている。彼がリーダーで彼がやると言ったことはやらなければならないらしい。そして遥登は、今回の任務に関しては止めろと言っても猪突猛進に出動するだろう。自分のチームメイトが死に追いやられたのだから。そして残る銀次郎だが、彼は美波のためならどんなことも出来る人間だ。勿論犯罪といった倫理観に欠ける行いは決してしないが、害虫駆除など、美波に精神的被害が出ないようむしろ邁進して行いそうである。


 だからこそ、問題は女性陣なのだ。


 アペクシーズの三人はそれぞれ個性が強く、否と言われた場合それを説得するだけの力は現在のHSCOには存在しない。深雪みゆきは当然ながら紺碧は寡黙すぎるが故に交渉にすらなりえない。巴は唯一のコミュニケーションをとれる相手にはなるが、彼女は自分一人での独断専行は決してしない。二人が応とした時初めて、彼女も応と言うだろう。

 それに彼女たちにはマネージャーがいる。力としてはHSCOでもアペクシーズの中でもとてつもなく弱い立場にいるらしいが——深雪と紺碧の性格上彼女らの上に立つということは至難の業である——逆にマネージャーに説得されてしまった場合、それだけで戦力が三人分減ることにつながる。

 故に、彼女たちの気分を害する情報は避けなければならなかったのだ。


 そして美波に関してだが、彼女はアペクシーズ程複雑ではない。単純に嫌だ嫌だと言われれば、今回の作戦からは彼女が離脱する。しかし、それにつられて相方である銀次郎までいなくなられると非常に厄介な問題だ。

 銀次郎は清廉潔白で誰からも好感を持たれる素晴らしい紳士だ。だが、彼の欠点は交際相手に対して非常に甘いところである。美波が右といえば銀次郎自身が左だと思っていても、彼の口からは右という言葉が飛び出す。


 つまり、美波が銀次郎に、任務に出るな、と言ってしまったら、銀次郎は任務に出ない、と答えるわけだ。

 当然そうなると人数が二人減るわけで、これまた厳しい状況になってしまう。


 何せ現在はこれでも人手が足りないのだから。


「あの、『蒼紅の炎』のお二方はどうしたのですか?」


 冠が銀次郎たちに対して思案を巡らせていると、その銀次郎から質問が飛んできた。


「あの二人は遠方地で任務にあたっている。すぐには帰って来れん」


 冠は本日見せた表情の中で、最も苦しそうな顔をつい漏らす。

 蒼紅の炎——それは国民たちが名付けたヒーローチームの名前である。便宜上、HSCO内部でも使ってはいるが、公式のものではない。


 そのチームは二人によって構成されている。名前の通り紅蓮に燃え上がる情熱的な炎を操るヒーローと、蒼天を思わせる神聖的な炎を司るヒーロー。二人は世界的に見ても規格外の戦闘力を誇っており、二人さえいれば世界を救える——二人さえいれば世界を滅ぼせる力を持っていると言われている——特に蒼の方は規格外という規格を超越した強さだ。


 運の悪いことにそんな二人は日本を離れていた。そのため頼りたくても頼れないという、歯がゆい状況と相成っているわけだった。


「そうなのですか……。いえ、かのお二方を頼ってばかりでは、ヒーローの——『サー・スターチス』の名が廃りますね。私たちだけでこの状況を乗り切ってみせましょう!」


 銀次郎は自身のヒーロー名に賭けて勝利を約束する。


「ぎんぎんカッコいい!! マジヤバすぎオーラ全開ぢゃん!!」


 キラキラと星が瞬いているようにも錯覚してしまう程、美波は銀次郎へ甘い笑顔を向ける。彼女にとっての最大限の称賛を浴びせ掛けると、銀次郎は先程までの凛々しい尊顔は何処へやら、デレデレと破顔して美波といちゃつき始める。


 冠は呆れを過分に滲ませて眉を顰めると、室内に轟くようにわざとらしく咳払いをする。


「さっさと本題に戻るが、お前たちにはこの予測範囲の外周から内側にかけて調査をしてもらう」

「調査だ!? 怪人をぶち殺しに行くんじゃねえのかよ! 敵の正体も場所も分かってんだ! これ以上何を調べる必要があるってんだ!?」


 冠の発言に、遥登が大いに反駁した。仲間を満身創痍にまで追い詰めた怪人を、一秒たりとも生かしておきたくなかったのだ。


「話を最後まで聞け、ケラティオン。調査はあくまでも敵の戦力がどこまで広がっているかを確認するだけだ。調査という言葉が悪かったようだな。……そうだな、これなら分かりやすいだろう。本作戦は『かくれんぼ』だ。この範囲内にいる敵を見つけ出せ。見つけ出したら速やかに殺せ。そういうことだ。勿論、その時にいる人数で危ういと思ったらすぐさま撤退し、他チームと合流すること」


 分かったか? と冠が遥登に睨みを利かせると、「あぁ、それなら文句ねえ!」といつも以上に大きい声で叫び承諾する。


「各チームが等間隔に並び、徐々に中心へと向かって調査を行う。害虫の群れを発見した際は無線で連絡を取り。状況に応じてこちらで指示を送る。怪人と鉢合わせた場合、無線で連絡を取り速やかに臨戦態勢へと移れ。逃がすことは決して許されん、完膚なきまでに叩きのめせ。作戦は以上だが質問は?」


 あまりに大雑把で作戦と呼べるかも怪しいものだ。故に、冠は不満を言うものや棄権者が出るであろうと予測していた。が、しかし、美波と二号を除いた全員が真剣な面持ちで、次の説明を待っている。その二人にしても不真面目であるというだけで、断固として拒否を示しているわけではなかった。


 全員、今回の任務を棄権する気はない様子だ。


「では次に、それぞれのチームの配置を——」

 と冠が話を続けようとした時、無骨な電子音が鳴った。口を噤んだ冠は胸ポケットにしまってある携帯電話を取り出すと、耳に当て電話に出る。


「どうした……? あぁ。……そうか、分かった。監視を継続しろ」


 短く会話を済ませた冠は、元通り胸ポケットに携帯電話をしまうと、禿頭を静かに撫でた。


「先程の作戦の半分は忘れてくれ。たった今、害虫が下水道より氾濫した」


 会議室内の空気が一瞬で乾く。あのおちゃらけた二人でさえ、表情を硬くしてことの危険性を感じ取っている。


「だったらこんなところでちんたらしてる——」

「うるさいですわよ! それで指揮官さん、作戦の半分は忘れるということは、もう半分は実行するということでよろしいですわよね——つまり、調査の段階を飛ばして最初から戦闘に入る、ということで」

「その通りだ。時間がない、反論は一切認めない。それぞれの配置を見ろ」


 深雪の言葉に首肯した冠は、足早に説明を続ける。若葉がリモコンのスイッチを押すとモニターが更に変化した。赤い円を、それぞれを結べば正三角形になるであろう位置に三つの点が囲んでいる。その点にはそれぞれ、『アペクシーズ』『ローゼナイツ』『アヴァンチュルズ+ケラティオン』と説明が書かれていた。


「何故俺は飛田ひだ窓川まどかわのチームと一緒なんだ!?」

「いやいやマジでそれな! なんであーしたちの中にハルちんが来るワケぇ? ありえないんですけど、ありえないんですけど! ありえないんですけど!?」


 美波は今日一番の叫び——悲鳴——を上げて、これでもかと言わんばかりに抗議する。遥登に関しては、何故なのかという疑問を持っているだけで、不満があるわけではなさそうだった。そのため、あそこまで嫌々とされていることに、少しばかり不快感——というより悲壮感を覚えざるを得なかった。


「黙れ! 時間がないと言った! ケラティオンはチームメイトがいない状態、アヴァンチュルズは二名しかいない。であれば、貴様らのチームに一時的に加わるのが道理! 分かったら——いや、分からずとも直ちに行動しろ!」


 冠の溢れる怒りの言葉に、美波はまだ喰らい付こうとしている。だが、銀次郎が宥めることによってある程度落ち着きを取り戻してきた。


 他のチーム——義虎丸率いるローゼナイツはさっさと会議室を出ていったし、アペクシーズも同様だった。冠も若葉も隠し扉から出て行ってしまう。

 銀次郎は美波に出発を告げると、彼女は不本意ながらといった様子で出口へ向かう。


「済まなかったね、遥登君。やり辛いとは思うけれど協力して頑張ろう」

 銀次郎は遥登に握手を求めた。

「あぁ、気にしちゃいねえ!」

 大きな手が銀次郎の右手を包む。固く漢らしい握手だった。



「宇賀神指揮官、予想以上の速さで怪害範囲が拡大しています。彼らだけでは怪人は倒せても、残党狩りに苦慮するかと思われますが」


 一方、壁の向こう側——数多のモニターにはHSCOの内部が所狭しと映し出されている。ここが監視室なのだと一般人でも分かるだろう——にいる若葉は、室内にも拘らず静かにサングラスをかけ直した冠に対して、懸案事項を述べた。


 先程集まったヒーローたちは広範囲にわたる攻撃を有していない。故に小さいゴキブリたちの掃討戦となると、かなりの時間がかかることになる。ヒーローたちに火炎放射器でも持たせれば話は別だが、素人に扱わせて良い武器ではない。


「……分かっている」


 冠は一言呟く。


「冠さん。こんな時にこそ彼女を呼ぶべきじゃないんですか?」

「……分かっている」


 先刻の会議中の冠とは打って変わって、消極的に沈下してしまった彼を見ていられなかったのだろう、若葉は非常に大きなため息を吐き、携帯電話を取り出すととある人物に電話を掛ける。


「……………………」


 長い沈黙が時を満たした。冠は僅かに聞こえる機械音が急かしているように感じ、非常に煩わしく思う。


「あっ、もしもし? 若葉です、久しぶりですね」


 やっと電話がつながり、若葉が少し距離感を保って話をした。

 電話口の相手はきっと、粗雑で乱暴な言葉を若葉に投げつけていることだろう。冠はその情景を容易に想像し、そして胃がキリキリと痛む感覚を覚える。


「あの、電話代わっていいですか?」


 それは誰に言っているのだろう。電話相手なのか、それとも——冠は自身の心臓が早鐘を打ち鳴らしていることに気が付いた。どういった感情を基に鳴らしているのかは分からない。

 焦燥、憤怒、悲嘆、恐怖、歓喜。恐らく全てが綯い交ぜになった感情だろう。もし自分勝手に意見をしていいのであれば、電話を替わるなど断固と拒否している。しかし、勿論怪人がらみの問題で妥協や逡巡をしている暇などないのだ。否も諾もその電話を受け取らざるを得ないだろう。


 ただし、相手が拒否した場合はその限りではない。電話に出ている相手は快く承諾する人間——関係ではないことを痛い程知っている冠は、どうせ無理だろう、と少し呆れた感情も綯い交ぜの中に仄かだが漂わせた。


「……私もそう思います。じゃあ代わりますね」


 若葉は力強い意志を感じる語調できっぱりと言い放った。


 ——替わるということは、あいつは了承したということか?


 何故だか温かい思いが沸き立った矢先、若葉の耳元を離れた受話口から『——何言って、ふざけんな殺すぞ!』という、直情的な罵倒が漏れ出ているのを冠は聞き取った。

 一瞬だけ沸いた温かい感情も、蝋燭を吹き消したかのように雲散霧消していった。


 若葉が口を一文字に噤み、携帯電話を差し出した。力強い眼光は、覚悟を決めろと語っているようにも見える。

 冠は鼻で息を吸い込み、同じようにして吐き出す。今や既に静かになった電話をつかみ取ると、ゆっくりと耳に当てる。


 まず第一声は何としよう、今更そんなことを考える余裕などない——時間的にも、精神的にも。


「あ——私だ」


 喉が萎縮し塞がってしまわぬように、電話にしては大きな声で喋った。


「——チッ。あぁ」


 対して電話越しの相手は非常に鬱陶し気で声に気力というものを感じられない——むしろ無気力を感じ取れる程だった。

 冠は閉口する。何と声を掛ければいいのかを分からず、ただ悪戯に時間を沈黙で満たすだけだった。


「ンだよ! イタ電か? ぶち殺すぞ」


 そんな声が気つけになったのか、冠はハッと息を呑みすぐさま会話——になっているのか分からない——を繋げる。


「口を慎め! お前は今上司と話しているのだぞ! それが目上の人間に対する——」

「冠さん! そんなこと言ってる暇があるんですか!?」


 くどくどと啓蒙活動に勤しもうとした冠を、感情的に止める若葉。「怒られてやんの、だっせ」と電話相手に罵られてしまう程に、その声は大きかった。


「……実は、頼みがある」

「……誰にだよ」

「お前に決まっているだろう」


 冠は当然だと答える。


「そうかい——嫌だね」


 そう聞こえたかと思うとブツッと電話が切れた。

 冠にとっては何度も聞いたことのある、馴染み深く、そして——罪深さを思い出させる台詞だった。

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