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素っ頓狂な声を発したのはナーサディだ。構えた鞭は下ろされている。確実に油断を表してた。対してトースターは依然厳しい眼を向けている。もしもの時のために装備してある、自決に加え巻き添え用の爆弾にはまだ手を触れていない。ただし、いつでも後退出来る心構えはしていた。
「闇を凝縮したかのような黒……、さしずめ『
トースターがぶつぶつと何かを呟いた後にそう言うと、怪人が彼の方を向いた。トースターの能力故、周囲からの注目を引き付けるのは当たり前だが、この時彼の感情は全く穏やかではなかった。この時程自分自身の能力に後悔した日はない。そう思ってしまう程の悪感情がひしひしと伝わっていた。
異能力としては当然『ゴキブリ』だろう。そのてらてらと艶めかしく黒光りする外骨格は、ブラックダイアモンドを思わせる。だがそんな絢爛さは露にも感じられない惨憺たる醜悪に満ちた造形は、邪悪——怪人であると本能的に訴えさせる何かを持っていた。頭部から生えた二本の長い触角は、不規則にチロチロと動き回っている。表情は分からない——昆虫らしい顎を時折動かしているのが分かるだけだ。漆黒に満ちた五体は筋肉質に見える。生半可にしか鍛えていない大人であれば、その勝負の行方は分からないだろう。
そんな怪人はゆっくりとトースターの下へ歩き出した。鬱陶しい障害から排除しようという魂胆なのか、単純にトースターの能力なのかは定かではない。彼は怪人が近づくごとにその半分の速度で後退る。同等の速度かそれ以上の速さだと危険な気がしたためだ。
怪人は背にある翅を広げバタつかせている。しかし、一向に飛ぶ気配がないのは、まだ上手くその翅を操れていないからだろう。
だが、何故なのかという疑問を抱く余裕は、彼らには無かった。
「ナーサディ。出来れば私が自爆する前に対処願えないでしょうか? ヘイトは十分溜まっているはずです」
後ろ歩きをしながら鞭を構えた彼女に呟くような小さな声を掛ける。
「……わかってる——わよ!」
怪人がナーサディを通り過ぎ背中を見せた瞬間、死角から鞭が空気を裂いて怪人へ襲いかかる。凄まじい速さの鞭の先端が怪人の後頭部目掛け一直線に駆けた——が。
俊敏な動きでしゃがんだ怪人は鞭を躱した。しかし不用意に広げていた翅を考慮していなかったのだろう、片方の翅は半分程散っていった。闇蟲怪人はその姿勢のままナーサディを睨むと、声にならない叫びを上げ後ろ飛びで距離を取った。
怪人がトースターの次にナーサディを見据えているのは当然のことだ。ナーサディはあまりの圧力に尻込みしてしまう。臨界点にまで蓄えられたヘイトがそっくりそのまま彼女の方へ流れ込んでいるようだった。
これ程の殺気をいつも浴びているのか——彼女は感じている恐怖とは裏腹に、別の意味で胸を高鳴らせた。
怪人は構えをとる。腰を落とし猪突猛進の姿勢を見せた。
——こんな時にはケラティオンが盾役を買って出てくれるのだが。いや、彼の所為にするべきではないな。
トースターは頭を振って邪念を捨てる。そして再び大仰な身振り手振りをつけながら前進しつつ、意味のない話を語り聞かせる。
だがトースターの演説は水泡に帰した。怪人の注目は変わらず、ナーサディを狙い続けていたのだ。
漆黒が駆ける。俊敏な動きにナーサディは避けることが出来ず、辛うじて屈むようにして左腕で防御の姿勢をとった。
「ギャッ!」
短く滑稽な悲鳴を上げてナーサディは後方へ吹き飛ばされる。怪人のショルダータックルはまるで鉄の塊が自走しているような気さえした。
「ナーサディイ!!」
トースターが叫び駆け寄ろうとする。しかし怪人の存在がそれを抑止していた。
先程までナーサディがいた位置には怪人がいる。現在のナーサディの下へ行くにはその怪人の横を通らねばならない。接近したが最後、あの速度と力でいともたやすく殺されてしまうだろう。
考える、考える。トースターはこの状況を打破するためにはどうするべきかを必死に思案する。
だが、どの案もあの怪人の前では泡沫の如く脆いものでしかない。一瞬で崩壊するビジョンが浮かぶ。
しかしこのまま突っ立っているだけではいけない。何しろ、怪人が再び歩きだしたのだから。次こそナーサディを殺すために。
そのナーサディは一瞬辛そうな表情を見せるが、すぐさま戦闘を行うため真剣な面持ちになる。そして本来曲がることのない方向へ曲がっている左腕を力任せに引っ張り、元の位置へ戻した。
トースターは更に考える。このままでは駄目だ。間違いなく彼女は殺される。では彼女に逃げるよう声を掛けるか? 恐らく無駄だろう。彼女は逃げない。決して仲間を置いて逃げたりはしない。それは彼女だけではない、もう一人のチームメイトもそうだし自分もそうだ。それでもここで無意味に命を散らすことは避けたい。少しでもHSCOへ情報を持ち帰らねばならない。ならば私が自決して彼女の憂いを断つべきか? 否、全く解決策になっていない。あの怪人がこの程度の爆弾で死ぬかどうかは分からない。もし生き残ってしまった場合、彼女の性格からすると間違いなく復讐に走るだろう。それでは二人が犬死だ。それに私だってどうすることも出来ない状況でもない限り死にたくはないのだ。ではどうしたらよいのか。単純だ。そう、とても単純だった——二人で逃げればいい。彼女を信頼して、逃げるしかない。
トースターはいつもの彼——気取った演者——らしくなく笑うと脇目も振らずに走り出した。そして大声を出す。
「ナーサディ! 逃げます! 撤退して——」
ところが、トースターの声は途中で遮られた。怪人による猛チャージを喰らい、呼吸が止まったからだ。壁に叩きつけられることで、我に返ったように息を吐きだす。荒々しく息を吸って吹き飛ばされてきた方向を見ると、怪人が睨んで——いるのかは顔が変身ヒーローのようにマスクで隠れているので分からない。だが、明確な殺意が自身の背中以上に痛く突き刺さってくる。
遠くからナーサディの心配する声が聞こえたが、それに返答している暇はない。トースターは止めを刺そうと迫りくる漆黒に、ありったけの力を込めた鋭い蹴りを繰り出す。だが怪人はトースターの右足を軽く受け止めると強く握りしめた。
体内に響いた音がトースターの脳天まで届く。人の身体から鳴ってはいけない音がする。それも一回どころではない、ボリボリと何度も何かが粉々に砕ける音がした。
「っがぁああああ!」
痛々しい雄叫びを上げるトースターを怪人は持ち上げた。右足を持ったまま振り回したのだ。右足は綿が詰められた人形のようにぐにゃりと気持ちの悪いくらいに曲がっている。
怪人はトースターを鞭のように扱い、壁や床へと叩きつけている。それを見たナーサディは先程まで抱えていた恐怖や絶望が、赤くメラメラと燃え尽きていくのを感じる。
「離しなさいよ、この虫けらぁ!!」
ナーサディは腰からメスと注射器を抜き取ると勢いよく投げつける。通常の人間であれば十分致命傷にもなりうる武器だが、怪人の外皮に弾かれ無残に地に落ちる。
だが怪人の注意を引くことは叶ったようだった。すでに虫の息であるトースターを振るう腕を止めると、ナーサディを睨め付ける。以前の彼女であったらまた気圧されていただろう。しかし今は大切な仲間が——大切な人物が命の危機にさらされているのだ。怖気づくはずもない。
もう一度叫びながら武具を投擲する。避ける価値はないと判断しているのか、怪人は棒立ちしてそれを受け入れた。が、やはり相当な強度を誇っているのだろう、硬質的な音を立てて攻撃を弾いている。
——だったら鞭で絞殺してやる。
どれだけ投げても取るに足らないダメージ——否、ダメージにすらならないだろう。これ以上投げても無駄だ。舌打ちをしたナーサディは右腕だけで鞭を構える。左腕は痛くはないが無理に動かすと後に響くだろうと考え、極力動かさないようにしていた。
ところが先に行動したのは怪人だ。
怪人は飽きた玩具を捨てるように、乱暴にトースターを投げた。勿論矛先はナーサディである。
彼女は吃驚し身体を硬直させるが、すぐさま受け身の体勢をとる。そして全身全霊の慈愛を込めて彼を受け止めた。
「
ナーサディは自身の能力『
「——っ! 本名で呼ばないでもらえますか、ナーサディ……。大丈夫です、逃げましょう。幸い二人とも出口に近づけました」
トースターが血を吐き出した後、彼女を心配させないよう落ち着き払った声でそう話す。確かに二人の後ろ五メートル先には、希望の光と思われる丸い光明が差していた。
彼ら彼女らの耳には無線機がついている。そのため、その会話が地表にいる非戦闘員の耳に入っていたのだろう。いつの間にか送気装置は退けられ、幾人かが時折その穴を覗きに来ていた。
それでも彼らが助けに入らないのはそう言ったルールであるからだ。ヒーロー以外は決して怪人に近寄ってはいけない。それは一般人を守るための規則でもあるし、また、ヒーローを守るための規則でもある。
守るものが増えればその分不利になるのは自明の理だ。
二人は脱出へと急ぐ。ナーサディはトースターへ肩を貸しながら、トースターは右足を庇いながらなんとか立ち上がった。だがナーサディは感じる。トースターから請け負っている重さが異様に重い。恐らく彼はもう自力で立つことも出来ないのだろう。
怪人の様子を伺うと、奴は屈んでナーサディが投げた武器を手に取り繁々と観察していた。
チャンスは今しかない。
二人は無理をしながら持てる限りの全力で出口へ向かう。光の内に入るとナーサディが言った。
「貴方が先に行きなさい」
トースターは言い返したくなる気持ちをグッと堪える。女性を置いて危険地帯から一足先に逃げるなど、紳士としてあるまじき行為だ。だが、ここで無駄話をしている暇があったら、さっさと逃げるべきである。その方がナーサディの生還率を高めることにもつながるのだから。
トースターが梯子に足をかけると、そこでようやく怪人が立ち上がり、そしてメスを投擲した。とんでもない速度のメスは、容易にナーサディの左腕の骨へと突き刺さる。貫通しなかったのが不思議なくらいだった。
「んぐぅ——!」
痛みのあまり叫び出しそうになるのを食いしばることで何とか堪える。そして再び能力を駆使し痛みを鎮静化させた。
攻撃されたことに対して、驚いたり目くじらを立てたりしている段階ではもはやない。一瞬だけ怪人を一瞥すると、すぐ目的をしっかりと見据えて梯子を上り始める。
先を登る彼の歩みは遅い。腕の力だけで登っているからだ。右足は使い物にならないし、左足も全く力が入っているようには見えない。当然、ナーサディは何も言わない。もしかしたら自分は登り遅れて、死んでしまうかもしれないが、歯を食いしばって、文字通り必死に登っている彼にどんな言葉も掛けられるわけもない。
怪人はそんな隙だらけの二人を絶好の獲物と認識したようだった。屈強な脚力によって走り出した怪人の速度は、その小柄な身体に見合わない。目にも留まらぬ速さで近づいてくる怪人に、ナーサディはどうすることも出来なかった。
だが偶然というものは何もしなくとも起こるものだ。
ナーサディが佩いているメスが、太陽光をギラリと反射する。その閃光は怪人の顔面に走った。
怪人は必要以上に眩しがり、そして体勢を少しばかり崩した。だが止まることはしない怪人はそのまま攻撃へとつなげる。
剃刀のように鋭利な爪を突き立て、脚を貫こうとする。
怪人の攻撃は金属を跳ね飛ばす音を立てて何かに当たった。怪人の足元にはカランと梯子の残骸が転がっている。それ以外——温かい血肉など——は見当たらなかった。
二人は命辛々マンホールから這い出る。そしてすぐさま非戦闘員に担がれ車へ押し込まれた。まさかここまで瀕死の重傷を負うとは誰も思っていなかったため、救急車等医療用の車両は用意していなかった。
「早く病院急いで!」
ナーサディの声に車は安全運転などかなぐり捨ててすさまじい速さで走り出す。
助手席に座る非戦闘員が慌てたように電話を掛けている。
病院だろうか、HSCOだろうか。
茫然と見つめるナーサディはなんとなく考え始めるが、どうでも良いことだと考えを放棄した。
そうして眠るように倒れている無残なトースターを見つめ、まだ息をしていることを確認した後、安心したように意識を手放した。
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