2-1

「全く、害虫駆除ですか……二の足を踏む思いですね」

「そう? 私は虫って好きだけどなー」

「何故です? 逃げるばかりでオーディエンスとしては不相応です」

「あの逃げる姿がそそるんじゃない」


 二人は開け放たれたマンホールを見つめながら話す。

 一方はかっちり固めた七三分けの髪と真っ赤に目立つ蝶ネクタイ、その異彩を放つネクタイがあるべきところに収まっていると感じられる、皺ひとつない黒のスーツを着た男。一方は扇情的なナース風のコスプレをしている女。腰には幾多のメスや注射器が佩いてある。が、手に持っているのは何故か茨を思わせる棘の生えた鞭だ。ナースらしくゴム手袋をしたその手は、淫靡な手つきで鞭を握っている


 これ程おかしな格好をしている二人に、しかし声を掛ける人はどこにもいない。何故ならこの辺りは避難勧告が出されているからだ。武装を施した戦闘員に見える非戦闘員以外、一般人はどこにもいない。とはいえ、そこまで大仰な措置ではなく、周囲百メートルの立ち入り禁止を命じているだけだ。というのも、この一連の騒動が怪人の仕業であると断定出来ていないためである。その断定のためにこの二人——本来であれば三人——が駆り出されたわけだった。



 ことの始まりは住民たちの悲鳴からだった。悲鳴は悲鳴でも比喩的な表現であり、実際は市役所に対し生活排水が流れないという苦情が殺到したのだ——しかしながら、排せつ物が流れていかないのだから悲鳴も出したくなるだろう。


 事情を聴いた市は、水道業者へ確認点検の依頼を出した。どうせゴミが詰まったり、汚れが固まったりで流れが滞っているのだろう、そう考えていたのは住民であり、市役所であり、水道業者だった。しかしそれが見当違いだったことを思い知る。


 業者が調べていたところ、中に詰まっていたのはゴミでも汚れでもなく、生き物だった。実のところ生き物が詰まることは無いことではない。鼠などが下水道を登り汚水に呑まれて溺れ死に、管に詰まって死んでしまうことが過去にはあった。だが、今時そのような対策がなされていない道管の方が珍しい。事実、詰まっていたのは鼠ではなかった。


 ——ゴキブリだった。


 それも一匹二匹ではない。当然だ。たかが一匹が道管にいようが、水を遮ることなど出来やしない。

 ぎっしりと、一分の隙もないくらいにゴキブリが詰まっていた。


 ゴキブリなど見慣れた業者たちでも、その様相と量は驚愕せざるを得なかった。だが慄いていても水が流れてくるわけではない。業者たちはそのゴキブリをこそぎ出した。しかし、彼らが両の手で思いっきり地下道の住民をかき分けていたのは最初だけだった。きっと均衡が崩れたのだろう、ゴキブリたちがそれこそ汚水のように大量に溢れ出たのだ。


 道管から漏れ出るゴキブリは山となって、雪崩を起こすように周囲に広がる。それでもまだまだ止まらないゴキブリたちの噴出は徐々にその様子を変えていった。


 ゴキブリの大きさが非常に大きくなった。出口付近にいたやつらは一般的に見かける大きさだった。それ故業者の男たちも、量には驚かされたものの、すぐさま行動に移せたのだろう。ところが奥にいたゴキブリは異常という他ない程に大きい。特に最後に出てきたゴキブリは別格だ。


 世界一大きいゴキブリと言われる『ヨロイモグラゴキブリ』でも手のひら大の大きさだが、そのゴキブリは成人男性の胴体程の大きさがあった。重厚なそれはゴキブリの濁流に呑まれゴロっと排出されると、小さいゴキブリたちを踏みつぶして着地した。


 一頻り害虫を排出したかと思うと、ようやく本来流れべく汚水が流れてくる。流れの弱さから見るに相当奥までゴキブリが詰まっていたのだろう。それを裏付けるだけのゴキブリが、業者たちの足元に転がっていた。


 異常な大きさのものは見る限り五体。それ以外は一般的な大きさのものばかりだが、その量が異常である——五百匹はくだらないのではないかと思われる。つまり、どこをどう見ても異常でしかなかった。


 男たちは一連の土石流のような怒涛の流れを見終わり、無言で目を合わせる。言葉を交わさずとも意思の疎通は容易だったのだろう、二人は少しずつ足を引きずるようにして後退していった。

 後ろには天国への道しるべのように光が差している。二人はそのマンホールから入って来たのだ。つまり出口でもある。逸る気持ちを抑え、なるべく物音を、振動を立てないように動いているが、出口につくまでどれくらいの時間がかかるのだろうと考えると、比較的寒い下水道でも汗が出る。


 悍ましい光景を想像してしまい耐えられなくなったのか、男のうち一人がついに高い声を漏らしながらがむしゃらに走った。向かった先はもちろん救いの光だ。


 同時に蠢きだしたのは当然ゴキブリだ。逃げ遅れた男は鼓膜が破れんばかりの音に怯んで、逃げるのが更に遅れてしまった。その間もう一人の男はごくごく短距離を全力疾走しただけにも拘わらず、肩で息をして梯子に手と足をかけていた。


 先程まで自分がいた方角をちらりと一瞥したのは、轟音の中に悲鳴のようなものを聞いたからだ。

 そこには同僚がうつ伏せでこちらに手を伸ばし、険相にも悲嘆に暮れた顔にも見える表情をしていた。そして彼は徐々にその姿を黒く染めていく。「助けて」そう言っているような気がしたが、声は聞こえないどころか表情すら見えなくなってしまった。


 彼は光に包まれながら子どもの頃を思い出した。日が傾くにつれ自分に伸びてくる影に変質的な恐怖を覚えていたのだ。まるで悪魔の手が自分の魂を奪い取るために伸びてきているみたいだと、そう感じていたのだった。

 まさに今の光景はその通りだった。闇が人間の魂——のみならず存在全てを飲み込んでいく様がそこにはあった。あれは悪魔の所業に違いない。悪魔が闇に潜み人間を飲み込んでいるのだ。


 彼はいてもたってもいられなくなり、脇目も振らずに光へ向かって登っていった。

 血相を変えて這う這うの体で出現した仕事仲間に、どうかしたのかと交通整理をしていた男が訊ねた。


「悪魔だ! 闇が、闇そのものを纏った蟲が現れたんだ!」


 支離滅裂な発言をする男を宥めると、どうやら非常事態であることが分かった。

 そして然るべき機関——HSCOへ通報し、彼ら二人のヒーローが今回の仕事に宛がわれたわけである。



「さて、換気も済んだようですし、私たちもマンホール内部へと登壇いたしますか、ナーサディ」

「そうね——ん? トースター、下りるんだから降壇じゃないの?」

「ステージに登るのですから登壇で良いのですよ」

「なるほどねぇ、それもそうかも。それにしても下水道って、最悪な仕事ね……。何で私たちなのかしら」

「近くにいたという理由だけでしょう。たとえ蒼紅のお二方だとしても、同じように仕事を割り振られたに違いありません」

「つまり運が悪いってこと? 尚更最悪ね」

「今悪くても、次の選択では幸運が舞い込むかもしれませんよ。悲観的にならないことです」


 二人は軽口を言い合うと、トースターと呼ばれた男が「お願いします」と非戦闘員へ合図を出す。彼らが送気装置を退けると、ナーサディとトースターは飛び込むようにマンホールへと入っていった。


 先に降りていたナーサディはトースターを横抱き——所謂お姫様抱っこ——するように受け止めると、静かに優しく下ろした。


「有難うございます、ナーサディ」

「どういたしまして——普通逆だと思うけど?」

「適材適所というものがあります」

「またそれね」


 冗談や世間話のつもりで文句を言ったのだろう、ナーサディはトースターにそう言われると、クスリと笑って肯んずる。トースターから懐中電灯を受け取ると前方を照らした。


 マンホールの入り口には再び換気用の送気装置が置かれる。管がだらりと垂れてくるとトースターはそれを掴み出来る限り奥まで持っていく。


「では、害虫駆除と行きますか? ナーサディ、準備してください」

「準備万端よ。小っちゃい生物程虐めたくなるわぁ」


 ナーサディは鞭を撓らせて水道管に当て、自分のやる気を音で報せる。それで納得したトースターは一度ばかり頷くと前へ向き直り、懐中電灯の明かりを深淵と思しき闇へと向けた。


 弱い光が届く範囲には何もいないように思える。報告によれば夥しい量の虫がいるとのことだったが、不思議なことに一匹たりとも見当たらない。下水道なのだから虫の一匹や二匹見つかってもいいはずだ。汚水を除けば一瞥した限り綺麗なものだった。


 二人は慎重に奥へと進む。少しずつ異臭が強くなってきたのは、ここまで換気が届いていないからだろう。これ以上奥まで進むのは危険と判断しようとした矢先、懐中電灯の光をわずかに反射する存在があった。


「止まってください」


 相手に聞こえる最小限の小声で言ったトースターは、じりじりとにじり寄りその存在を確かめる。それは案の定話に聞いていたゴキブリだった。


 淵底にしか見えない暗澹とした闇ではあるが、呑み込み切れなかった光を微かに反射しているため、目を凝らしてようやくゴキブリだと認識出来た。


 周囲に目をやる。その時。


「——ひっ!」

 とナーサディは忍び音ながらに悲鳴を漏らしてしまった。


「なるべく声を出さないで。話の通りだとすると、物音を立てたとたんに襲ってくるそうです」


 囁くようにトースターが宥める。その声で落ち着いたナーサディは「そうね、ごめんなさい」と平静を取り戻したようだった。


 光を上下左右に振ってみると、彼女が恐怖してしまった理由も分かる。人が二人並んで歩ける程度の大きさの地下は真っ暗で何も見えない。明かりを持ってこなければろくにまっすぐ進めないだろう。しかし彼らの目の前は明かりを向けても依然真っ黒のままだった。何故なら、道を埋め尽くす量のゴキブリがそこに留まっていたからだ。


 目撃者は多少錯乱していた。故に、その量も大げさに言ったものだろうと判断していたのだ。だがこの現実を見るに、彼の言っていることは紛れもない真実だった。


「いやはや困りました。なるほど確かに、異常な様相ですね。怪人と判断するには些か決定打に欠けますが、十二分に警戒するに値します」


「どうするの? この壁を突破してみる? はる——ケラティオンがいない状況で無理するのは避けたいけれど」

「そうですね。しかし何もしないわけにはいきません。スポットライトがなければ後に続く皆さんも戦いにくいでしょう。でしたら、私がスポットライトを振り向かせてみせます」

「……相変わらずよく解らないけれど。それで、この虫相手に貴方の能力は通じるのかしら?」

「通じますとも。彼らも生きているのですから。それに、どんな相手でも魅了するからこそ、私はヒーローなのですよ?」

「確かに、ね。それじゃあ行くわよ。お仕置き、開始ね!」


 囁き声での応酬にピリオドを打ったのはナーサディだ。

 彼女は気合を入れるように、恐怖を忘れさせるように声を張り上げると同時に、しなやかな鞭を疾風の如く振るう。最も速度の出る先端が漆黒の壁へとぶち当たった。乾いた薄い甲殻が砕ける音と瑞々しい何かが飛散した音が聞こえる。


 ——それはまるでダムの決壊のようだった。この世の闇という闇を抑え込んでいたダムが、僅かな衝撃で崩れ去っていく。中からは止めどない黒が溢れ出る。それは自由意思を持って流動的に蠢いていた。


 悪魔の矛先は凪を脅かす喧騒の元、ナーサディである。彼女へ向かってカサカサ——というよりガチャガチャと爆音を立てながら捕食せんと襲い掛かる。しかし——


「東西東西! 傾聴を頂きましたのはしがない語り部、トーストマスターと申します! これより御聞きに入れますのは未来永劫語り継がれる英雄譚。暫しの間、皆々様のご注目を拝借いたします!」


 トーストマスター——普段は省略してトースター——がナーサディに負けずとも劣らずな大声疾呼で音吐朗々と語る。

 とたん、津波のような容赦のない闇の侵略はぴたりと止まった。同時にナーサディの攻撃も。


「何をしているのですか、貴女が私の能力に中てられてどうするのです!」


 ナーサディは、おっと、とお道化た表情で驚きを見せると、一瞬の内にプロの顔になる。そして常人では出しえない速度で鞭を振るった。動き回る動物を捕縛することすら可能な彼女の腕ならば、止まっている虫の群れなど一振りで一掃出来る。だが絶え間なく流れ出ている漆黒は、たかが一群を掃ったところで軽微な差しかない。


 ゴキブリたちは欠けた仲間たちを無視して、同じく黒色をした忌々しい男へと向かう。まるで操られているかのようにナーサディを無視する様は、なるほどヒーローとしての能力が使われているのだと分かる。


 防御に徹する必要のなくなった彼女は、一目散にトースターへ駆けるゴキブリたちを横から薙ぐ。次から次へと襲い掛かっていく悪魔の手先を、しかしたった一つの鞭で均衡へと保っていた。


「虫はお馬鹿だからいいわね。怪人だったらこうはいかなかったわよ」


 まだ余裕があるのか、ナーサディは妖艶な笑みを浮かべて頬を紅潮させていた。疲労や怒りからではない、それは興奮によるものだった。


 彼女の趣味は弱いものを痛めつけることだ——もちろん、強いものを痛めつけるのも好きだが、弱ければ弱い程そそると語っている。つまり、人を襲おうと懸命に励んでいるゴキブリたちを、いとも容易く粉砕し目的を成就させないようにしているこの現状が、堪らなく至福だった。


 ——逃げ惑ってくれれば、愛してあげるのに。

 彼女は目を細めて口角を釣り上げる。想像から思わず嫌らしい笑みが溢れていた。


 今も尚雄弁に語っているトースターは、身振り手振りを大きく口調に緩急をつけている。様子を伺いたくなる気持ちをグッと堪えて、ナーサディは鞭を振るう。


 数十秒が経過した時だ。ゴキブリの進行が止み、一斉に元来た闇の温床へと帰っていく。


「あらあら? 逃げるの? メインディッシュにしては早くないかしら」


 鞭を両手で構えながら弱者の後を追おうと足を踏み出すと、隣で何やらぶつくさ言っている声が聞こえた。その声が妙に気になったので彼女は足を止める。


「憎しみに勝る恐怖? いや、絶対的な命令でしょうか……。ナーサディ! 注意してください! 本命が来ます!」


 突如大声を上げたかと思うと、まるで示し合わせたかのように暗闇の渦の中から漆黒の人物が現れた——果たして怪人を人間と呼称すべきかは置いておくとして、それは間違いなく人型だった。ただし、その背丈は二人の想像にまるで足りない。


「こ、子ども……?」

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