1-2
「ねえ、お腹空かない?」
沈黙が数分続きこのまま安寧の時を過ごすだけかと思った矢先、会話の口火を切ったのは巴ともえだった。
時間は昼を過ぎ、そろそろ十三時を迎えようとしている。朝から何故だか働き詰めだった巴は、そろそろ腹の虫がくうくう鳴く頃だと感じていた。腹部に密接している英華えいかには、それは良く聞こえてしまうだろう。そんな恥ずかしい事態を避けるためにも、まずはこの状態から動いてもらわなければならない。
「うーん……。空いたような空いていないようなだねー」
英華は巴の台詞をなぞる。食欲より睡眠欲が勝っているのだろう、言葉に睡魔を滲ませていた。どこまでも不誠実を極める腹積もりらしい。
——そんな邪な考えをお腹に積もらせているから空かないのかもね。
巴は軽い皮肉を考え付いたが口には出さず、無理やり英華を起こした。
「疲れたー寝たいー」
巴に両手を引っ張り上げられ万歳をしている英華が、言うに事を欠いて閉ざした瞳をそのままに幼児性丸出しで駄々をこねる。
「私の方が疲れてるよ! ほら、只でさえ痩せてて不健康そう——不健康なんだから、しっかりご飯食べる!」
無理やり引っ張り上げられ仕方なく起立したは良いものの、老人のように腰を曲げ小さい声で唸っている英華に、巴はあからさまで大きなため息を漏らす。このまま、立ったまま寝てしまいそうな様子だ。
巴は自身の身形を整える。保母さんのような彼女でも、有名なヒーローでありそしてアイドルだ。変装用の帽子とマスク、伊達メガネは忘れられない。英華宅へ来るのも、なるべく人目につかない道を使い、挙動不審な程周りを警戒して来ているのだ。
とは言え、あくまでもアイドル。もしもの時を考えると不格好な姿を晒すわけにはいかない。そのため、変装アイテムも当然お洒落を意識していた。マスクは一般的なそれだが、自分のキャラクターを意識しているのだろう、帽子は猫耳を思わせる造形をしたキャスケットだ。伊達であれどオレンジ色という明るい色をしたフレームのメガネは、彼女のこだわりポイントである。
そんな巴とは対照的に、英華はボリボリと頭を掻きながら財布と携帯をポケットに入れて準備完了のようだった。
現在、英華の服は軒並み軒先で乾燥中だ。そのため英華の服は現在着ている皺が寄った薄手のシャツにラフな短パンしか無い。女性らしい服に着替えることは出来ないのだ——そもそもそのような服は持っていないのだが。
準備が出来た二人は外へ出る。大通りへ出ると別世界に来たかのようにムワッとした暑苦しい空気が二人を襲う。八月も中旬、夏真っ盛りといった熱気だった。
英華が住むアパートがあるのは裏路地で、日がなかなか射さないため夏場でも心地いい気温になる。洗濯物があまり乾かないデメリットや湿気が多く衛生面でよろしくないことも多い。人目につかないという意味では犯罪の温床になりそうな場所でもある——とある理由でこの地域での犯罪は他所と比較して少ないが。
ただし、一つでも道をずらせばそこはもうコンクリートジャングルだ。木造の建築物もちらほら見えるが、怪人やヒーローが登場して以来、木造の建物は減少傾向にあった。
二人は息の合った会話をしながら、ぶらりと街を漫ろ歩く。
「ていうか、何食べんの?」
想い出したように英華が訊ねた。
「うーん……、英華は何が食べたい?」
巴は足を止め少し考え込んだ表情を見せてから、何も思いつかなかったと開き直った朗らかな表情で英華に訊き返す。
「私は別に食べなくても良いんだけど」
「もぅ! ……あっ! じゃああれ!」
意地悪な返事をする英華に、まともな会話は出来なさそうだと判断した巴は、目についた店を指さして言った。
「ラーメン? 女二人でラーメンか?」
「一人よりマシでしょう? って、そもそも体裁なんか気にしてないじゃん。そんな格好で外に出てるんだし」
そう言って巴は英華の服を見る。その格好は甚だ野暮ったいわけではないが、良いとこ部屋着である。人前を歩くのは普通の人であれば勇気が要るだろう。
「いや、私は良いけど、って話。私はお洒落なんかしたいと想わないしな」
英華は貧相な胸を張る。何故か自信満々に答える彼女に、巴は呆れを通り越してもはや怒りすら湧いてきた。
「はぁ……。いい、英華? お洒落は女性の嗜みだよ? そんなんじゃいい人が寄ってこないんだから」
「じゃあ、やっぱり要らないじゃん。私が巴ににじり寄ってる最中だし」
ニッシッシ、と白い歯を見せて嫌らしい笑みを浮かべる。巴は「もぅ!」と言って英華の肩を軽く叩いた。そして、ラーメン屋に行く旨を伝えてさっさと歩きだしてしまおう、と落としどころを決めた時、何かが視界に入った。
「あっ、ほらあの人なんか見てみなよ。……ちょっと派手過ぎるけど、凄いお洒落してるでしょ? あれ程とは言わなくても、もう少し着飾った方が英華は可愛くなると思うんだけどなぁ——性格も含めてね」
巴の目線の先には一人の女性が映っていた。その女性は所謂ゴスロリファッションと呼ばれる衣服に身を包み、頭髪は派手目な濃いピンク色をしている。
「いやぁ、あれは無理でしょ。服は兎も角としてあの髪は派手すぎ」
「どっちもどっちって気付いて言ってる?」
カラメルがだらしなく零れ落ちているプリンのような髪色の英華を、巴は粘りつくような細目で見つめる。
「いずれにしても、ラーメン屋でお昼ってことで良いよね?」
「うむ、苦しゅうない」
承諾を得ることが出来た巴は満足そうに頷くと、二人はラーメン屋へ向け歩みを進める。
が、進みかけた足が地面を恋しがっているかのように、ぴたりと密着して動かなかった。それは巴が考え込むようにして先程の女性が歩いて行った方向をじっと見つめているからだ。
——桃色の髪に派手な服……どこかで見た——いや、聞いたことあるような……。
「巴?」
「——ん! あぁ行こ行こ!」
英華の声を気つけに、今度こそラーメン屋へとその歩を進めた。
お昼時のためかなかなか繁盛しているように見える。席は空いてないかと思ったが、大きい窓付近の二人掛けのテーブルが偶然にも空いていたことに、二人は少し安堵した。
英華は座ってすぐメニューを掴み、財宝を見つけた海賊のようにギラギラとした目つきで見定めている。巴は帽子とマスクを外して脇に置き、子どものような英華の様子を見守った。
「巴には悪いし、一番安いメニューにしとくよ」
「……? 何で私に悪いの?」
英華の言うことが理解出来ずに巴は首を傾げる。
癖なんだろうが良く首を傾げるよなぁ、可愛いから良いけど——英華は巴をマジマジと見ながら能天気に考える。
「ほらこれ」
と言って英華が取り出したのは数少ない所持品の一つである財布だ。「見てみ」と言われた巴は嫌な予感がしながらもそれを手に取り、中身を確認した。全て確認するのにそう時間はかからなかった。
「五十三円って……何これ?」
十円硬貨が五枚に一円硬貨が三枚、財布はたったそれだけを大事に納めていた。紙幣は一枚も無い。あるのはレシートくらいだ。カード入れも一応ついていたが、納まるべく物が無く空っぽの状態だった。
「金下ろそうかと想ったんだけど、巴が早くご飯食べたそうにしてたしさ」
嘘だ。絶対奢らせようとしていたに違いない。そもそもカード類が皆無の時点で、どうやってお金を下ろそうとしていたのか。
巴はぷくーっと頬をフグのように膨らませて財布を英華に投げる。不意に投げられたにも拘わらず英華は難なく財布を掴み取った。
「じゃあこの看板メニュー的なので良いわ。大盛で」
「遠慮する気ゼロじゃん! まあ英華に遠慮されてもそれはそれで気持ち悪いけどさ。——私にも見せて。……うーんと、じゃあ味噌ラーメンにしようっと」
巴は咳ばらいを一つすると、声の調子をなるべく低くして店員を呼んだ。自身がアイドルの心坂巴であるとバレないように行った姑息な手だ。
——器用なことするもんだなぁ。
英華は感心しながらニヤニヤと巴の横顔を見つめる。
店員が来て注文を訊ねる。メガネしかかけていないため変装としては弱いと考えたのだろう。その間巴はメニューから顔を逸らすことなく、決して店員の顔を見なかった。そこまでするなら帽子とマスクもう一回付け直せば良いのに、と英華は想うが、無駄な努力する巴をただ微笑ましく見守るに止めた。
巴が英華の注文まで纏めてすると、店員は注文を繰り返し間違いが無いことを確認して去って行く。
「あのさ、挙動不審が過ぎるだろ。そこまですると怪しまれて逆に巴だってバレるんじゃないのか?」
珍しくまともな英華の忠告に巴は口を押さえて吃驚した後、「あ、怪しまれてた?」と小声で心配を漏らす。今更小声になっても意味はなさないが。
「どうだろうな。どちらかというと私の服装を見てた気がするな……」
「あぁー」と納得した巴を見て、そんなに変か? といった風に自身を見下ろす英華。よく分からない英単語が描いてある普遍的なシャツを見つめると、顔を窓へと向き直し、短く「分かんね」と呟きため息を吐いた。
メニューをテーブルの脇に寄せた巴は、そんな英華を見て微笑ましく思い、声には出さずに口角を上げた。
二人の間に沈黙が流れた。窓越しに街並みを眺めている英華を柔和な笑顔で見つめている巴。英華は何を見ているのかと気になり、同じように窓を見ると、今度は英華が巴を見る。
平和がそこにはあった。
巴は思う——英華は平和で退屈だなんて言っていたけれど、私はそれが嬉しく思う。怪人と戦うのが使命だとしても、やっぱり命の危険がある争いなんてしたくない。それに英華だって——。
「最近ラーメンって食うの?」
巴が思いに耽っていると間の抜けた声がした。その言葉に特に深い意味などないのだろう、片肘をついて無気力な面持ちで英華が巴を見つめていた。
「うん、あの二人と時々食べたりするよ。意外に
「ふぅん、あの世間知らずなお嬢様がこんな店をねー。それにあのノッポが恥ずかしがる姿なんて想像出来ないけどな」
巴が言う深雪と紺碧という人物は、巴のアイドル仲間である。より正確に説明するならば、『アペクシーズ』という三人組のアイドルユニットに属する二人——巴を入れて三人——だ。基本的に彼女らはユニットで仕事をしている——英華が見ていたコマーシャルは例外だが——それはアイドル業もヒーロー業もだ。ヒーロー業に関しては何も彼女たちだけではない。複数人で行動することを必須としているHSCOのルールに則り、どのヒーローもユニット——チームを組んでいる。
そのため、仕事の合間や休憩中にどこかへ出かけたり、食事をしに行ったりしているのだ。親睦を深めることは怪人と戦う上で最も重要だと言っても過言ではない。一人で倒せない相手でも協力すれば難なく倒せたりもする。そのまた逆も然りだ。一人で倒せる相手でも邪魔が入ればやられてしまう——殺されてしまうケースもあるだろう。故に、チームの絆を深めて互いの息を合わせるということは、ヒーローとしての一番最初に行うべき仕事だと言える。
「世間知らずなんかじゃないし、ノッポでもないよ! 英華、二人に対してあまり変なこと言わないでよ? 二人が聞いたら怒ると思うし私も嫌な気持ちになる」
巴が不快な顔をすると、英華は慌てたように「あぁ、ごめん」と素直に謝った。巴もこれ以上問い詰めるようなことはせず、「反省したなら良し!」と笑顔を振りまいて言った。
二人の注文したラーメンが来たのはそれから数分経ってからだ。様々な具材が乗っている味噌ラーメンと、スープより少し高い位置まで麺が盛り上がっている醤油ラーメン。
あの量食べられるの? と疑問に思いつつ、なんだかんだ英華ならスープも飲み干して完食しそうだな、と巴の考えは帰結した。
行儀良く「いただきます」の掛け声をし、二人は食べ始める。
「んー、おいひぃ」
巴が口をもぐもぐさせながら破顔させて言った。その様子を見た英華がじっと巴の顔を見つめる——否、顔ではなく、ある一点を見つめる。
「ん? 何?」
「いや、何じゃないがな。メガネ」
「ん、あー!」
巴はメガネを外す。一瞬サウナのように見通しが悪かった世界が、途端に鮮明に見える。
「よく伊達メガネしてるからあの光景にも慣れちゃって」
メガネをバッグから取り出したメガネケースへ入れ、再びバッグへとしまう。そして何もなかったかのように食事へと戻った。
「慣れとかじゃない気がするけど……」
納得いかないが突っかかる程のことでもない、そう判断して英華も自身の大盛ラーメンに挑んだ。早く食べなければ伸びてしまう、そんな焦りは一切見せない。かと言ってゆっくりなわけではない。男性的な豪快さがある食べ方だった。
食べ終わるのはほとんど同時だった——どちらかと言えば、麺を完食しスープは少しだけ飲んだ巴と比べて、スープまで飲み干した英華の方が早かったくらいだ。
食べ終わった二人だがなかなか立つ様子はない。そのまま再び談笑に戻る。
「仕事はどう? つってもコマーシャル見りゃわかるか。お姉ちゃんは巴ちゃんが有名になってくれて嬉しいよ」
「いつお姉ちゃんになったのよ。誕生日的にはそうかもしれないけど。仕事はおかげさまで忙しいかなぁ。こうやって英華に会いに来れる回数も少なくなってきてるしね」
「何だよぉ、私より仕事なのかよぉ。この浮気者」
「嬉しいんじゃなかったの……。英華もHSCOに来ればいいのにさ。そしたら毎日のように会える、かも?」
「あそこは駄目だ。私の思想に合わない」
「思想と理想は違うんだよ? どこかで妥協しなきゃ」
「——!? え、何今の巴らしくない台詞。気持ち悪っ」
「気持ち悪いは酷くない? たまにはこういうこと言ってもいいでしょう? まあ、私も深雪の受け売りなんだけどね」
「んだよ、あのお嬢様の台詞か。確かにあのお嬢様ならそんな格好つけたこと言いそうだよなー。『悪を罰する者を正義と認めているのではありませんわ! 正義と認めた者のみ悪を罰することが出来るんですの!』……あれを言われた時はマジで腹立ったぜ」
「うーん……。確かに深雪の言い方には棘があったけど。でも間違ってはいないよ。異能力の無い一般人が怪人と戦うなんて無謀だもん」
「巴は私が一般人に見えるのか?」
「まあ一般人ではないけど……。だからこそ、英華にはHSCOに入って欲しいと思ってるんだよ?」
「別にあんな組織に入らなくたってヒーローとして活動は出来るだろう? それにヒーローは一般人同士の諍いや問題を解決しちゃいけないっつールールは頂けねえしさ」
「確かに私もその点に関しては納得出来ないところがあるけど、長いこと色々な人たちが話し合った結果だから仕方がないよ」
HSCOは怪人関連の事件しか扱わない。たとえ人間同士が争っていてもそれに関与することは決してない。それは個人間の問題でもそうだし戦争レベルな国家間の問題でも同じだ。英華はそれが気に食わない。
何もヒーローが力を誇示して争いを諫めるべきだと言っているのではない。止められるはずの諍いを見て見ぬふりをしているのが許せないのだ。目の前で小火が発生したら誰だって大火事になる前に消火するだろう。断じて対岸の火事ではないのだから——否、ヒーローとはたとえ対岸の小火であっても出動するべきだ。英華は正しいヒーローとはそういうものだと確信している。
しかしHSCOは違う。目の前で小火が発生しても、消防車が来るまで眺めていろと言うのだ。その英華の信念とは全く違う行動——ルールを定めるHSCOは、英華にとって許し難い存在だった。
少しでも救える命があるのなら救うべきだ。どんなに蔑まれようとも。ルールを守ってまで救わなくて良い命があるわけがない。
「ルールに縛られて何も出来ず、目の前で命が散っていく様を見て巴は何とも思わないのか? 違うだろう? 巴だってどうにかしたいと思ってるはずだ。それにこの地域の犯罪率の低さが、どちらを支持するか物語ってねぇか?」
「そうかもね……。あっ! じゃあさ! 英華がHSCOに入って、HSCOを内部から変えてくれればいいんだよ! ヒーローは人々のためにもっと活躍するべきだって」
「そんなこと、私に出来るわけないでしょ。巴ならまだしもさ」
「私にも出来ないと思うな」
「じゃあ言うなっつーの」
何故か恥ずかしそうに笑う巴に、英華は苦笑いで応える。
「そうだよね。つまりさ、今の自分が出来ることをやるしかないんじゃないかな? 私はHSCOのヒーローとしているわけだし、そのルールに則って活動するしかない。英華はその点自由なんだから、好きに皆を助けていいんだよ! 深雪に何を言われてもさ!」
巴の光輝く眼と予想以上の声量に、英華は少し戸惑ってしまった。幸いにも店内がそれなりに賑わっていたため、そこまで変な目で見られることはなかったが、近くに座っていた客は訝しげに様子を窺っていた。
英華が人差し指を口に当て静かにするようジェスチャーを送る。巴の慌てて両手で口を隠す仕草は、アイドルが意識してもそう易々とは出来ないだろう。
「まあ、元よりそのつもりだったけどな。——でも珍しいな、巴が私の行いを善しとするなんて。いつもは止めなさいばかりで認めちゃくれないのに」
英華が片肘をついてもう片方の手でコップを掴み、水を飲んでから何気なく訊く。
「うん、今だって本当はそんなことしないでほしいって思ってるよ。でも英華は何度言ったって止めないもん。だったら友達として英華のやっていることを応援しようかなって」
「なるほど。ってことは、これからはバンバン怪人を殴り倒して良いってことか? 周りを気にせず堂々とさ」
「そういうことじゃないよ! というか、周りの目なんか気にしたことなかったでしょ? ——それで何回も私気まずい思いしてるんだから——英華には私たちには出来ないことをしてほしいの。『本当の意味での人助け』をね」
巴の真面目な顔から語られる強い意志に、英華は「努力するよ」と飄々と返す。
本当の意味での人助けをするために努力するのか、本当の意味での人助けを努力するのかは、英華の相貌からは掴めない。
「何か久しぶりに真面目な話したな。らしくないって言うか、むず痒いな」
肩を擦りながら苦笑いをする英華に、巴は同じように笑って同意した。
「あはは、そうだね。じゃあそろそろ行こっか! 次どこ行く?」
「は? 家に帰るんだろ? で、夕方までのんびりするんだよ」
親友の予想外な発言に、英華は素っ頓狂な声で抗議する。
「えー、折角外に出たのに何もしないで帰るなんて勿体ないよー」
「折角の休日をのんびり過ごさない方が勿体ないと想うけど」
「いいから、どこか遊びに行こ! あっそうだ! 服買いに行こうよ!」
「えー、ゴスロリは私に似合わないと想うんだけどなぁ……」
「いやいや、さっきの人を引きずり過ぎ……」
軽い冗談を言い合いながら、巴は伝票をもって立ち上がった。バッグを掴み取るとレジへと向かう。英華も立ち上がり、先に店の外で待っているかと考えていた。
——が、ふと目に入ったのは巴がこの席に座るまでしていたマスクと帽子だ。今後の予定などを考えていてそこまで頭が回らなかったのだろう。どうやら置いたまま忘れていったらしい。
「ん? あれ? 巴忘れ物——」
英華はそれらを掴み上げると、離れていく巴に声を掛けようとした。
「れれれれ、レプシーにゃんですよね!! ああああ、握手してもらって良いですか!」
しかし、時すでに遅し、英華の声は巴の正体に気付いた客一人の店内に轟く大音声によって塗りつぶされる。
その声に中てられて周りの客や店員たちも、なんだなんだと集まっている。
巴もそこで初めて忘れ物をしたことに気が付いたようだった。恥ずかしそうに顔を下げ、無いはずの帽子を深く被る仕草をする——まるで猫の毛づくろいのようだ。
「レプシーにゃん! 写真良いですか?」
「レプシーにゃん! 変身してもらえます!?」
「レプシーにゃん! にゃんって言って! にゃんって!」
人混みが厚くなっていく中、あわあわと混乱している巴は、助けを求めるように英華を見る。ファンたちの顔と顔の間から時折見える英華の顔は、何故だか笑顔だった。それも巴に意地悪をしている時に見せる小悪魔的な笑顔である。
あの友人は頼りにならない、そう判断した巴は叶えられる限りの要望に応えつつレジまでたどり着く。やはり変身を望む声が多かったが、怪人のいないところでの変身はHSCOより原則禁じられている。自衛や許可を得ない限りむやみやたらに変身することは出来ない。丁重に謝りつつ握手や写真にて応じた。
やっとの思いで会計を済ませた巴は、店内の全員に手を振り笑顔で別れを告げる。
「レプシーにゃんは大人気だな。ほれ、マスクと帽子」
逃げるように退店した巴の前には、いつの間に抜け出していたのか、何の役にも立たない傍観者が待ち構えていた。
「助けてよ! もう、くたびれちゃった」
ファンには悪いと思ってはいるが、しかし気疲れをしているのは事実。力なく英華の手から忘れ物を受け取ると、これ以上お祭りを開催したくないため急いで身に着ける。
「いつもアイドルレプシーにゃんはテレビ越しでしか見たことなかったからさ。本物のレプシーにゃんの仕事ぶりを見てみたくって」
英華はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべる。巴はむすっとしかめっ面を拵えるが、いつも通りの英華の様子に、そしていつものやり取りに何故か心底ほっとする。
やはり先程のような真面目な会話は二人には合わない。こうやってふざけ合うのが最も性にあっていると思えた。
「今はレプシーじゃないよ。英華の親友の心坂巴でしょ?」
「——んー。そうだったな」
小さくはにかんだ英華はくるりと踵を返す。巴も小さく、そして嬉しそうに笑い、英華の横へ駆けて行った。
次の目的地は英華の服を買うため近くの服屋へ行こうと考えていた。大きいデパートの方が品揃えが良いので出来ればそちらに行きたいなぁ、と巴は考えるが、そのデパートに行くための服がない。流石にこの服でお洒落の最先端の街へ出向くわけにはいかないだろう。
どの辺りにあっただろうか——周りの店を伺いながら歩いていると、巴のバッグから何かが鳴った。
「巴の携帯じゃね?」
「え? 私? あっ、本当だ……」
巴はバッグから取り出した携帯電話を睨みつけて、一等鬱屈そうな顔をする。先程まで楽しく会話をしていたのに水を差された故、不機嫌な顔になったのではないだろう。何故ならその音の発信源は、巴が個人的に所有しているピンク色を基調とした見た目が明るい携帯電話ではなく、黒一色の無骨なそれだったからだ。その携帯電話は仕事用に渡されていたものだ。
事前に休みを申請している中で、アイドル関係の仕事の電話がかかってくることはまず無い。それ程急を要する内容が発生しえないからだ。だがもう一方の仕事であれば、緊急な連絡などむしろ日常茶飯事である。
今回の連絡も恐らくそういうことなのだろう、と瞬時に判断したからこそ、巴は悲憤慷慨としているのだった。
「って、あれ? 凄い数の着信来てる……」
「あぁ、ウチを掃除してた時に喧しく鳴ってたな」
英華は数時間前のことを想い出し、事も無げに告げる。
「それ言ってよ! 大切な連絡かも知れないでしょ!」
巴は再び子どもを叱りつけるかの如く、厳しすぎはせず、されど確実な叱責を英華へ向ける。
先程の報せはどうやら電話ではなくメールを受信したことの通知だったようだ。巴は流れるような動作でメールを開く。
その時英華が何かを言っていたような気がしたが、小さすぎて聞き取れない上に、どうせ何か文句を言っているだけだろうと判断した巴は、それに触れることなく携帯電話を操作する。
「…………」
その顔は真剣そのものだった。英華との真面目な討論ですら見せなかった険しい顔だ。それでも愛嬌のある可愛い顔立ちだと好評価に値するのは、流石アイドルをしているだけある。
「どうしたん?」
珍しい巴の表情に何かよくないことが起きているのだと察した英華は、お遊びは止めて誠実に訊ねる。それでもあからさまな外れた調子の声は、ことを深刻な雰囲気にさせないための英華なりの気遣いだろう。
「ごめん英華。急な仕事が入っちゃった。お買い物はまた今度で良い?」
携帯電話をバッグにしまうと、巴は両手を合わせて謝罪をする。
「あぁ、しょうがないだろ。私一人のために救える命を投げ捨てるわけにはいかないしさ。それに服なら巴のお下がりでも良いかなって想ってきたところだし」
英華は自分自身の感情を極めて巧妙に隠して言った——己すら騙したという方が適切か。本当は巴と遊びたいんだ、などと口が裂けても言えない。
「じゃあ次は私の服を着てショッピングね! それじゃあ私急ぐから。——いい? 英華は家にいて、避難警報が出たらちゃんと指示に従うんだよ? 分かった?」
巴の子どもを諭すような言い草に、英華は「私も自分なりに戦って良いんじゃなかったのか?」と意地悪のつもりで嫌らしく答える。
「そう言うことじゃないの! 英華の仕事は『本当の意味での人助け』なんだから。いいから家でじっとしてるんだよ!」
「はいはーい」
後ろを見ながら大声で駆けていく巴に、英華は大きく手を振り拗ねた子どものように言った。
英華は巴が見えなくなるまでその場でじっと立ち尽くす。そしてようやく——名残惜しそうに——巴とは逆方向——自宅方向へと歩き出した。
英華はゆっくりと歩き、且つ寄り道をしてようやく家に着く。閑散とした家へにある無機質な時計は、あれから二時間経ったことが刻まれていた。先程まで暖かく感じたこの部屋も、何故だか今は寒く感じる。
気のせいだ、英華は自分の愚かな錯覚を鼻で笑い、ベランダへと向かう。一人暮らしとは思えない洗濯物の量が干されており、とてもくつろげるような状態ではない——そもそも陰鬱とした裏路地は、眺めるだけで落ち込んだ雰囲気にさせる。くつろぐためのスペースとは想えない。
英華はその洗濯物が付けられているハンガーを持つと部屋へと干し直した。
「昔干しっぱにしてたら酷い目に遭ったしなぁ」
過去を想い出しやる瀬ない脱力感に苛まれる。折角巴が洗ってくれた洗濯物を、自分以外が原因で汚すわけにはいかない。英華は同じ失敗を繰り返さないぞ、と頷いて洗濯物をしまい終えた——と同時に。
人間には受け入れることの出来ない不愉快な音声が鳴り響いた。それは緊急避難警報だ。この音が鳴るのは人類の敵が現れた時。きっと巴が出動した理由と同じだろう。
「やっぱ来たか……さてと……」
ため息交じりに一区切りした旨を口にすると、感情の一切を殺した無表情で玄関へと向かう。
そして——
「行くか」
警報鳴り響く街中へ向かって、英華は歩き出した。
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