永遠を彷徨うコンドルの噺-7-

 言い知れぬ恐怖を感じていた。

 すぐにでも逃げ出したい思いはあるのに、手足を縄で縛られていた。助けを求めようと藻掻くのに、口になにかの葉を噛まされて、叫ぶことすらできないでいた。

「外よりいづる、イカヅチの神に守られた民……。白き人々の訪れで、私達の世界は変わってしまった」

 使用人の内の一人が、厳かな口調でそう話す。

「太陽の神を始め、古きインティの神々は、もはや我々を守らない」

「生きるために、古き神々と決別しなくては」

「古き神々を鎮めるために、最上の供物を捧げなくてはならない」

「──インティの王の血を継いだ、太陽の神の子の生命を」

 とぷんとまた一つ、水音が脳裏に響く。

 恐ろしく澄んだその泉に、他の生命いのちの姿はなかった。何が何だか分からないまま、ヨセフは月光を湛えるその水面を、捧げられた供物の大きさだけ乱れた波紋を、、ただ声もなく見つめていた。

 冷たい水に侵されて、縛られた手足から力が抜けた。呼吸を求めて口を開くのに、彼に与えられるのは、その神聖な泉の湛える水だけであった。

 うつろな視線を彷徨わせれば、きらりと光る黄金があった。母が投げ捨てた太陽の紋だ。ヨセフは縛られたままの手を、しかしその光に向けて延べた。その時、ふと、知らぬ男の声を聞いたのだ。

──久しぶりだね、コリンカチャ。……おや、違うな。よく似ているが、別人だ。それがどうして、こんなところへ迷い込んでしまったのやら。

 男の問いに、答えることはできなかった。ただぼんやりとした意識の中で、ヨセフはその声を聞いていた。

──そうか。地上では、が終わったんだね。だからこそお前達は、最後の王の子を殺すことに決めた。……だがここで、死なせてしまうのはどうにも惜しいな。お前のもう一つの運命は、なかなかどうして、魅力的だ。

 男の声は笑っていた。水底に横たわったヨセフは、己の頬に触れる柔らかな感触に、そっと目を開く。

 そこに黄金の光を見た。黄金の毛に覆われた、気高きコンドルのその姿を。

──我が友人との縁もある。お前がそれを望むなら、の世界を見せてあげよう。……なあに、気にすることはない。ほんの少しところで、悠久の時の流れの中では、瑣末な違いなのだから。

 何のことかはわからなかったが、ヨセフはそれでも頷いた。

 そうして気づけば彼は、まるで何事もなかったかのように、己の寝台で眠っていた。その晩のことは何もかも、夢であったかの様子であった。だが目覚めたヨセフの胸元には、母が投げ捨てたはずの首飾りが輝いており、──ヨセフのその姿を見た数人の使用人達は、翌日、職を辞すると共に、クェスピ領の北の森で、自らの手で命を絶った。

(あの日から俺は、インティにも、征服者にもなりきれないまま、……)

 マンチャシ山脈に、赤い夕日が迫っていた。二条の川を渡り、クェスピ領のある盆地を臨む。刈り入れを終えた畑を突っ切るように駆け、領内に、違和感がないことを確認する。どうやらカイニパの話した審問官達の影は、クェスピ領に至ってはいない様子である。ヨセフは馬の脚を緩め、自らも呼吸を整えると、深く安堵の溜息を吐く。しかし、──やっとのことでたどり着いた自宅で、彼は厩舎きゅうしゃへ向かえぬまま、棒立ちになって戦慄した。

 裏庭に煙が立っていた。見ればヨセフの父が苛立たしげに、何かを炎に放っている。焚き火のようだが、おかしいとすぐ知れた。土地は有り余っているのだから、屋敷の敷地内で落ち葉を燃すわけはなく、ただ落ち葉を燃すだけなら、あの父が、手ずから火を扱うわけもない。

 実際のところヨセフは、そこで燃えているものが何であるのか、既に理解していたのだ。理解はできていた。だが、信じたくはなかった。ヨセフはごくりと唾を飲み込むと、「父さん、」と父親に語りかける。

「ああ、帰ったのか」

 無関心を装う、冷たい父の声。彼の手には見間違うはずもない、──ヨセフがこれまでインティの伝承を書き留めてきた、ノートが握りしめられている。

 ヨセフが駆け寄るのを見て取るや、父の手が、最後のノートを放り投げる。ヨセフはそれへ手を伸ばそうとし、しかし火の粉に阻まれて、掴むことを断念した。

 ぱちぱちと火がぜていた。細かに綴ってきた文字が、赤い火の中で燃えている。

「あれは、……あそこで燃えているのは、全て俺のノートでしょう。どうして、」

「どうして? ──それは、こちらの台詞だ」

 怒気のこもったその言葉に、ヨセフの肩がぎくりと震える。同時に父の拳が、ヨセフの頬を強く打った。怒りに満ちた父の視線が、ヨセフの自由を支配する。

「近々審問官が尋ねてくると言うから、念の為に家の中を見回ってみれば……。最近部屋にこもることが多いとは思っていたが、何だ、これは。現地民の歴史? 宗教? こんなものを書き連ねて、一体何をするつもりだ。何のためにこんなものを、」

「何かのためじゃ、ありません。俺はただ、──、」

「残す? 野蛮な現地民共の語る、伝説だか事実だかの区別もつかんこんなものを? 残して一体何になる! 現地民共の祀る神の言葉だの、風習だの、こんなものを審問官に見られたら、すぐさま異端者として告発されるぞ。お前は、俺の顔に泥を塗りてえのか!」

 ぱちぱちと音を立てて炎が爆ぜ、ヨセフのノートを飲み込んでいく。殴られた頬が、鈍い痛みに疼いていた。それでも衝動を止められない。羽織っていた外套を炎へ被せようとし、それでも勢いが弱まらないのを見て取るや、なにか火を消す手段がないかと、咄嗟に辺りを見回した。父の背後に井戸がある。ヨセフはなりふり構わず父を突き飛ばすと、井戸の釣瓶つるべに手をかけた。

(燃えてしまう、これまでに書き留めてきたもの、──全てが!)

「……ヨセフ! お前、父親に向かって何をする!」

 突き飛ばされ、尻餅をついた父が立ち上がり、ヨセフの襟首をひっつかむ。息が詰まって声なき呻き声を上げたヨセフの一方で、切り裂くような悲鳴上げたのは、女の声であった。

「ヨセフ、……ヨセフ! ダンナ様、いったい、いったいナニがあったのですか」

 なまりのある、片言の白き人々の言葉。別邸の方角から、駆けてくるのは母の声だ。彼女を巻き込んではならない。そう思うのに、父の太い指に首を締め上げられ、声を上げることすらままならない。呼吸をすることもできず、意識はちかちかと揺らめいた。

「おネガイです、ヨセフが気にサワることをしたなら、私が謝ります。どうか、どうか手をハナしてください、ダンナ様──!」

「煩い! その下手くそな言葉で話すな!」

 父が片手をヨセフから放し、まとわりつく母のことを突き飛ばす。それでようやく呼吸を取り戻したヨセフは、咳き込み、いまだぐらぐらと巡る視線をさまよわせて、──その光景に息を呑んだ。

 父に突き飛ばされた母が、炎の傍に倒れ込んでいた。ヨセフのノートを揺らめかせる、その大きな炎の傍らへだ。爆ぜる火の粉は見る間に宙を舞い、一瞬の後に、──

 倒れた母のその衣服に、音を立てて燃え移る。

「──母さん!」

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